侵入者を想定していなかったのか、妨害魔法の
室内の体感温度は15度前後で、レティシアの予想通り、温度、湿度の状態を一定に維持する魔法が施されていた。
エディウスが照明用の発光石を浮遊させると暗闇に光が灯り、室内の様子が露わになる。
もし、レティシアが前世で毒蛇の研究をしていなかったら、この瞬間、叫び声をあげていたかもしれなかった。
壁一面に備え付けられた棚に大量に並んでいたのは、透明な瓶のなかで保存液に浸された毒蛇たち。
その中には、骨格だけになったモノもあれば、臓物にされ部位ごとに浸されたモノ、ただブツ切りにされたモノまである。
レティシアは棚に近づき、そのひとつを手に取った。
「ジャガースネークだわ」
3歳の洗礼式でエディウスが襲われ、その毒牙を受けたレティシアは生死を彷徨った因縁の蛇である。
さらにはその6年後、皇后エリスが主催した御茶会で、当時12歳の皇太子サイラスを急襲した毒蛇でもある。
ここに同種の蛇がいるのは、偶然とは思えなかった。
ほぼ決定的な証拠といいたいが──これだけじゃ、ダメだわ。
皇太子サイラスを襲撃した当時の毒蛇は死骸すらなく、子爵令嬢シモーネが否定すれば、云い逃れられてしまう可能性が高い。
もっと、何か──
大量の液浸標本に囲まれながら、注意深く室内を調べていくうちにレティシアはいつしか、前世『柊アンナ』として実験に明け暮れていた日々の思考に戻っていた。
絶対に、あるはずだ。
これだけのサンプルを必要とした研究
子爵令嬢シモーネが、柊アンナと同じ研究者気質であったならば、たとえ証拠になりうる記録だったとしても絶対に処分しないだろう。
それさえ見つかれば、前世おなじく毒蛇の研究者であったレティシアなら、記録過程からこれが『毒蛇の調教』を目的とした研究だったと証明ができ、研究
しかし、反転した書棚に並べられた書物をすべて調べても、小部屋のなかを念入りに捜索しても、研究
研究
前者なら、広い保管室が必要だし、もし後者なら、この部屋にあるどれが記録媒体だろうか。記録媒体らしき道具を、手当たり次第に持ち出すわけにはいかない。
ここでレティシアは、
見習い期間中、魔毒士長バラクスの書類を持って訪れていた魔具士たちの製作室。
そこでは『
蓄積できる記憶領域は、土台となる宝玉や遺物の価値によってちがうが、共通していたのは、そのどれもが指輪や首飾り、腕輪や耳飾りなどの装身具に加工されていたということ。
つまり──
もし、シモーネが研究
「エディ」
同じく特務機関の魔具士が作った
「どうした?」
レティシアの見解にエディウスは、「そういうことか」と納得しつつ、「ちょっと、これを見てくれ」と、雑然とした机にレティシアを連れていった。
机上には、薬草を調合する際に使用する器具が散らばり、その周囲には葉や根の残骸。
枯れた葉を手にして鼻に近づけたレティシアは、その独特な甘香に眉を寄せた。
「桃華蘭だわ」
シモーネが、ここで媚薬を精製していたのは間違いない。
「急いでアシスに戻った方がいいみたいだな」
エディウスの言葉に、レティシアは頷いた。
首都アシスに急ぐ理由は、シモーネが持っていると思われる
花弁から抽出した液体状の媚薬の効果は、精製してから約半年。
隠し部屋に残されていた枯葉の残香から、今シーズンの社交界に参加するシモーネが、領地を離れる直前に抽出したのは間違いない。
中毒性が非常に高い桃華蘭の媚薬は、どの国でも取り締まりが厳しく、もし皇国内で使用された形跡があれば、特務機関にも一報が入るはずだ。
今のところ、皇宮でも城下でも、媚薬による被害をレティシアは耳にしていない。
とういうことは、もしシモーネが何かしらの計画を実行するために媚薬を精製し、携帯しているのであれば、効能が切れる前に使用する可能性は極めて高い。
そうなれば、近日中に首都で何かが起きる。
それは、昨日だったかもしれないし、今日、明日かもしれない。
騎乗する馬の背で、レティシアの額に汗が浮かぶ。
今一番、シモーネの近くにいるのは、兄ロイズ。
媚薬の力に抗うことができずに、ジハーダ王国とスフォネ家の陰謀に加担させられてしまったら……
絶望する兄の顔など見たくはない。
心優しい母と過保護すぎる父の悲しむ顔も、レティシアは見たくはなかった。