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第10話




 静かな夜だった。雲が夜空を覆いつくし、月も星も見えない。



 議会場から屋敷に戻ったとき、家令から知らされた『ジオ・ゼア逃亡』の一報。それからレティシアは、ずっと自室に篭っていた。



 心配そうに声をかけてきた兄ロイズには「大丈夫、疲れただけだから」と扉越しに返事をして、ふたたび寝台にうつ伏せになる。



 後悔に押しつぶされそうだった。あんなにも頻繁に会っていたのに、ジオ・ゼアがどこに行ったかは、皆目見当がつかない。



 棲家はどこなのか。皇宮なのか、それとも首都のどこかにあるのか。ひとり暮らしなのか、家族はいるのか。親しい人はいるのか。頼れる存在はいるのか。



 肝心なことは、何ひとつ聞けていなかった。



「だって、急に居なくなるなんて思わなかったんだもの」



 黒衣の魔導士に、もう二度と会えないような気がして、レティシアの胸がズキズキとむ。頬をつたう涙は、止まりそうになかった。



 会いたい。ジオ・ゼアに、もう一度——



 バルコニーに面した窓から、わずかな音がしたのはそのとき。レティシアが顔をあげるよりも早く、優しく髪が撫でられた。



「こんばんは、お嬢さん。今夜は月が見えないね。あれ、もしかして、僕のために泣いていたの?」



 その声に、勢いよく起き上がったレティシア。



 寝台の傍らには、もう一度会いたいと願ったばかりの魔導士が、片膝をついていた。腫れた左頬は痛々しかったが、至近距離にある金色の瞳は、いつもどおりの優しい眼差しだった。



「ジオ・ゼア!」



 気が付いたときには、その首筋に両腕を回して、力の限りに抱きしめていた。この魔導士の存在が、自分のなかで思いのほか大きくなっていたのだと思い知らされる。



 貴族ではなく、かといって只人でもないジオ・ゼアは、どこか浮世離れしていて、異世界転生を果たした自分と同じく、ここではないどこか遠い場所からやってきたのではないかと思うことが度々あった。



 だからこそ、『逃亡』の一報を聞いたとき、この魔導士がもう手の届かないどこか遠くにいってしまうと感じたレティシアは、無性に寂しくなったのだ。



「会えてよかった」と顔を埋めて泣きじゃくるレティシアの背に、大きな手が添えられ、トントンと宥めるように優しいリズムを刻む。



「そんなに泣かないで」



「だって顔が……痛そうだわ。殴られたのね。腕に傷だってあったもの……」



「大したことないよ。むかしはもっと酷かった。それに、自分で捕まったようなものだから」



 やはり、そうなのか。



「どうして、ジオ・ゼアが犯人扱いされないといけないの?」



「ごめんね。いつか話せたらいいんだけど」



 理由を云わないジオ・ゼアの首筋から顔をあげたレティシアは、腫れた左頬にそっと手を当てる。



「やっぱり、痛そうだわ」



 これ以上追及しても、ジオ・ゼアを困らせるだけなのだろう。



「じっとしていて——」



 ありったけの優しさを込めた回復魔法が、左頬を癒していく。



「もう、痛くない?」



「ありがとう。やっぱり、お嬢さんの魔法はすごく心地良いね」



「これから、どこに行くの?」



「ごめんね。それも、云えないんだ」



 答えは期待していなかった。いなかったけれど——わかっていたとはいえ、レティシアの胸はまたズキリと痛んだ。



 結局、何もわからないままだ。



「そろそろ、行かないと」



 腰をあげたジオ・ゼアの黒衣を、無意識にレティシアは掴んでいた。この魔導士を引き止められる材料など、何ひとつ持っていなかったけど、あと少し、もう少しだけと、聞き分けのない子どものふりをしてすがりつく。



「待って、待って、ジオ・ゼア!」



「何、もしかして僕と行きたいわけ?」



「…………」



 悪戯に細められた金色の瞳を前に、ゴクリと息を飲んだ。



 しかし——



「変に考え込まないでよ。本気にしちゃうよ」



 クスリと笑った魔導士は、すでに腰をあげていた。



「でも、そうだな……お嬢さんのことはわりと気に入ってるんだ。だから、魔毒士の試験に合格したら会ってあげてもいいよ」



 高い位置から見下ろしてくるジオ・ゼアに、レティシアは口を尖らせる。



「偉そうだわ」



「僕、特級魔導士だよ。偉そうじゃなくて、偉いの」



 その言葉に、レティシアの顔が曇った。



「称号も階級も、剥奪されるって聞いたわ」



「いいさ、べつに。聖印が消えるわけじゃないしね。それに……奪われたものは、奪い返せばいいだけの話」



 そうかもしれない。そうかもしれないけど——バルコニーに視線を向けたジオ・ゼアを見て、今度こそ別れの時がきたのだと、レティシアは悟った。



「ちょっとだけ、待っていて」



 引き留める材料はないが、持たせるものは大量にある。



 寝台の下から、ジオ・ゼアに手伝ってもらって大きな木箱を取り出す。



 次に戸棚から大きな瓶詰を取り出すと、中身を携帯用の革袋がパンパンになるまで入れて、「はい、これ」とジオ・ゼアに渡した。



「これは、なに?」



 怪訝な顔をする魔導士に、つづけて革袋の数倍はある大きな麻袋を押し付ける。中身は、木箱から取り出した大量の薬草だ。



「わたしが経営する薬草園で一番人気の詰め合わせよ。鎮痛用、胃腸用、外傷用、消炎用、滋養強壮、それから風邪薬。1か月分の組み合わせが全部で10袋入ってる。革袋の方は、わたしの魔力を練り込んで調合した『魔薬』よ。魔力や体力の回復に役立つはず」



 革袋と麻袋を抱えたジオ・ゼアは、目を丸くした。



「もしかして、今、冒険者たちの間で噂になっている薬草園って、お嬢さんのところだったの?」



「ご名答。まぁ、わたしは研究ばっかりしていて、経営はお兄様に任せっきりなんだけどね」



「これ、本当に貰っていいの? アシスでは、かなりの高値で取引されているって聞いたけど」



 そうか、この手があったか。レティシアは、ひらめいた。



「いまはこれだけしかないけど、今度、わたしに会いに来てくれたら、この倍は渡せるわ。もちろん無償よ」



「太っ腹なお嬢さんだな。場合によっては早急に会いたくなるかも」



「そうして欲しいからあげるのよ。魔薬の方は、まだ治験段階だから、用法容量を間違えないようにしてね」



「わかった」



 服用方法の覚書をレティシアから受け取り、革袋を黒衣の下に入れた魔導士は、麻袋を肩に担ぎ、バルコニーで振り返った。



 金色の瞳を優しく細め、



「ねえ、お嬢さん……いつかまた、月が綺麗な夜に会いにくるよ」



 そんな言葉を残して、ジオ・ゼアは闇夜に消えた。







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