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第9話



 静寂が戻った湖畔には、今しがたの出来事が信じられないといった表情の令嬢や、腰を抜かしてすすり泣く令嬢たちがいた。



 彼女たちは拠り所を求めるように、自然と老樹の枝の下に集まっていた。わずかではあるが、聖樹から伝わってくる『生命の力』が、心を落ち着かせてくれるのだろう。



 そんな状況のなか──エディウスはいまだに警戒を緩めることなく魔力を両手に留めたまま、湖面を睨んでいる。あっちは、まかせて大丈夫そうね。



 頼りになる攻撃系魔法の使い手に、無いとはいえない第三の攻撃に備えてもらっている間、レティシアは桟橋でトグロを巻くヒギエアのもとに急いだ。



 そこには、震える足で踏ん張りながら「殿下! サイラス殿下!」と声を張り上げる者がいた。おそらく彼が、以前、母さまが云っていた『サイラスの殿下の側近』であるバトランダー伯爵家のルーファスだろう。



 殿下に対して物怖じすることなく意見する毒舌家で、かなりの切れ者らしい。そんな彼は今、どこから持ってきたのか、細い木の枝を手にしてヒギエアに立ち向かっていた。



「で、で、で、殿下を解放しろ──」



「シャァァァッァ!!」



「ヒィィィッ!」



 残念ながら、白大蛇が相手では、日ごろの毒舌も切れ者ぶりも鳴りを潜めてしまっているようだ。レティシアは膝をガクガクさせているルーファスの背中に声をかけた。



「あの、ルーファス卿……」



 なるべく驚かせないようにしたつもりだったが、ヒギエアを前にして極度の緊張状態だったせいか、



「──ッ、ギャァッ!」



 ルーファスは、レティシアの声に1メートルほど飛び上がり、着地に失敗。派手に尻餅をついた。



「前を失礼しますね」



 切れ者と名高い側近のドタバタぶりを見なかったフリして、そのまま通り過ぎたレティシアは、ヒギエアの前に立ち「ごくろうさま、戻って」と合図を送る。



 真っ白な鱗が光を放った直後。白大蛇の姿は消え、レティシアの右手首には腕輪が戻った。



 そして、ヒギエアが消えた跡には──蒼白な顔で膝をつく、皇太子サイラスいた。その姿を見たレティシアの眉間に、シワが寄る。これは……緊急事態だわ。



 こっちは、見て見ぬフリができない。なぜなら、皇子様の股間が、非常にマズイことになっていたからだ。皇太子殿下の緊急事態。それはつまり……失禁である。



 今のところ、気が付いているのはレティシアと皇太子サイラス本人だけだろう。失禁の理由はおそらく、ヒギエアだ。



 前世から蛇を見慣れていたレティシアとはちがい、黒蛇の襲来につづき、防御のためだったとはいえ、突然現れた白大蛇に迫られたあげく、12歳の少年がトグロの中心に閉じこめられたら──それは失禁しても仕方がないのかもしれない。



 こちらの配慮が足りなかった感は否めず、反省するレティシアの前で、ポロリとサイラスの手から落ちたものがある。サファイヤのように美しい紺碧色の守護石がはめ込まれた短剣。



 ああ、この魔石が護っていたんだわ。



 強力な守護の魔力を感じ、レティシアは納得した。100匹以上の大群だった黒蛇の初撃。エディウスが火炎弾で半数を仕留めたとはいえ、残りはサイラスに向かっていた。



 レティシアが見たところ、サイラス自身の魔力はそれほど高くはない。にもかかわらず、負傷している様子がないことから短剣の柄にある守護石が力を発揮したのだろう。



 短剣を拾い上げたレティシアは、膝をつくサイラスの前で、同じく膝をつきながら、そっと下衣に指先を触れさせ、『速乾』の魔法を唱えた。



 だれにも気が付かれてはいけない。皇太子の『おもらし』なんて。皇室の威厳にかかわるし、その前に同年代の淑女たちが多くいるなかでバレたら……少年が可哀相すぎるではないか。



 魔法において戦闘系や回復系などの特化魔法に対して、日常系魔法がある。



 日常系とは、いわゆる魔石に貯めた魔力で行う生活魔法のことであり、特化魔法とは属性からして大きく違う。それ以外にも、対象に対して非接触か、そうでないかでも分けることができた。



 対象に非接触で、近中距離攻撃、回復術を発動できるのが特化魔法。それに対して日常系に代表される生活魔法を魔石なしで発動させる場合、対象物への接触が必要とされる場合がほとんどだ。



 サイラスの下衣を乾かすためにレティシアが使った『速乾』の魔法もそのひとつ。乾いたのを確認したレティシアは、俯くサイラスに手を差し出した。



「殿下、立てますか?」



「…………」



 無言のサイラスに、さらに手を伸ばしたときだった。



「……さ、さわるな!」



 レティシアの手が、強く弾かれた。つづけて、サイラスの声が響く。



「この薄気味悪い──ヘビ女!」







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