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第9話



 どこからきたのか、無数の白鳩が、渦巻く清水の上を飛びはじめた。翼を傾け、けっこうギリギリを飛行する白鳩を白波が襲いはじめている。



 これって、マズイんじゃないの。魔力を抑え込まないと——レティシアは無意識に、頭上にかかげていた手のひらを握りしめ、ゆっくりと肘を下げていく。



 胸の位置までおろしたとき、目の前には、光の柱はそのままに、渦巻いていた清水が凝縮され、おそろしく高密度になった球体があった。



 ここにきてようやくレティシアは、自分の身体のなかで生まれ、血のように全身に流れている魔力を感じはじめていた。おそらくだが、握りしめた両拳をひらけば、この球体は勢いよくはじける予感がする。



 どうしようか……想像を絶するような高水圧が、祭壇の下にいる人たちを襲ったら……水圧を分散して放出できるような方法は、何かないだろうか。



 あっ——コレだっ! 現代日本の薬学研究者の頭脳を持つ、レティシアはひらめいた。流体静力学! パスカルの原理だ!



 現代日本で大学生だったころ。



「こいつは、本物だ」と誰もが認める物理学の天才がいた。ファンタジー好きの彼が、常日頃から語っていたのは——



「柊アンナ、キミは理解できるだろうか。科学者とは、イマジネーションの塊であるべきだということを。最先端の科学と最高の創造力が融合したとき、魔法が生まれるのだ!」



 彼は本気だった。



「僕はいつか、偉大な魔法使いになる!」



 これにより彼は、天才でありながら異端児として、科学界からは白い目で見られていたのだが……



 その言葉が今、異世界にてレティシアを救おうとしていた。制御しきれない魔力が、いつ暴発してもおかしくない状況で、レティシアが想像したのは、パスカルの原理に基づく『シャワー構造』だった。



 パスカルの原理とは、それすなわち、【 密閉空間+流体+分子静止=等しい水圧 】であるからして!あとはイメージだ。大量の清水が密閉されたこの球体に、どれほどの個数の穴を開けるか。それにより水圧が分散される。



 巨大なシャワーヘッドをイメージしたレティシアは、意識を集中させると右手と左手の握りこぶしを、慎重に開きはじめた。



 白鳩が、レティシアと呼吸を合わせるように球体の周りから一気に群衆の方へ向かって飛び立つ。それと同時に、魔力を帯びた清水のミストが、群衆の頭上に降り注いだ。霧状になった水分子が、風にのって空気中を漂っていく。



 レティシアは胸を撫でおろした。



 まあ、最初から上手くいくワケないか。



 イメージしていたシャワーの水圧とはだいぶ違うが、結果的にはこれで良かった。祭壇の下にいる群衆は、誰ひとりとしてビショ濡れになることなく、大きな口を開けて太陽にキラキラと輝くミストを眺めている。



 しかし時間の経過とともに、祭壇の下は徐々に、冒険者たちを中心に騒がしくなった。



「古傷がっ! 治ってる!」



「俺もだ! 魔物にやられた傷痕が消えた!」



「嘘でしょ! わたしの指が……元に戻ってるわ!」



 祭壇の前方から後方に向かって、どんどん広がっていく驚きの声。



 それは空気中のミストの広がりと比例していて、それに気づいた者たちはレティシアに歓声を送った。



回復士ヒーラーだ! しかも再生回復士ハイヒーラーだ!」



「ゼキウスの娘には、回復系の特化魔法があるぞ!」



 歓声が大歓声に変わったとき、神官が宣言した。



「汝、レティシア・アンナマリー・スペンサーは、神に癒しの祝福を与えられし者なり!」



 そのとき、またどこからか、色とりどりの花をくちばしに加えた鳥たちがやってきた。上空を旋回しながら、次々と花を落としていく。



 鮮やかな色彩の花弁がレティシアの頭上に振ってきたとき、群衆の盛り上がりは最高潮となった。花でいっぱいになった祭壇。



 まるで聖女でも崇めるようにレティシアを拝む人々の前で、ミストの放出は進み、球体が小さくなるにつれ、光の柱も細くなり、ついには霧散した。



 光の粒子が空に消えていくのを見ながら、1番前で儀式を見守っていたスキンヘッドのガイウスは、瞳から大粒の涙をポロポロッと流す。



「ありがとようぅ。また両目で空を見られる日が来るなんて……」



 魔物との闘いにより、光を失って久しいガイウスの右眼は、美しい緑の瞳が輝いていた。それを見て、「良かった」と心が浮き立つのを感じていたレティシアの前に、恭しく神官が進み出てくる。



 いよいよ……か。



 ゴクリと、レティシアの喉が鳴った。



「神より祝福を受けし魔力を宿す者——レティシア・アンナマリー・スペンサーを加護する精霊よ! 今こそ、その姿を現せ!」



 洗礼者を加護する精霊の具現化は、洗礼式のクライマックスである。おのずと神官の声にも力が宿り、手にした杯からは、ふたたび清水が溢れ出した。



「さあ、ここへ。汝が与えられし守護石を浸したまえ」



 いったい、どんな高位精霊が現れるのかと、群衆の目が期待に満ちていく。



 もう、覚悟を決めるしかない。えーい、ヤケクソだ! 鬼でも蛇でも出てこい!



 わきあがる清水のなかに、レティシアは右手首の腕輪ごと——ドボンッ、と突っ込んだ。






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