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第3話



 再度、状況を整理するしかなかった。



 ここは現代日本ではない。幼くなった自分は「レティシア」と呼ばれ、毒に侵されている。右手に握られているのは、まぎれもなく『抗毒血清』の容器。



 これらを踏まえた異常な状況のなか、アンナが導き出した答えは、とても非常識なものだった。ありえてはならない事象だけど、ここは——並行世界、いわゆる異世界パラレルワールドなのではないか。



 とある著名な物理学者は云っていた。



『なぜ、科学者たちは多元宇宙マルチバースを研究するのか。それは多元宇宙をつくりだす異次元の存在が無いと証明できないからだ。証明できないかぎり、多世界解釈いわゆる【異世界】の存在は否定できない』



 理論上はそうかもしれないが、それはないだろうと笑っていたのに……いまは、それでしか説明がつかない状況だった。アンナのなかで、これまで常識だったものが、ガラガラと崩れていく。



 感覚のない右手が持つ『抗毒血清』だけが、やけに現実リアルで急に泣けてきた。おそらく自分は、もう戻れない。一方通行の時空を超えたのだと。



 『現実世界』とアンナが呼んでいるものと別れを告げる。云うほど楽ではないが、薬学研究員という科学者の端くれとしては、これは非常に得難い経験なのだ——気持ちの半分は、そんなふうに落としどころをみつけるしかなかった。もう半分は——とりあえず、死んでいなくてよかった。



 正確には、柊アンナはおそらく死亡しているだろう。タイガースネークの毒は、何の処置も施さなければ、致命的になりうるからだ。運良く、誰かが研究室を訪れるか、室長が会議を途中退席して戻ってきていない限り。



 ただ、前世の記憶があるということは、肉体は死しても、精神は死んでいなかったのだろう。つまり、生前の精神と抗毒血清だけを持って、柊アンナは時空を超えたのだ。



 改めて、転生を果たしたと思われる幼子の身体を観察する。ベッドに寝たままでは、背丈、容姿は不明だが、手の大きさから推測して、おそらく3歳児程度だろう。身長は90センチ前後、体重は……ちょっとわからない。



 ただ、枕元に突っ伏している女性が母親だとするならば、容姿はどこかしら似ているのかもしれない。そのときだった、麻痺していた右手に、締め付けられるような感覚が戻る。勢いよく見たアンナは、「——ッッ!!」声にならない悲鳴をあげていた。



 右腕の手首から肘にかけて、細い白蛇が螺旋状に巻き付き、赤い蛇眼を光らせ、鎌首をもたげているではないか。蛇が鎌首を上げているということは、威嚇状態、臨戦態勢に入っているということだ。



 何もできない状況で、アンナは半泣きになった。いったいどこからやってきたのか。ベッドに横たわる、こんなに無防備な幼子に向かって……脅す必要なんてないじゃないか。



 もしかして、前世というか、転生前というか、これまで散々嫌がる蛇から、無理やり毒を採取してきたことへの報復だろうか。だとしたら、それはそれは強い恨みがあってもおかしくはない。



 「人命のため」なんて云ったところで、ただでさえ執念深そうな蛇に通じるワケもなく。恐慌状態に陥ったアンナを前に、表情というものが無い白蛇は、鎌首を左右に振り出した。その恐ろしいことといったらない。



 白蛇は徐々に、横振りに加えて前後にも振りはじめ、一時すると遠心力でグルグルと鎌首は回りだした。そして、口が開く。



 ああ、噛まれるッ!



 鋭い痛みを覚悟した。しかし、白蛇が噛みついたのは、アンナの右腕ではなく、『抗毒血清』が入った細長い容器だった。鋭い牙が突き立てられ、ピシッと音をたてた容器に、複数の亀裂が走った。



 それを白蛇は、鱗と同じく白い舌を絡みつかせ上を向くと——ゴックン。のみ込んだ。丸呑みだった。たしかに蛇は、獲物を丸呑みにするけれど、異物でしかない容器を躊躇なくのみ込むなんて……しかも、破損した容器からは、抗毒血清が漏れているだろう。



 いったいどうなるのか。そもそも、この白蛇が毒蛇種なのかどうかも判らない。茫然としているアンナの前で、異変はすぐに起きた。真っ白な白蛇の鱗が、みるみる紫色に変色していくではないか。赤眼は、逆に白く濁っていく。



 見る影もなく変移を遂げた蛇が、アンナを見て、



『シャーッ!!』



 これまでにないほど、はっきりと威嚇してきたと思ったら、そのまま鞭のように胴体をしならせ、右腕にガブリ。



「イ……痛ッ!」



 子どもの柔肌に、蛇の牙が突き刺さった。






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