∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
異世界の乙女、オルガリアに現る。
神の御使いに愛された乙女は──
「今度こそ使命を果たすわ」
己の道を、突き進む
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
動物性、植物性の自然毒から、化学物質による劇薬、劇物まで。
現代日本で毒物オタクだった
卒業後は、志望していた大手製薬会社の研究員として採用され、これまた希望する研究施設で、卒業論文のテーマでもあった『抗毒血清』の最先端の研究室に配属された。
恋人はここ4年ほどいないが、人生としては順風満帆な方である。
しかし、真面目に生きている独身女に──
前触れなく、事前告知なく、何かの拍子に、
天は裁きを下すのだ。
その日は、灰色の空がどこまでもつづく、寒い冬の午後だった。
猛威を振るいだしたインフルエンザウイルスもなんのその。
同僚たちがバタバタと高熱で倒れていくなか、アンナはひとり、今日も研究室で『血清』の研究に明け暮れていた。
あらゆる種類の毒物の中で、大学時代からアンナが夢中になっているのが、複数のタンパク質から構成される『蛇毒』である。
これほどまでに、殺傷能力が高く、即効性があり、絶えず進化する毒物が、果たして自然界には、あとどれほど存在するだろうか。
発展途上国を中心に、年間約10万人が命を落とすという毒蛇による
もっとも有効的な治療は、『
蛇の毒素を中和し、無害なものに変化させることができる唯一の方法といっていい。
しかし、その血清の生成には非常に手間がかかり、約700種とされる毒蛇の血清を凍結保存するには、大きなコストがかかる。
もっと、簡単に血清を生成できたら──
もっと多種多様な蛇毒に効果のある『血清カクテル』があれば──
研究する価値は、十分ある。
しかし、蛇というどちらかというと敬遠されがちな爬虫類の研究は、危険性が高く、前述したとおり、血清の生成には非常に手間がかかる。
せっかく作っても、もっとも必要とされる発展途上国は電力不足の影響で、なかなか保存ができない。よって、そこまで売れない。
つまり、危険なうえに、コストがかかり、その割に儲けが少ないという……
生命に関わる重要な研究であるにもかかわらず、残念ながら研究分野としては不人気なのだ。
しかし、アンナには揺るぎない信条があった。
『研究』と『採算』は、別物。
アンナにとって『研究』とは、自身の情熱をどれだけ傾けられるか。人々の生命が救える『価値ある研究』かどうか。それに尽きるのだ。
蛇毒の研究は、すべての情熱を傾けるに足る価値がある。
毎日が、実験とデータ検証の日々であり、華やかさの欠片もないが、問題点をひとつひとつクリアしていくことが、大きな研究成果へとつながっていくのである。
そんなわけで、本日予定している実験には、どうしても蛇毒の採取が必要だった。
アンナが勤める研究室では、蛇毒の採取の際は、万が一に備えて「最低でも2人以上ですること」がルールとなっている。
とはいっても、元々4名しか在籍していない不人気の研究室。
折しもインフルエンザウイルスが猛威を振るうなか、本日は室長とアンナしか出勤していなかった。
「室長は……夕方まで会議か」
ホワイトボードから視線を外したアンナは、
「しょうがない。でも今日の実験は、今日しないと」
実験エリアから、飼育エリアへと移動した。
これまで数えきれないほどの蛇毒を採取してきたアンナ。毒蛇界の中堅タイガースネークの顎裏を、器具でがっちりと掴んで持ち上げた。
細心の注意を払い、慎重に行っていた──はずだった。
左手首に鋭い痛みが走ったのは、実験エリアでタイガースネークの顎裏を掴んでいた器具から素手に持ちかえた、その直後だった。
噛まれた──
しかし、この手を離すわけにはいかない。器具で蛇頭を掴み直したアンナは、飼育エリアに戻り、タイガースネークを飼育箱に戻してエリアの安全を確認する。
急いで、中和しなければ。タイガースネークの毒は、たった【 0.6mg】で人間の致死量になる。
実験エリアにある血清の冷凍保存庫へと、アンナは急いだ。即効性のある毒が体内に回り、すでに痛みと痺れを起こしていた。
急げ、急げ……
冷凍庫に向かって、必死に足を動かしているつもりだった。しかし、なぜかアンナの頬は、タイルが敷かれた床の冷たさを感じている。
床を這うようにして、なんとか冷凍庫までたどり着き、血清が保管されている扉を開いた。
冷気が襲ってくる。混濁してきた意識の中、アンナは血清を手に取った。あとは解凍して、投与すればいいだけ……それなのに、身体が麻痺して動かない。
ああ、息が苦しい──
ここまで一気に悪化するのは、あまりに早い気がするが、これは呼吸困難の症状にちがいない。
それから3時間後。
実験エリアの床で、血清の入った容器を右手に持ったまま、冷たくなって倒れている柊アンナを、室長は発見した。