「ねえ、聞いてるの? ちょっとお菊」
「あ、うん」
電話越しに聞こえる母の声に、菊子は我に返った。
もう、とため息混じりに不満を零す母は、きっと頬を膨らませてぷりぷりと怒っているのだろう。
記憶の中にある可愛らしい母の姿を想像してしまい、菊子はこっそり笑んだ。
「それじゃあ、このまま話を進めてもいいのね?」
「……うん、いいよ。悪い人ではなかったし」
つい先日、菊子はお見合いをした。
提案してくれたのは父だった。菊子の父は大手会社に勤めており、経営に携わる人事を担当しているらしい。だから三十路を迎えてもなかなか結婚しようとしない娘を心配して、社内で有望な人材を結婚相手にどうかと勧めてくれたのだ。
紹介してくれた相手は、普通の人間の男だった。彼が優しい人柄であることは菊子にもすぐわかった。ずっと緊張している菊子が話しやすいように、彼は終始気づかってくれていたからだ。自分より年上だったが、菊子もまた、彼が時折見せる照れくさそうな笑顔を少しだけ可愛いと思った。
好きだった。
好きになれると思った。
内気な自分に対し、根気強く何度もデートに誘ってくれる人だ。
相手にその気があるのはわかっている。
でも
だから気づかないうちに、逃げ道を探してしまった。
迷いがあるから、菊子はその男の魅力に惹かれたのかもしれない。
俯いていた視界に入ったのは、ラベンダー色のソムリエエプロン。次に、ネイビーのコックコートと、七分袖から伸びる引き締まった腕。高身長ですらりとしたその体躯を辿れば、満月のように美しい金色の瞳が自分を捉えている。とても秀麗な顔をした男だった。
――女はイケメンに弱い。
どこかの誰かが吐き捨てた言葉が脳裏を過る。
その通りかもしれない。でも、それだけではない、とも思った。
「ようこそ、たまゆらへ。あなたは運のいいお客様ですね」
落ち着いた声と、穏健な態度。
それがあまりに親しみやすくて、心地良いと感じたのだ。
✿ ✿ ✿
妖族というのは、古来より人間との共存を望んだ妖怪の血を引き継ぐ人間のことだ。みな一様に妖力を秘めており、金色の瞳を持っている。菊子が店主の正体に気づけたのも、そのおかげだった。
店の名前はカフェレストラン『たまゆら』。またの名を『あやかしカフェ』というらしい。
地元でも有名な桜ノ宮神社のある八ヶ坂通りを西へと進むと、入り口はその街並みに溶け込んでいた。開かれたままの木製の門扉を通り抜けると森の中のような一本道が続いており、道なりに進んだ先に建っている古民家がそれだ。
店内はお座敷のある和風な空間と少しレトロ感のある洋風な空間に分かれており、どちらでも好きな方を楽しめるようになっている。特にお座敷の方は四季折々に妖力で風景が変わる庭を楽しめる仕様になっているので、年齢問わず人気のあるスペースだった。
かくいう菊子もお座敷目当てなのだが、生憎と今日は特等席に他の女性が座っていた。短いブラウンの髪で顔が隠れてしまっているが、一生懸命パソコンで作業をしている様子から推察するに、何か仕事をしているのかもしれない。他のお座敷も、老夫婦やサラリーマン風の男性によって埋まっていた。
――そこ、私のお気に入りの場所なのに。
天気は快晴。心地の良いそよ風が吹く休日。こんな日は素敵なお店でランチでも楽しもうと意気込んでやって来たのに、結果がこれとは。
菊子は眉間に皺を寄せながら自分の定位置に座っている女性を見つめる。
するとその時、女性の傍らで丸まっていた生き物がひょこりと頭を上げた。
猫だ。顔立ちが細く、美しい毛並みの黒猫。じっとこちらを探る華やかな輝きを放つ紅梅色の瞳は、遠くからでもその存在感を強く放っている。
なんだか睨まれているみたいで、菊子は慌てて視線を逸らした。猫は嫌いだ。あまり関わりたくない。
できるだけお座敷から離れている席を探していると、噂の店主が菊子に近づいてきた。
「こんにちは、木皿さん」
短い黒髪をふわりと揺らしながら柔和に微笑む彼に、心臓が跳ねた菊子の頬にポッと熱が籠る。
「
「ようこそ、たまゆらへ。本日もお越しいただけて嬉しいです。ですが、生憎と本日はお座敷のスペースが埋まってしまいまして……カウンター席でもよろしいですか?」
「は、はい……! もちろん!」
実のところ、菊子は何度もこの店に通っていながらカウンター席には一度も座ったことがない。こんな顔のいい男――
「では、こちらのお席へどうぞ」
促されるがままカウンター席についた菊子は、震える手で合皮素材の高級感溢れるメニューブックを受け取り、ページを捲った。
だが、注文はすでに決めている。「いつもの」なんて常連ぶった物言いができないから、選ぶフリをしているだけだ。
何度もカウンターの向こう側に立つ慶一を盗み見ては心臓が暴れ出すのを必死に耐え抜き、「あの」と菊子は口を開いた。
だというのに、やっとの思いで出した声は背後から現れた人物によってかき消されてしまった。
「慶一君、お茶ください。できるだけ渋いやつで」
反射的に菊子は振り返ってしまった。遮られたことに文句を言いたいのではない。慶一のことを気安く『慶一君』と呼ぶ女性がいることに驚いたのだ。
カウンターに歩み寄ってきたのは、お気に入りの場所に座っていたあの女性だった。大きな二重の目やその明るい表情も相俟ってより快活なイメージがある。慶一や菊子より年若い印象だ。
――あ、でもファッションはイマイチ……。
黒のパーカーに、柄物のTシャツ。ズボンはデニム。それはいわゆる即席コーデというやつだ。ダサいと評価されることも多く、ファッションに口うるさい女性達からは軽視されるだろう。似合ってはいるが、社会人として年相応とは言えない。
そこで無意識に相手を値踏みしていることに気づき、菊子は慌ててメニュー表で顔を隠した。
今日の服装はトレンドのトップスとアウターに花柄のスカート。大丈夫。女らしさで言えば、圧倒的に自分の方が勝っている。
菊子はそう信じていた。確信していた。
慶一の親しみのある口調を聞くまでは。
「また?
「大丈夫、大丈夫」
悠里と呼ばれた女性は呑気に笑いながらひらひらと手を振った。仕方ないと肩を竦める慶一に、菊子は頭が真っ白になった。その金色の瞳に、確かな慈愛の色が浮かんでいたからだ。
――え。ナニソレ。
どう考えても、二人の会話は単なる知り合いの域ではない。名前で呼び合っているということは、かなり親密度も高いようだ。
嫌な予感がする。菊子の背筋がひんやりと凍った。
「これで最後だよ。次は水を出すからね」
「ええー……慶一君が淹れたお茶飲むと頭がスッキリするのに」
「家でも朝からたくさん飲んだでしょ? ダメだよ」
がんっ、と頭に強い衝撃が落ちた。項垂れた顔を上げることもできない。
――家ってなに……家ってなに!?
どう考えてもおかしい。普通の関係ではない。
硝子のハートが砕け散る音を聞いて、さっきまで謎の自信を抱いていた自分が恥ずかしくなった。
さらに最悪なことに、打ちひしがれている菊子の視界にあの黒猫が姿を現した。
「きゃあっ」
思ったよりも近い距離から凛々しい面構えでこちらを見上げるそれに、菊子は堪らず悲鳴を上げた。
恐怖に染まった菊子の声に、悠里が慌てて黒猫を抱き上げた。
「あ、すみません! 猫、苦手でした?」
「えっ……いえ……その……」
気軽に謝りながら質問してくる距離の詰め方は嫌いではない。しかし真っ直ぐで誠実な反面、彼女の目はあまりに純粋過ぎるため、自分の内側が見透かされている気がした。彼女が放つ堂々とした雰囲気に気圧され、菊子はのどに声がつまる。なんとか苦し紛れに頷くと、悠里は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ほんと、すみません。この子おとなしくて、悪戯とかしないんですけど……ちゃんと言い聞かせておきますね」
「え、ええ……」
言い聞かせてどうにかなると考えているタイプの飼い主か。動物どころか、人とのコミュニケーションを図ることすら難しい菊子には理解できない理論だ。
なんとなく、悠里の腕の中にいる黒猫をちらりと見る。大人しく抱かれてはいるものの、黒猫は冷ややかな眼差しをしていた。品定めするような視線は、ついさっきまで悠里に向けていた自分のそれと同じだ。逃げ出したい気持ちから適当に相槌を打って会話を終わらせようとすれば、悠里が空気を読んだように踵を返した。
「あ、私もう戻るので、よかったらご注文どうぞ。後ろから割り込んじゃって、すみませんでした」
三度目の謝罪と軽い会釈を残し、「もー、ウカ君。お客さんを驚かしちゃダメだよー」と猫に小言を言いながら悠里はお座敷に戻ってしまう。
ようやく自由になれた。菊子の全身にどっと疲れがのしかかった。
――なんかあの人、コミュ力がヤバそう。
菊子は人付き合いが苦手だ。今みたいに知らない人が相手だとスマートな受け応えができず、そういう欠点を自覚してまた嫌気が差すからだ。だから悠里のようなハキハキと喋る人間は避けてきたし、できる限り自分から関わらないようにしていた。
――どうせ『陰キャ』だと思われたんだろな。
人と話すこともしない根暗。一人ぼっちが好きな変わり者。職場でもそう位置づけされて、同僚達に笑われていることを菊子は知っている。
だから、悠里もきっとそうだろうと思った。なにせ慶一のような素敵な男を捕まえた『勝ち組』だ。お一人様でランチを楽しむような女をバカにしているんだろう。
これが卑屈な思い込みだとわかっていても、やさぐれた感情の行き場がない今は誰かを責めて誤魔化すしかなかった。
「木皿さん、お待たせして申し訳ありません。ご注文、お伺いします」
「あ、いつもので」
唖然としていた菊子は、咄嗟に常連ぶってしまった。
失態に気づいた時にはすでに遅く、慶一はきょとんとしている。しかしすぐに気を取り直した彼は、「かしこまりました」と人好きのする笑みを浮かべたのだった。