新暦3060年 冬一月
ローレシア魔法王国
キンドロ領 クルクマ
「ああ! ようやく終わった!」
アディフランツ・アルドレアはグッと伸びをして「ぅぁぁぁあ!」と雄叫びをあげた。
己を律し、ひたむきに仕事に向きあい続けた者だけが得られる、固まった身体がほぐれていく快感であった。
「ぅぅぁぁ、ぅああああぅぅう! うぉぉぉおあああ!」
「お父様、何してるんですか」
「ぁ………………こほん、アリス、いつからそこに……?」
「ずっといました。お姉様に算術を教えてきたのでタスク『姉と算術』は完了です」
無用に咳払いを繰りかえし、アディフランツは、娘の冷ややかな眼差しから何とか逃れようとする。
剣をふりまわして外で遊ぶのが大好きな姉エーラと違い、妹のアリスは頭脳派だ。
アリスはアーカムによく似ていて、冷静で、沈着で、幼い頃から魔術に興味を持っていた。
天才すぎて萎えるほどの息子を剣術の大先生のもとへ送って、早いもので3年になる。
アディフランツは人生で最も活力に満ちた日々を送っていた。
というのも、まだ8歳になったばかり娘アリスが助手として日々、机に向かい、魔法陣を構築し、魔術に関する論文を書いているせいだ。
そう。ライバル登場である。
アーカムとかいうバケモノの登場は、アディフランツに「頑張るぞ!」というより「どうせ俺なんて……」という自己評価の低下をもたらした。
その後は、アーカムに「いや、僕の父親ダサすぎでは?」と見限られないように、精力的に研究に打ち込んできたつもりだった。
ただ、アーカムの思考・発想は、この世界のものとは思えないほど、常識破りであった。
発言一つ一つが、鋭く、核心をついていくものばかり。
そのうち「やっぱ俺なんてどうせ木っ端だよ……」という憂鬱な気持ちがぶりかえすようになっていた。
その点、アリスは″いい感じに天才″だ。
父親としては情けないことこの上ないが、アリスはちゃんと常識的に考えて魔術に取り組む。
別世界から来たみたいな考え方をするアーカムとは大違いである。だから、まだ張り合える気がするのである。
「それじゃあ、今日はこのくらいにしよう」
アディフランツはチョークで白くなった手をパンパンっと払い、腰をあげた。
床には
「……。もう帰りますか、お父様」
アリスは小首を傾げて、きめ細かい銀髪を揺らす。
可憐な前髪の隙間からのぞく薄水色の瞳は、アディフランツに言葉の裏を読ませた。
もう帰るんですか?
才能ないボンクラのくせに?
努力しないでどうするんですか?
そんなんだから、カスなんですよ。
お兄様はカッコいいのに、お父様はダサダサですね。よわよわ。ざーこざーこ。
って言ってる気がする……。
アディフランツは苦笑いをして「も、もうひとつ練習しようかなぁ……」と、新しいチョークを手に取った。
アディフランツは思う。
絶対に言うことを聞かせてくるあたり、エヴァに似てきたなぁ、と。
夜遅くなって、アディフランツはアリスと手を繋いでアルドレア邸へと帰宅した。
「おかえりなさい、アディ」
「パパ、おかえりなさーいっ!」
うーん、うちの家族はみんな可愛い。
アディフランツは3人の銀髪美少女に囲まれる。
自分は世界で一番幸せな男だ、と思った。
いや、待てよ。
ひとり美″少女″と言うには厳しい年齢になりつつある子がいるぞ。でもいいか。美少女あつかいしてあげたほうがご機嫌になってくれるし。
「今朝より可愛くなった?」
「なに馬鹿なこと言ってるの、アディ」
エヴァリーンは満更でもない様子で、にへら笑いし、ごく自然と、身体を寄せて、旦那の首に手をまわして、ひとつ口付けをした。
女の子はいつだって可愛いと言われたい生き物なのである。
「最近はすごく頑張ってて偉いわ。アディのそういうところ大好きよ」
愛おしそうに言われ、アディフランツもまただらしなく笑みを浮かべた。
アリスは透き通った瞳で、じーっとイチャイチャしはじめた両親を見つめる。
「タスク『チョロ夫婦』を完了。アリスは自室に帰投します」
「あれえ? アリスどういうことー? エーラわかんないよ?」
「お姉様、お父様とお母様の邪魔をしないでください。殺しますよ」
「うわぉ! またアリスが殺すって言ったぁー! エーラ8歳、全力で抵抗します、拳で!」
アリスは今日もアルドレア家の平穏を影ながら守り、ついでに姉のお世話という大仕事を見事にこなすのだった。
「ねえねえ、お兄ちゃんいつ帰ってくるのー?」
「お兄様は世界を股にかける大魔術師です。アリスたちのような凡人とはちがうんですよ、お姉様」
「お兄ちゃんに会いたいよー!」
「静かに。殺しますよ」
兄が大好きなエーラは、時々、昔を思い出しては、アーニシックになり、駄々をこねて盛大に泣くことがある。
そういう時は大抵アリスが手刀を加えて、気絶させるのが常だ。
「デュクシ」
「うっ!」
「タスク『姉と暗殺』完了です。アリスは就寝します」
アリスはゆっくりと瞼を閉じた。
気がついた時、アリスは黒い海の中にいた。
空には満点の星々が輝いている。
ここはどこだろう。
そう思い、あたりを見渡した。
兄の姿を見つけた。
最後に会った時より、ずっと大人になっていた。
アリスにとっては、いつだって兄は大人だった。
しかし、幼少期の補正を差し引いても、格別に大人に見えた。
「お兄様……! 帰ってきてくれたんですか」
クールをモットーにするアリスが、つい信条を忘れて、嬉しさに声をあげた。
それほどに待ちわびていた。
それほどに会いたかった。
でも、わがままを言ってはいけない。
お兄様は優しい。優しすぎる。
きっと手紙でお願いすれば、会いに帰ってきてくれるかもしれない。
でも、バンザイデスからクルクマまでは5日の道のり。
往復で10日。
しばらくの滞在を考えれば、ひと月40日くらいはそばに居てくれるかもしれない。
だが、それは許されない。
偉大なる大魔術師であるアーカム・アルドレアお兄様の大事な時間を、自分のわがままなどで浪費させてはいけない。
そう思って我慢した。
我慢しない姉の分まで我慢した。
「アリス」
「お兄様、アリスはすごく会いたかったです」
アーカムはアリスの頬を撫でる。
手の温かさが心地よかった。
兄はよく自分の銀色の髪を触ってくれた。
よく頭を撫でてくれた。それが好きだった。
「アリス、困った時は、お姉ちゃんと力を合わせて乗り越えるんだよ」
「お兄様、またどこかへ行ってしまうのですか」
アーカムは何も告げず、何も答えず、沈黙を選び、暗い海の向こうへ、歩いて行く。
直後、アリスの身体は水のなかに落下して、深く深く沈んでいった。
苦しさにもがき、ガバッと起きあがった。
数日後。
バンザイデスの大事件が明るみに出た。
騎士団駐屯地の大量虐殺。
痕跡から血の怪物の仕業だとすぐに判明した。
人々は思い出した。
久しく忘れていた恐怖を。
アルドレア一家は、ニュースを聞くなり、クルクマを飛び出した。