「馬の『水火』は明確に分かれているのが良いと、聞いています。
あなたの愛馬は『水火』がはっきりしている」
そう言って郃少年は僕の愛馬・彗星の鼻先をさすりながら褒めてくれている。
僕は『水火』と言われ、すぐに少年に聞き返した。
「待ってくれ。
君は『水火』が何か知っているのか?」
僕の問いかけに、少年は目をキラリと輝かせて答えた。
「『水火』はこの鼻の穴と穴の間のことです」
そう言って少年は鼻を撫でながら、穴と穴の間の箇所を指差した。そうフンと鼻息荒く少年は説明してくれた。
「確かにそこは『水火』だ。
よく知ってるね、そんな名前を」
未来の馬の名称としては、鼻先のことは鼻端と言う。ただ、鼻の穴と穴の間に名称があるなんて聞いたことがない。『水火』という名称は前に張世平から貰った『相馬経』を読んで初めて知った。しかし、こんな少年にも『相馬経』の知識があるのか。
「俺は馬についてもっと詳しく知ってますよ」
郃少年はそう言ってフフンと得意気な様子をみせた。彼は上機嫌になって、さらに続けて語り出した。
「いいですか。馬の上唇は引き締まって方形(四角)なのが良く、口の中は紅色で光沢があるのは良い。それが千里の名馬だと言われています。
あなたの愛馬はこの条件にも適っている」
郃少年はせせこましく手を動かし、唇、さらに口中を指差しながら早口で説明してくれた。
少年は話は一応は僕の馬を褒めている内容だ。だが、その言葉の端々に彼の自慢に満ちた感情が伝わってくる。
「え、なんだって?
上唇云々は僕の読んでいる『相馬経』とはちょっと文面が違うようだ。
君は一体何を読んで知識を得たんだい?」
かつて張世平からは、相馬経は古いから異本の多い本だと。もしかしたら、郃少年の読んだ本は相馬経の異本なのかもしれない。それならば確認しておきたい。そう思って尋ねた。
僕の質問に、それまで得意だった郃少年は一転、狼狽えた様子を見せた。そして、言葉を詰まらせながら答えた。
「え、えーと確か⋯⋯。
主人の先祖の馬援という将軍が残した『銅馬相法』というものだったかと⋯⋯」
少年は予想外の書物の名を上げた。
郃少年は少し困った表情でそう答えた。知識に自信がなくなったのか、先ほどまでの得意気な様子はどこへやら。目を逸らし、肩をすくめていた。
どうも、少年の知識は、僕の読んでいる相馬経とは別の書物かららしい。しかし、その情報も馬超の家に伝来していた馬相の見方というなら、信憑性もありそうだ。
だが、郃少年も内容はともかく、情報の出処まではちゃんと頭に入れてなかったようだ。
「俺は教わっただけだから、詳しいことは主人に聞いて欲しい」
郃少年はおずおずとそう言ってきた。
確かに主人である馬超の方が馬には詳しいだろう。それに相手は三国志の有名人・馬超だ。せっかくなら彼の話を聞きたいという気持ちもないでもない。
それでも⋯⋯。
「なんだったら、主人呼んでいましょうか」
「待ってくれ、郃君。
僕は君の話が聞きたいんだ」
僕は馬超を呼びに行こうとする郃少年を引き止めてそう告げた。
それを言われた郃少年は少し気味悪そうな顔をしている。
「な、なんで俺の話なんて聞きたがるんだよ。
俺なんてただの蒼頭だぞ」
目線を下に向ける郃少年。彼は形ばかりの敬語も崩し、息を荒げてそう答えた。
それに対して僕はあえて落ち着いた口調で、それでいてはっきりと聞こえるよう意識して彼に語りかけた。
「確かに君は今は奴隷かもしれない。
しかし、君には乗馬の才能がある。それに豊富な知識と馬を見る目がある。
君は決して奴隷で終わるような人物じゃない。努力を続ければきっと一廉の武将になれるよ」
僕は説得するつもりで彼にそう伝えた。
この少年は奴隷のままで終わっていい人物ではない。まず、この子を奴隷から抜け出させなければならない。そのためには彼自身をその気にさせなければいけない。
彼は馬を盗んで逃げ出したくらいだ。奴隷という立場自体は変えたいと思っているはずだ。
「褒めてくれるのはありがたいけど⋯⋯」
少年は言葉を詰まらせながらも、子供特有の甲高い声を上げて拒絶した。
「俺は蒼頭から抜け出したいとは思っているけど、武将になりたいと思ってるわけじゃない!」
子供相手にいきなり武将がどうというのは飛躍し過ぎた話だったかもしれない。だけど、今は奴隷から抜け出したいと意識させただけで良しとしよう。
「奴隷から抜けたいという気持ちがあるのなら今はそれでいい。
ただ、心の片隅にでも、君には乗馬の才能ということを覚えておいて欲しい」
もしかしたら、僕が今、この少年にやっていることは歴史を変えてしまうような行為なのかもしれない。
でも、例え歴史を改変してしまったとしても、この少年を救いたい。奴隷のままで終わらせたくない。これだけの才能を持った少年の人生をこのまま諦めさせたくはない。
それにもし、この少年が才能を開花させ、馬超の武将になってくれれば⋯⋯。
将来、劉備軍に馬超が加わった時、有力な武将として再会できるかもしれない。
僕は有力な武将として成長した彼と再び会いたい。
「ふむ、君はどうやらその少年を随分目にかけているようだな」
背後よりよく通る声が僕らの前を駆け抜けた。僕はすぐに振り返ると、そこにはこの屋敷の主人・盧植がいた。彼は手を顎にかけ、こちらの様子を窺っていた。
盧植はカツカツと革靴を鳴らし、こちらへと歩み寄ってきた。改めて間近で見ると身長190センチはある彼はデカさを思い知らされる。
僕よりも頭一つ分は優にデカいであろう彼に、僕は見上げながら答えた。
「盧先生。彼は奴隷のままで生涯を終えるには惜しい少年です。
奴隷に未来の可能性を指し示すのは悪いことでしょうか?」
僕にはこの時代の一般的な感覚がまだよくわからない。僕がこの少年に勧めていることは非常識なことなんだろうか。盧植は厳格な先生でもある。彼に怒鳴られやしないかと内心、ビクビクしながら尋ねた。
だが、盧植は首を横に振り、ゆっくりと答えた。
「私は悪いことだとは思わない。
蒼頭だからといって将来まで蒼頭であるわけではない」
そう言って盧植は僕の考えを肯定してくれた。さらに盧植は話を続ける。
「『孝経(儒教の経典の一つ)』には「天地之性、人為貴(この世界の性質は、人を貴いものとしている)」とある。それは蒼頭であっても変わるものではない。
そのため、世祖(後漢の初代皇帝である光武帝・劉秀のこと)はこの言葉を引用して、度々、蒼頭を解放を命じる詔勅(皇帝の命令文書)を発したのだ。
君のやろうとしていることは世祖のやったことに適う行為だ」
さすが、盧植は先生をしていただけあって教養のある話をしてくれる。僕は感心しつつも、勇気づけられて思わず強く頷いた。
この世界は奴隷には冷淡かと思っていた。いや、冷淡な部分もあるだろう。洛陽で様々な奴隷を見てきた。彼らの扱いが一言で語れないほど千差万別なことはいくらも見た。
だが、決して奴隷だからといって切り捨てるばかりの世界ではない。解放されることだってあるんだとわかっただけでも良い収穫だ。
僕は改めて奴隷の少年・郃へと向き合った。
「郃君、君は奴隷のままで終わるな。
頑張っていればいずれ道は開ける」
僕は強く彼にそう伝えた。
無責任な言葉だっただろうか。
いや、この少年は馬超の奴隷だ。馬超はいずれ、劉備の部下となる。もし、その時まで奴隷のままだったとしても、合流した時に改めて奴隷から解放する手もある。合流はだいぶ未来の話になるが、この少年はまだ幼い。その時に解放してもまだ十分人生をやり直せるだろう。
「ただ、死なないようにだけは気をつけてくれ。
死んでしまっては開く道も開けないからね」
郃少年は耳を赤くしながら、唇を歪めている。
「わ、わかったよ。
考えておくよ。俺だって一生蒼頭はごめんだしね」
「ああ、その意気だ」
僕は照れ笑いする郃少年に、ニコリと笑いかけた。
「おう、劉星。
随分、仲良くやってるようだな」
盧植のさらに後ろから、そう声がこちらに飛んできた。
「劉備!」
そちらに目をやると、外出から帰ってきた僕らの大将・劉備が、こちらに向かって歩いてきていた。
「兄貴!」「兄者!」
劉備の帰宅に気づいた張飛、関羽も稽古をやめ、馬超とともにこちらに歩み寄ってきた。
「劉備、外はどうだった?
何か良い仕事の話はあったかい?」
「いやぁ、大した話はないね」
劉備は肩をすくめながらそう語った。未だ良い就職先がないようだ。こりゃ、当分、ここでの馬丁生活が続くかな。
渋い顔を見せる劉備に、今度は盧植が振り向いた。
「劉備、帰るのを待っていたぞ」
「どうしたんですか、先生?」
盧植のもったいぶった言い方に、劉備は尋ねた。
「君に仕事を持ってきた」
「仕事ですか?」
まさか、劉備も盧植から仕事の斡旋をうけるとは思わなかったようで、つい聞き返していた。
一体、盧植がなんの仕事を持ってきたのだろうか。僕も興味津々でその話を聞いた。
《続く》