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第五十四話 募兵(三)

 何進かしんは目を背けながらも、その表情には蹇碩けんせきに対する憎悪をにじませていた。

 しかし、その表情は蹇碩けんせきを返って喜ばせた。彼は内心で勝利を確信しながら、霊帝れいていへ新たな報告を行った。


「陛下、お車の用意ができました。


 いつでも出立できます」


 蹇碩けんせきはまるで何進かしんが目に入らぬような素振りで霊帝れいていの前に進み出て、その足元にひざまずいてそう述べた。


「そうか。


 何進かしん、話がそれだけならもう良いな。わたしは遠乗りに出かける」


 霊帝れいてい蹇碩けんせき、さらに続けて何進かしんの顔に目をやり、そう答えた。


 この時の霊帝れいていは元々遠乗りに行く直前であった。既に準備は蹇碩けんせきによって整えられている。何進かしんの話がこれで終わりなら、霊帝れいていはすぐにでも遠乗りに出かけたいところであった。


 これに対して、何進かしんはまたも怪訝けげんな表情で尋ねた。


「陛下、また驢馬ろばでございますか?」


 何進かしんは諌めるような口調であった。だが、霊帝れいていはどこ吹く風で、どこか自慢げな様子で語り出した。


「そうだ。


 何進かしん驢馬ろばは良いぞ。


 馬に負けない力強さがある。それに粗食に耐え、飼育が楽だ。


 お前も驢馬ろばを飼うと良い」


 驢馬ろばは馬ほどコミュニケーションは得意ではないので乗り物としては向かないが、性格は図太く、少ない食料でも飼うことができる。


 中国には元々生息しておらず、西域より伝来した。漢初ではまだまだ珍しい動物であった。だが、この頃になると数も増え、かなり身近な動物となっていた。


「はっ、考えておきます」


 ここまで熱を込めて語られては、何進かしんもそれ以上とやかくは言えなかった。


 霊帝れいていの趣味はなにも胡風こふうかぶれだけではない。

 彼は驢馬ろばを好んだ。

 馬ほどコミュニケーションを取るのが得意ではない驢馬ろばをよく調教した。

 そして、四頭の白い驢馬ろばに車をかせ、自ら手綱を握り、洛陽らくようの郊外を走り回るのを楽しみとしていた。


「そうか。では行くぞ、蹇碩けんせき


 霊帝れいてい何進かしんを置いて、蹇碩けんせき以下、引き連れていた数名の宦官かんがんとともに宮殿の外へと出た。


 外には既に車をいた驢馬ろばが待ち構え、くだん西園軍せいえんぐんの兵士が蹇碩けんせき指揮のもと、霊帝れいていの警備に駆り出されていた。


 霊帝れいていは車に乗り込みながら、同乗する蹇碩けんせきに愚痴をこぼした。


何進かしんは忠義な臣ではある。


 しかし、わたしの改革を良く理解していない。


 先ほどのわたし驢馬ろばの車に乗ることへの不平そうな顔を見たか。


 奴はわたしが酔狂で驢馬車ろばしゃに乗っていると思っている。


 だが、そうではない。


 今や馬の値が高騰し、数を揃えるのが難しくなってしまった。それを少しでも解決するために、わたしは代わりに驢馬ろばを身を持って普及させているのだ」


 そう語る霊帝れいてい蹇碩けんせきは全面的に肯定した。


「陛下のご真意は凡人には計り知れないものでございます。


 しかし、今にきっと陛下の正しさが伝わることでしょう」


 一方、部屋に残された何進かしん霊帝れいていと同様に一人、愚痴をこぼしていた。


「陛下は改革の綺羅びやかな面にばかり目をやって、中身をおざなりにしすぎている。


 驢馬ろぼだってそうだ。陛下は馬に代わる新たな労力とお考えなのだろう。だが、既に陛下が驢馬ろばを好んでいるという噂は京中にあふれ、人々はこぞって買い求めてしまった。今やその値段は馬と変わらぬほどになってしまっている」


 何進かしんは遥か彼方の市場へと目を向けた。今や誰も買えないほどに高額となってしまった馬。買い尽くされて市場に並びもしない驢馬ろば


 彼は霊帝れいていが行おうとする改革の先行きに暗澹たる不安を感じていた。


「いや、それよりもだ。


 まさか、本当に西園軍せいえんぐんの指揮権を蹇碩けんせきなんかに譲ってしまうとは⋯⋯。


 このままでは⋯⋯」


 何進かしんはすぐに西園軍せいえんぐんの一件に頭を切り替えた。今の彼にとっては馬や驢馬ろばのことよりも、こちらの方が大問題であった。


 頭を悩ましながら、大将軍府だいしょうぐんふに戻ってきた何進かしんの元に、一人の男が近寄って話しかけてきた。


大将軍かしん、いかがでしたか」


 その男は身長は七尺三寸(約百六十八センチ)ほど。歳は四十四歳。濃く長い眉に、立派な鼻筋。張った頬に豊かな顎髭あごひげを生やした威厳のある顔つきをしていた。


 彼の名は袁紹えんしょうあざな本初ほんしょ。先ほど劉星りゅうせいらと一悶着を起こした人物である。


 この袁紹えんしょうは後漢きっての名家の出身であった。高祖父・袁安えんあんが最高位の三公である司空しくう司徒しとを歴任したのを皮切りに、その子の袁敞えんしょう、孫の袁湯えんとう、その子の袁逢えんほう(袁紹えんしょう実父)、弟の袁隗えんかいらが三公に就任した。袁家は四世代の間に五人もの三公就任者を輩出したのであった。そのため、この袁家は世間では『四世五公』と呼ばれていた。


 この時、袁逢えんほうより上は世を去っていたが、袁紹えんしょうの叔父・袁隗えんかいは元司徒しと、現後将軍こうしょうぐんとして強い発言力を持っていた。


 さらに、従兄の袁基えんき九卿きゅうけい(大臣)の一つ太僕たいぼくを務め、従弟の袁術えんじゅつは皇帝の親衛部隊・虎賁こほんの指揮官である虎賁中郎将ちゅうろうしょうを務めていた。


 この袁紹えんしょう自身も西園軍せいえんぐん中軍校尉ちゅうぐんこういを務めていた。大将軍だいしょうぐん何進かしんもこの名家の貴公子を側近として重宝していた。


 何進かしん袁紹えんしょうを見つけると、少し安心したような表情になり、声を柔らかくして話しかけた。


「おお、袁紹えんしょうか。


 お前のくれた情報は本当だった。やはり、陛下は西園軍せいえんぐんの指揮権を蹇碩けんせきにお与えになるつもりだ」


「やはり、そうでしたか。


 私も早く来たかったのですが、道中での騒動のために遅れて申し訳ありません。全く、孟徳そうそうの生真面目さには困ったものです」


 そう言いつつ、袁紹えんしょうはここに来る道中で起きた自身の車馬行列に蒼頭どれいの子が突っ込んできた事件を苦々しく思い返していた。


 その袁紹えんしょうに目を移しながら、何進かしんは不安気な様子で彼に尋ねた。


袁紹えんしょう、お前は私の味方であるのだな」


 その言葉に袁紹えんしょうかしこまって答えた。


「もちろんでございます。


 私は西園軍せいえんぐんの所属。言うなれば蹇碩けんせきの部下ということにはなります。


 ですが、今の地位に就けたのはひとえに大将軍かしんのおかげでございます。


 私だけではございません。同じ西園軍せいえんぐん所属の曹校尉そうそうらもきっと大将軍かしんを支持することでしょう」


 霊帝れいていが新設した西園軍せいえんぐんは漢の精鋭部隊だ。そして、その指揮官として八人の者が校尉こういに任命された。この八人を西園八校尉せいえんはちこういと呼ぶ。


 この軍は上軍、中軍、下軍の大きく三つに分かれる。さらにこれに霊帝れいていを守る典軍てんぐんを加えた四軍で構成されに。


 上軍の指揮を受け持つ上軍校尉じょうぐんこういにはくだん宦官かんがん蹇碩けんせきが就任している。


 そして、中軍校尉ちゅうぐんこういにはここに登場する袁紹えんしょうが就いていた。


 これに加えて、下軍校尉かぐんこういには戦争の経験豊富な鮑鴻ほうこうという軍人が就任していた。しかし、彼は軍需物資の横領が発覚し、投獄され、そのまま獄死してしまった。


 前回の劉星りゅうせい袁紹えんしょうとの騒動の際、助けに入った曹操そうそう典軍校尉てんぐんこういに就いていた。これは西園軍せいえんぐんの上中下軍とは別軍である親衛軍(典軍てんぐん)の指揮官であった。


 この他の四校尉こういは彼らの補佐官の役割を担っていた。


 鮑鴻ほうこうの獄死で、下軍校尉かぐんこうい不在の今、蹇碩けんせきとこの袁紹えんしょう西園軍せいえんぐんの中心的な人物であった。


 その一人が自分の味方になると聞いて、何進かしんは一先ず安堵の表情を浮かべた。


「そうか。それなら良い」


 だが、安心して顔を緩ませる何進かしんに向かって、袁紹えんしょうはキツイ口調で釘を刺した。


《続く》

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