何進は目を背けながらも、その表情には蹇碩に対する憎悪をにじませていた。
しかし、その表情は蹇碩を返って喜ばせた。彼は内心で勝利を確信しながら、霊帝へ新たな報告を行った。
「陛下、お車の用意ができました。
いつでも出立できます」
蹇碩はまるで何進が目に入らぬような素振りで霊帝の前に進み出て、その足元に跪いてそう述べた。
「そうか。
何進、話がそれだけならもう良いな。朕は遠乗りに出かける」
霊帝は蹇碩、さらに続けて何進の顔に目をやり、そう答えた。
この時の霊帝は元々遠乗りに行く直前であった。既に準備は蹇碩によって整えられている。何進の話がこれで終わりなら、霊帝はすぐにでも遠乗りに出かけたいところであった。
これに対して、何進はまたも怪訝な表情で尋ねた。
「陛下、また驢馬でございますか?」
何進は諌めるような口調であった。だが、霊帝はどこ吹く風で、どこか自慢げな様子で語り出した。
「そうだ。
何進、驢馬は良いぞ。
馬に負けない力強さがある。それに粗食に耐え、飼育が楽だ。
お前も驢馬を飼うと良い」
驢馬は馬ほどコミュニケーションは得意ではないので乗り物としては向かないが、性格は図太く、少ない食料でも飼うことができる。
中国には元々生息しておらず、西域より伝来した。漢初ではまだまだ珍しい動物であった。だが、この頃になると数も増え、かなり身近な動物となっていた。
「はっ、考えておきます」
ここまで熱を込めて語られては、何進もそれ以上とやかくは言えなかった。
霊帝の趣味はなにも胡風かぶれだけではない。
彼は驢馬を好んだ。
馬ほどコミュニケーションを取るのが得意ではない驢馬をよく調教した。
そして、四頭の白い驢馬に車を牽かせ、自ら手綱を握り、洛陽の郊外を走り回るのを楽しみとしていた。
「そうか。では行くぞ、蹇碩」
霊帝は何進を置いて、蹇碩以下、引き連れていた数名の宦官とともに宮殿の外へと出た。
外には既に車を牽いた驢馬が待ち構え、件の西園軍の兵士が蹇碩指揮のもと、霊帝の警備に駆り出されていた。
霊帝は車に乗り込みながら、同乗する蹇碩に愚痴をこぼした。
「何進は忠義な臣ではある。
しかし、朕の改革を良く理解していない。
先ほどの朕が驢馬の車に乗ることへの不平そうな顔を見たか。
奴は朕が酔狂で驢馬車に乗っていると思っている。
だが、そうではない。
今や馬の値が高騰し、数を揃えるのが難しくなってしまった。それを少しでも解決するために、朕は代わりに驢馬を身を持って普及させているのだ」
そう語る霊帝を蹇碩は全面的に肯定した。
「陛下のご真意は凡人には計り知れないものでございます。
しかし、今にきっと陛下の正しさが伝わることでしょう」
一方、部屋に残された何進も霊帝と同様に一人、愚痴をこぼしていた。
「陛下は改革の綺羅びやかな面にばかり目をやって、中身をおざなりにしすぎている。
驢馬だってそうだ。陛下は馬に代わる新たな労力とお考えなのだろう。だが、既に陛下が驢馬を好んでいるという噂は京中に溢れ、人々はこぞって買い求めてしまった。今やその値段は馬と変わらぬほどになってしまっている」
何進は遥か彼方の市場へと目を向けた。今や誰も買えないほどに高額となってしまった馬。買い尽くされて市場に並びもしない驢馬。
彼は霊帝が行おうとする改革の先行きに暗澹たる不安を感じていた。
「いや、それよりもだ。
まさか、本当に西園軍の指揮権を蹇碩なんかに譲ってしまうとは⋯⋯。
このままでは⋯⋯」
何進はすぐに西園軍の一件に頭を切り替えた。今の彼にとっては馬や驢馬のことよりも、こちらの方が大問題であった。
頭を悩ましながら、大将軍府に戻ってきた何進の元に、一人の男が近寄って話しかけてきた。
「大将軍、いかがでしたか」
その男は身長は七尺三寸(約百六十八センチ)ほど。歳は四十四歳。濃く長い眉に、立派な鼻筋。張った頬に豊かな顎髭を生やした威厳のある顔つきをしていた。
彼の名は袁紹。字は本初。先ほど劉星らと一悶着を起こした人物である。
この袁紹は後漢きっての名家の出身であった。高祖父・袁安が最高位の三公である司空、司徒を歴任したのを皮切りに、その子の袁敞、孫の袁湯、その子の袁逢(袁紹実父)、弟の袁隗らが三公に就任した。袁家は四世代の間に五人もの三公就任者を輩出したのであった。そのため、この袁家は世間では『四世五公』と呼ばれていた。
この時、袁逢より上は世を去っていたが、袁紹の叔父・袁隗は元司徒、現後将軍として強い発言力を持っていた。
さらに、従兄の袁基は九卿(大臣)の一つ太僕を務め、従弟の袁術は皇帝の親衛部隊・虎賁の指揮官である虎賁中郎将を務めていた。
この袁紹自身も西園軍の中軍校尉を務めていた。大将軍・何進もこの名家の貴公子を側近として重宝していた。
何進は袁紹を見つけると、少し安心したような表情になり、声を柔らかくして話しかけた。
「おお、袁紹か。
お前のくれた情報は本当だった。やはり、陛下は西園軍の指揮権を蹇碩にお与えになるつもりだ」
「やはり、そうでしたか。
私も早く来たかったのですが、道中での騒動のために遅れて申し訳ありません。全く、孟徳の生真面目さには困ったものです」
そう言いつつ、袁紹はここに来る道中で起きた自身の車馬行列に蒼頭の子が突っ込んできた事件を苦々しく思い返していた。
その袁紹に目を移しながら、何進は不安気な様子で彼に尋ねた。
「袁紹、お前は私の味方であるのだな」
その言葉に袁紹は畏まって答えた。
「もちろんでございます。
私は西園軍の所属。言うなれば蹇碩の部下ということにはなります。
ですが、今の地位に就けたのはひとえに大将軍のおかげでございます。
私だけではございません。同じ西園軍所属の曹校尉らもきっと大将軍を支持することでしょう」
霊帝が新設した西園軍は漢の精鋭部隊だ。そして、その指揮官として八人の者が校尉に任命された。この八人を西園八校尉と呼ぶ。
この軍は上軍、中軍、下軍の大きく三つに分かれる。さらにこれに霊帝を守る典軍を加えた四軍で構成されに。
上軍の指揮を受け持つ上軍校尉には件の宦官・蹇碩が就任している。
そして、中軍校尉にはここに登場する袁紹が就いていた。
これに加えて、下軍校尉には戦争の経験豊富な鮑鴻という軍人が就任していた。しかし、彼は軍需物資の横領が発覚し、投獄され、そのまま獄死してしまった。
前回の劉星と袁紹との騒動の際、助けに入った曹操は典軍校尉に就いていた。これは西園軍の上中下軍とは別軍である親衛軍(典軍)の指揮官であった。
この他の四校尉は彼らの補佐官の役割を担っていた。
鮑鴻の獄死で、下軍校尉不在の今、蹇碩とこの袁紹が西園軍の中心的な人物であった。
その一人が自分の味方になると聞いて、何進は一先ず安堵の表情を浮かべた。
「そうか。それなら良い」
だが、安心して顔を緩ませる何進に向かって、袁紹はキツイ口調で釘を刺した。
《続く》