黙りこくってしまった何進にたいして、今度は霊帝の方から話をふった。
「それで、何進よ。血相を変えて何用で朕のところに来たのだ」
そう問われて何進は自身の焦りと憤懣を思い出した。彼は改めて聞き質したかった本題へと入った。
「そうでございました。
陛下、西園軍のことでございます」
西園軍。それは霊帝が行った軍事改革の一つであった。この頃、大規模な宗教反乱・黄巾の乱を始めとする多くの兵乱が各所で起こった。
それらに対抗するため新たに霊帝が作り出した常備軍。それが西園軍であった。
西園とは宮中にある園庭の名である。霊帝が官職を売買する売官を行った時、この西園に邸舍を建て、この園庭で販売した。
そして、この西園に萬金堂という倉庫を建設。そこに売官の売上や税収を溜め込んだ。
ここに積まれた資金を元手に作れられた軍隊。そのため、この園庭の名を頭に冠して西園軍と名付けられた。
この命名は、霊帝が行った売官が決して己の欲望のための殖財行為ではない、この漢の改革の資金に使うためだという内外へのアピールの狙いもあった。
「陛下、西園軍の指揮権を蹇碩に与えるというのは本当でございますか?」
何進が問題としたのはその指揮権であった。
その西園軍は霊帝自らが『無上将軍』と称し、直属の軍隊とした。
しかし、実際に霊帝が戦場に出向くことはない。
そのため、大将軍の何進を事実上の総司令官としていた。
だが、今回、その総司令官を別の人物に変更するという話が出てきたのであった。
「ああ、その話か。
そのつもりだ」
霊帝は事も無げにそう答えた。
霊帝から事実が確認できた何進は強い剣幕でそれを問い質した。
「西園軍の指揮は私が執るという話だったはず。
それを何故、蹇碩に任せるという話になったのですか!」
そもそも、元をたどれば西園軍は何進の発案で創設された。
何進の幕僚から出された新軍創設の案がことの発端であった。それを霊帝に勧め、生み出された強力な軍隊。その軍隊の総司令官から外されるのは何進として容認することが出来なかった。
霊帝は怒る何進を、まるで子供の駄々くらいの態度で宥めた。
「勘違いするな。
何進、お前は既に大将軍の地位にある。大将軍は漢の全軍を統べる重責だ。
これにさらに西園軍の指揮まで任せては負担が大きいと判断しての処置だ。
決して、お前を蔑ろにしたわけではない」
しかし、そう言われても、納得できる何進ではない。
「ですが、今や西園軍は漢軍の中心的な存在です。
それをよりにもよって宦官に任せるなんて!」
既に漢の軍制は西園軍を中心に改革が進められていた。その指揮権を持つことは、大将軍の何進より発言力が増しかねない。
そのような事態をみすみす譲るようなことは何進には出来なかった。ましてや、その相手が宦官の蹇碩となればなおさらである。
だが、霊帝にその言葉は届きはしなかった。
「確かに蹇碩は宦官ではある。だが、既に上軍校尉の責務を全うしている。
その指揮権を拡大させて、西園軍全体に及ぼしても役目に堪えるであろう」
蹇碩は何進からすれば憎むべき政敵だ。だが、霊帝すれば信用できる部下であった。
「しかし!」
なおも食い下がろうとする何進。
その時、とある人物が何進の背後より姿を現した。
「大将軍、見苦しいですぞ」
女性的なかん高い声で、何進は止められた。彼はすぐさま後ろへ振り返った。
「お前は蹇碩!」
何進を呼び止めた者。それは他でもない件の話のもう一人の当事者・蹇碩その人であった。
蹇碩。字は威頎。霊帝が信用する宦官の一人であった。
歳は霊帝と同じくらいの三十歳頃。服装は霊帝と同じ胡服を着用していた。
宦官は去勢した男子が就く皇帝の使用人である。去勢したために、その髭は抜け落ち、声が高くなる。顔が整ったものであれば女性と見間違えるような容貌になる。
また、肉はしまりがなく、筋肉もつきにくいため、肥満になりやすい。張譲のような痩せ型はむしろ珍しいぐらいである。
しかし、その宦官の中にあって、この蹇碩は違った。
髭はなく、顔つきも幼く、一見すれば少女のようだ、そして、声も女性のように高い。
だが、その身体はよく引き締まっており、しっかりと筋肉が付いていることは服の上からでもよくわかるほどであった。
宦官でありながら武将顔負けの体格をした男。それが蹇碩であった。
蹇碩は得意気な様子で、何進を注意する。
「これは陛下が既に決められたことだ。
それに意見するのは臣下のとるべき道とは言えないのではないですかな」
武将の体格から発せられる、その女性のような高い声が何進の神経を返って逆なでした。
「蹇碩、どうせお前が陛下に良からぬことを吹聴したのであろう!」
そう強い口調で、彼は蹇碩を詰った。
これには蹇碩もより強い口調で返した。
「大将軍、それは陛下に対する侮辱ですぞ!
確かに私は陛下に問われて意見を述べました。
しかし、決められたのは陛下のご意思」
そう言って、蹇碩は不敵な笑みをこぼしながら、チラリと霊帝の方を見ながら言った。
「そもそも、愚鈍な私が仮に良からぬことを吹聴したところで、それに聡明な陛下が惑わされることなぞあろうはずがありません」
霊帝も蹇碩に味方するように話を続けた。
「そうだぞ、何進。
これは朕の判断で決めたことだ。そのことで蹇碩を責めるのは間違っているぞ」
霊帝は既に蹇碩の味方であった。何進も霊帝にそう言われては、これ以上に蹇碩を責めることも出来なかった。
その何進の姿を見て、蹇碩はニヤリと笑う。
その様が霊帝が先ほど置いた杯のそこに僅かに残った酒に映し出されている。
それをチラリと見た何進は苦々しい気持ちとともに、その底に沈む澱みに彼ら宦官を見ていた。
(杯の片隅に絶えず残り続ける澱み⋯⋯。
まさに宦官とはこの澱みではないか⋯⋯。
上の酒を啜るばかりでは澱みは残り続ける。
やはり、杯そのものを洗わねばならぬのではないのか)
《続く》