「は、はい!
先生!」
突然の盧植の激昂。いつもはドンと構えている劉備もこれには驚き慌てた様子だ。彼は長い両手をピシリと膝につけて、頭を下げた。
劉備の身長は百七十センチを超えで、この時代ではかなりの長身だ。しかし、相手の盧植はそれを上回る百九十センチの巨体だ。盧植に見下されるように叱りつけられる劉備の姿に、いつもは大きく見える彼の背中がいやに小さく感じられた。
なにしろ、相手の盧植は劉備がまだ少年期に学問を教えてもらった恩師だ。僕らとは関係性が違う。いつもは僕らの大将としてリーダーシップを発揮する劉備も、盧植の前ではかつての教え子のままであった。
「貴様、人混みに隠れていたな。
あのような輩を見ながら何もしないとは何事か!
それでも私の教え子か!」
どうも先生・盧植は、これほどの騒動になってもただの傍観者で居続けた劉備が許せなかったようだ。
その軟弱な態度を叩き直すと言わんばかりの勢いで、クドクドと説教が始まった。
関羽・張飛も暴力による危険には身を挺して守るつもりではあるが、このような事態は想定していなかったようだ。すごい剣幕で怒られている彼を、ただ呆然と見守るばかりであった。
まあ、先ほど、盧植が劉備を「教え子」と呼んでいたので、彼らも身の危険のある事態ではないと判断したのだろう。
ただ、劉備はひたすら頭を下げて、相槌を打ちながら恩師・盧植の説教を聞いている。
しかし、盧植の言葉が途切れた隙をついて、劉備は自身の話を切り出し始めた。
「すみません。実は今少し訳ありでして⋯⋯。
名を出すことができなかったのです」
劉備としてはなんとかして切り出した話であった。だが、盧植はさらに怒りの炎を燃やして、彼を叱責し始めた。
「何っ!
まだ罪があるのか!
申せ!」
だが、その言葉に劉備はさらに態度をピシッと改め、畏まった様子でこれまでの身の上を語りだした。
「はい。実は私はとある県で県尉を務めていました」
劉備が語るのは安喜県で県尉を務めていた時の話だ。しかし、視察に来た督郵が元盗賊であった関羽の身柄を要求した。劉備は最初は賄賂で解決しようとしたが、それが叶わず。さらには先走った僕が督郵と悶着を起こし、折檻を受けると劉備はこれに激怒した。それにより督郵を殴って職を辞してしまった。
おそらく、劉備はその話をするのだろう。しかし、そのまま伝えては却って怒りを買いそうだが、大丈夫なのだろうか。僕は冷や汗を垂らして事態を見守った。
対して盧植は劉備の話を深く頷きながら聞いていた。
「県尉とは立派な仕事だ。
しかし、だからといって宦官の顔色を伺ってはならんぞ」
そう言って盧植は劉備を窘めた。
下級の県尉が権力を握る宦官の顔色をうかがうのはよくあることなのだろう。だが、よくあることだからと流す盧植ではない。
だが、劉備はさらに話を続けた。
「いえ、その時に督郵の視察を受けたのです。
しかし、その督郵は私に賄賂を要求してきました。
もちろん、私は断りました」
そこまで話して、後ろで聞いていた僕は、おや、そんな話だったかなと、首を傾げた。
だが、劉備はさらに言葉に熱を帯びて、話を続けた。その話しぶりはまさに迫真であった。
「ですが! 督郵はあること無いこと私の罪状をでっち上げて、私を捕らえようとしてきたのです。
私はそれを許せず、督郵を成敗致しました。
しかし、そのために県尉の職を追われることになったのです」
劉備は身振り手振りを交えて、迫真の様子で自身が県尉を辞めることになった経緯を語って聞かせた。
だが、その話はどうにも僕が見てきた話とは内容が違うようであった。
僕は堪らず、劉備の側近くに寄り、こっそりと話しかけた。
「おい、劉備。
なんか話が違わないか?」
「シッ!
高齢の先生に心配をかけまいとする弟子心がわからんのか。
黙ってろ」
そう言って、劉備は僕の言葉をはねのけた。
一方、盧植は押し黙って劉備の話を聞いていた。そして、突如、目を見開き、劉備の肩を力強く叩いた。
「劉備よ⋯⋯。
偉い!
よく賄賂を贈らなかった!」
どうやら、劉備の弟子心は、良いように盧植に伝わったようであった。
「劉備よ、お前は昔から勉強は不真面目であった」
その恩師からの厳しい一言に、劉備は苦虫を噛み潰したような顔をする。
どうやら、この劉備の表情から察するに、盧植の言う通り彼はあまり勉強のできるタイプではなかったようだ。まあ、失礼ながら、この世界の劉備ならそちらの方がイメージ的にも合致するな。
しかし、その恩師はそんな彼の表情には構わずに、さらに話を続けていった。
「だが、お前は世渡りの上手いところがあり、同輩からは好かれていた。
そんな様子を見て、私はお前が上に上手く取り入り、高い地位を得ようとしているのではないかと密かに危惧していた。
だが、君は硬骨の士であったようだ。
見直したぞ劉備よ」
どうやら先ほどのよくねじ曲がった劉備の身の上話を、盧植は信じたようだ。それどころか大いに気に入って彼の肩を力強く叩き、称賛している。
その様子を見て、密かにほくそ笑んだ劉備は、こっそりと僕に耳打ちしてきた。
「ほらな、先生はこういう話がお好きなんだ」
そう言って、ニヤリと笑う劉備。
「なるほど、確かに世渡りが上手い」
盧植による劉備評は随分、正確なようだ。
こうして歴史が作られるのかと僕は感心した。
確かに聞けば、劉備の作り話の方が物語で読んだ督郵事件に近い印象を受ける。案外、この話が後世に伝わって、僕が読んだ話になったのかもしれないな。
劉備を一通り称賛したところで、盧植はその周囲にいる僕らに気づいた様子で尋ねてきた。
「劉備よ。その回りの男たちは誰だ」
《続く》