目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報

第五十話 邂逅(四)

 その男性の一言が辺りによく響いた。その一言で、先ほどまで横暴を働いていた宦官かんがん張譲ちょうじょうの奴隷たちを始め、周囲の者たちは一斉に静まり返るのであった。そして、その言葉を発した一人の男性へと視線を注いだ。


 張譲ちょうじょうの奴隷たちが濫妨らんぼうを働く中、突如、割って入った一人の男性。彼の身長は百九十センチほど。周囲の人と比べても群を抜いて高い。歳は五十ぐらいだろうか。面長で白髪混じりの長い眉と髭が特徴だ。


 そんな男性が一人、居酒屋の店主を脅す奴隷たちの前に現れ、まるで鐘の音のような良く響き渡る声で、彼らを叱責した。

 彼の高身長としわの刻まれた顔、そしてよく通る声には周囲を黙らせるだけの威厳を備えていた。


「聞こえなかったのか。


 早く手を戻せ」


 しかし、この白髪の男性の威厳がチンピラ相手にどこまで通用するのか分からない。

 彼は百九十センチの高身長といっても、そこまでガタイは大きくない。腰に剣を下げてはいるが、濫妨らんぼうを働くチンピラたちを鎮めるほどの力があるようには見えない。


 そこまで年を召してはいないだろうが、頭髪に混じる白髪が光に照らされて強調され、より老人のような印象を受ける。このままこの老人がチンピラたちに斬り殺されてしまうのではないかと、僕は不安になった。


 それは周囲も同じであったようで、傍らに立つ張飛ちょうひが不安気な様子で劉備りゅうびに向かって尋ねた。


「兄貴!


 あの爺さん、あのままじゃ危ないぞ!


 助けに入った方がいいんじゃないか!」


 これには僕も同意見だ。目立つのは避けるべきとは言え、目の前でご老人が無惨に殺されてしまうのをただ見ておくわけにもいかない。


 傍らに立つ関羽かんうも声には出さないが、顔を強張らせ、腰の刀にいつでも手をかけれるよう身構えている。


 しかし、劉備りゅうびは落ち着いた口ぶりで、張飛ちょうひを制止した。


「あの方は⋯⋯!


 いや、助けはまだ大丈夫だ。


 一先ず、事の成り行きを見届けよう」


 そう語る劉備りゅうびは、どうも何やら心当たりがあるようであった。

 彼の言葉に張飛ちょうひらは歯噛みしながらも、その場に留まり、事の推移を見守った。


「なんだジジイ!」


 チンピラたちはドスの効かせた声で、まるで威嚇いかくするように白髪の男性に向けて叫んだ。


 だが、チンピラたちは相手の様子になにやら気づいた様子で、一瞬、怯んだような声を上げた。


「う、官吏か⋯⋯」


 白髪の男性は文官特有の黒服を身に着け、腰からは官吏の身分を表す“じゅ”と呼ばれる布を垂らしていた。


 さすがのチンピラたちも、政府高官が相手となれば分が悪いようで、狼狽うろたえだした。


 だが、白髪の男の垂らすじゅの色が黒色だと確認すると、フッと鼻で笑い、再びふんぞり返った。


「なんだ、ジジイ。


 偉そうにしているが、黒綬こくじゅの下級官吏ではないか!


 我らは大宦官かんがん張譲ちょうじょう様の蒼頭どれいだぞ!」


 彼らはそう叫んだ。そう、相手はただのチンピラではない。未来の歴史にも残る高い悪名を残した宦官かんがん張譲ちょうじょうの奴隷なのである。その張譲ちょうじょうが後ろについているからこそ、ここまでの横暴が許されているのだ。


 どうやら、黒のじゅ張譲ちょうじょうよりも低い身分を表しているらしい。チンピラたちは黒のじゅ嘲笑あざわらい始めた。 


黒綬こくじゅでよくも我らに楯突いたな!


 お前ごとき下級官吏なぞすぐに潰してやるわ!」


 監奴かんどと呼ばれるリーダー格を除いた数人のチンピラたちは散開して白髪の男性を取り囲んだ。そして、各々、腰の刀に手をかけた。


 だが、その様子を目の当たりにしても、白髪の男性はまるで狼狽うろたえる様子もなく、全身から闘気を発し、彼らをにらみつけた。


「そんな脅しに屈すると思っているのか」


 白髪の男性は短いながらも鋭い言葉で、チンピラたちを一喝する。

 彼は腰の刀に手を伸ばそうともしない。しかし、まるで死を恐れていない様子で、チンピラたちに対峙する。その威圧感は遠巻きに見る僕らにもヒシヒシと感じるほどであった。


 だが、相手を下級官吏と侮るチンピラたちはまるで応える様子を見せない。


 そんな中、監奴かんどの男はその威圧感に何か感じるところがあったのか、白髪の男に向かって怒鳴った。


「ジジイ、お前、ただの下級官吏ではないな。


 名を名乗れ!」


 それに対して白髪の男はキッと監奴かんどにらみつけたまま、しっかりとした言葉で名乗りだした。


「私の名は盧植ろしょく


 あざな子幹しかん!」


 その言葉に監奴かんどはカッと目を見開いて、取り乱し始めた。


⋯⋯盧尚書ろしょく!」


 その名を聞いてチンピラたちの態度は明らかに変わっていた。はっきりと白髪の男に対するおそれが周りにも伝わってくるようであった。


 それはそうだろう。盧植ろしょくの名前は僕も聞き覚えがある。


 盧植ろしょくは学者として高名な人物だ。その一方で、将軍としても優れた人物であった。黄巾こうきんの乱では指揮官として活躍し、黄巾賊こうきんぞくを後一歩まで追い詰める。だが、宦官かんがんに賄賂を贈らなかったために更迭こうてつされてしまった。


 その後についてはよく知らなかったが、どうやら降格されても官吏として働いていたようだ。


 相手が黄巾こうきん討伐の英雄と知って、チンピラたちも自分たちでは敵わないと判断したのだろう。


「クッ、今日のところはこのぐらいにしといてやる」


 そう捨て台詞を吐き捨てると、急ぎ足でチンピラたちは去っていった。


 その光景に周りで見ていた市民は一斉に歓声を上げ、脅させていた店主は盧植ろしょくに感謝の言葉を述べた。


 さらに、それに加えて劉備りゅうびが前へと進み出し、盧植ろしょくの前へと現れた。


「先生、さすがです」


 そう言って劉備りゅうび盧植ろしょくへと一礼した。さらに「お久しぶりです」と付け加えた。


 そうだ、思い出した。


 確か、劉備りゅうびは若い頃、盧植ろしょくから学問を習っていたという話だった。つまり、盧植ろしょく劉備りゅうびの先生ということだ。


 しかし、随分昔の話なのか。相手の盧植ろしょく劉備りゅうびの顔にすぐにはピンときてない様子で、しばし考えていた。


「お前は⋯⋯もしや、劉備りゅうびか!」


 どうやら、相手の盧植ろしょくも思い出したようだ。


「あの時の少年が大きくなったものだ」


 師弟の感動の再会か。


 そう思って事の成り行きを見ていると、突如、盧植ろしょくは声を荒げて劉備りゅうびを叱りつけた。


劉備りゅうび、そこに直れ!」


《続く》

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?