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第四十九話 邂逅(三)

 僕は腐ったような匂いのする牛乳(?)に鼻を曲げ、思わず机に戻した。


 その様子を見た劉備りゅうびは思わず笑っていた。


「なんだ劉星りゅうせい挏馬酪酒ばにゅうしゅは初めてか?」


 劉備りゅうびは少しからかうような顔で、そう尋ねてきた。


馬乳酒ばにゅうしゅ


 聞いたことがある。これが馬乳酒ばにゅうしゅか」


 馬乳酒ばにゅうしゅは確か、モンゴルなんかで飲まれている馬の乳を発酵させて作る飲料だったかな。酒とはつくが、アルコール度数は二パーセント程度と低く、モンゴルでは老若男女問わず親しまれていると聞く。


「この頃には既にあったのか。


 ものは試しだ。飲んでみるか」


 僕はグイと一口、その馬乳酒ばにゅうしゅを飲んでみた。シュワシュワとした微炭酸の口当たり、匂いも強かったが、味も酸味が強くかなり癖が強い。美味しくいただくにはもう少し慣れが必要そうだ。


 その様子を見ながら、劉備りゅうび馬乳酒ばにゅうしゅの説明をしてくれた。


挏馬酪酒ばにゅうしゅは珍しい酒で、内陸の方で暮らしていれば、雒陽らくようみたいな街にでも来ないとまずお目にかかれない代物だ。


 だが、俺たちみたいに北方の胡族こぞくと接した暮らしをしていると、何度か呑む機会があったりする。


 お前も幽州ゆうしゅうの生まれなら呑んだこともあったかと思ったんだがな」


 確かに劉備りゅうびらの故郷は烏桓うがんの出身地に近い。呑む機会もあるのだろう。僕も一応は幽州ゆうしゅうの出身ということにしている。だが、実際は未来の世界から来た転生者だ。張純ちょうじゅんの乱の最中に記憶を取り戻したので、それ以前の記憶がない。未来でも呑まなかったので、初めての味だった。


「私の故郷も羌族きょうぞくとは共存して暮らしている。この挏馬酪酒ばにゅうしゅは馴染みの味だ」


 そういうと、馬超ばちょうは癖の強い馬乳酒ばにゅうしゅをゴクゴクと飲み干した。


 だが、同じく口をつけた関羽かんうは渋い顔つきであった。


「私の口には、どうにも口に合わないようですな。


 すみません。私には普通の酒を持ってきていただけませんか」


 関羽かんうが注文すると、まもなく、茶黄色の酒が運ばれてきた。まだ馬乳酒ばにゅうしゅに慣れない僕も、関羽かんうの酒がくると、そちらを分けてもらうことにした。


 そこからしばらくは、馬超ばちょうこう少年から西方の話を聞きつつ、食事を楽しんだ。


「さて、飯も食ったところでそろそろ行くか」


 そう言い、劉備りゅうび馬超ばちょうらへと振り向いた。


「お前さん、逆旅やどやはもう決まっているのかい?」


「いえ。昨日までは西市を中心に活動していました。今日から東市を活動の中心にするつもりだったので、改めて逆旅やどやを取るつもりです」


 馬超ばちょうがそう答えると、劉備りゅうびはニカッと笑って尋ねた。


「それならここで会ったのも何かの縁だ。一緒に逆旅やどやを探そう」


「いや、私は⋯⋯」


 言い淀む馬超ばちょうに、劉備りゅうびはさらに詰め寄って言葉を続ける。


「お互い素性がバレたくない身の上だ。


 もうバレる心配のない俺たちと固まって動いた方が安全だぞ」


「⋯⋯わかりました。同行しましょう」


 半ば強引といった感じではあったが、馬超ばちょうにウンと首を縦に振らせた劉備りゅうび。彼は得意な顔で皆を従えて店を退出した。


 店から出る時に、劉備りゅうびはすぐ後ろに控える関羽かんうに小声で尋ねた。


「あの馬超ばちょうという男の腕前をどう見る?」


 低くくぐもった声でそう尋ねると、関羽かんうもそれに合わせた声色で顔を近づけて答えた。


「恐ろしく早い動きでした。


 あのまま劉星りゅうせい殿の喉を貫いていたら、私や張飛ちょうひでも反応できなかったでしょう」


「末恐ろしいガキだ」


 劉備りゅうびはフッと笑ってそう返した。


「兄者はそれであの子との同行を提案したのですか?」


 関羽かんうは続けてそう尋ねた。彼の目には、どうにも劉備りゅうび馬超ばちょうとの縁を持とうとしているように映っていた。


「それもあるが⋯⋯劉星りゅうせいだ」


 そう言って、彼はあごで後ろを指し示した。そして、さらに話を続けた。


「あいつが何故か会ったこともない人物の名を知っていることがある。詮索しないのがうちの決まりだから、理由はわからん。


 今回も馬騰ばとうならまだしも、その息子の名前を知っていた。面識も無さそうだ。とても知り得ぬ名前だろう。


 だが、あいつが知っている相手は何処か特別な力を持っている。


 劉星りゅうせい馬超ばちょうの名を知っていた。ならば、ここで縁を作っておくに越したことはない」


「なるほど」


 関羽かんうもようやく合点がいったという表情で返した。


「しかし、惜しいな。


 できることなら仲間に加えたいが、馬騰ばとうと言えば西方の雄。その息子ではな。


 対して俺は今や無職。とても、今の俺では仲間に加わらないかと声はかけられん。


 せめて、今のうちにもう一つくらい何か縁を作っておきたいところだが⋯⋯」


 そんな会話が前でヒソヒソと交わされていることも知らず、僕らは店を出た。


「どういうことだ、テメー!」


 店を出た途端に大きな怒声が飛び交い、僕らは一斉に左手を向いた。


 どうやら、二軒先の居酒屋で騒動が起きているようであった。


「チッ、厄介事か」


 劉備りゅうびの嘆きに合わせるように、僕らは目立たつよう野次馬の列に混じって、ひとまず、事の推移を見守った。


 数人の男たちが店の入り口を取り囲み、その先にいる店主に向かって罵声を浴びせている。


「おいおい、先日より酒代が随分上がってるじゃないか。


 我らからぼったくろうなんて酷い野郎だ」


 一人が前に一歩踏み出し、店主に向かって凄んでみせた。


 それに対して店主は平身低頭、ひたすら身を屈めて謝っていた。


「すみません。物の値段が上がっているのです。決して不当な値上げではございません」


 一見すると、チンピラに絡まれた店主といった様子である。


 しかし、その光景には違和感があった。


 それは、その取り囲む男性はいずれも青い衣服、つまり奴隷であった。


「えっ、奴隷がこんな騒動を⋯⋯?」


 主人の指図なのだろうかと、僕は周囲を見回した。しかし、それらしい人物はいない。奴隷の集団の真ん中にいる男が、どうやらリーダー格のようであったが、その男もまた青い衣服を着ていた。


 彼らは皆、奴隷の身でありながら店主を脅しているのである。そして、その様子を周りの者は誰も止めようとしない。それどころか、腫れ物でも見るように、遠巻きにして関わろうともしない。目を背けて早足に通り過ぎる者も少なくない。


「言い訳をするんじゃねぇ!」


 前にいた奴隷の一人は店主に向かって激昂し、腰の刀を抜いた。そして、刃にギラリと光りを反射させ、その切っ先を店主に向けた。


「ひいい。わかりました。


 貴方様には先日の値段で結構ですので、ご勘弁を」


 店主がついに折れると、奴隷の男は待ってましたとばかりにニヤリと笑った。


「いや、許さねぇ。


 我らを謀ったのだ。別に謝罪として金を寄越せ!」


「そんな無茶な!」


 もはや、店主は奴隷たちのカモと成り下がった。奴隷たちは一度譲った店主に対して、際限なく要求を叫んでいる。対して店主は半泣きになりながら、ひたすら謝るばかりであった。


「おい、ありゃ、やり過ぎじゃねぇか!


 兄貴、助けに行こうぜ」


 張飛ちょうひは目をカッといからせ、今にも飛び出さん勢いで、腰の柄に手をかけている。


 だが、劉備りゅうびはすぐにそれを制止させた。


「待て、何かおかしい。


 白昼堂々、刀を抜いているというのに市兵は見て見ぬふりをしている。ほら」


 劉備りゅうびに言われ、周りに目をやると何人かの市兵を見つける事ができる。しかし、皆、遠巻きにして誰も助けに入ろうとしない。ただの一般市民ならまだしも、甲冑に身を固めた市兵でさえ彼らを止めようとはしていない。


「どういうことなんだ。彼らはただの奴隷じゃないのか?」


 僕は劉備りゅうびにそう尋ねた。


劉星りゅうせい、前に言ったろ。


 蒼頭どれいは“主人次第”だと」


 劉備りゅうびの言葉を、さらに馬超ばちょうが続けた。


劉備りゅうびさんの判断が正しい。


 あの男たちには手を出さない方が良い。


 彼らは⋯⋯」


 馬超ばちょうが話を続けるより先に、奴隷の一人が後ろにいたリーダー格の奴隷を指し示しながら大声でその答えを唱えた


「ここにいるお方をどなたと心得る」


 その言葉に周囲の者たちも一斉に後ろのリーダー格の男に目を向ける。歳は三十ほどと、取り囲む奴隷の中では年長者と言えた。奴隷にしては細身で色白だが、見た目からはこれと言って特別な存在には見えなかった。


「このお方は大宦官かんがん張常侍ちょうじょう様の監奴かんど(奴隷頭)・詹子応せんしおう様だ!」


 その言葉を聞いて、僕はコソッと劉備りゅうびに尋ねた。


劉備りゅうび監奴かんどって何?」


蒼頭どれいたちのまとめ役を任された蒼頭どれいのことだ」


 さらに男は自分たちを指差して叫んだ。


「そして、我らは皆、張常時ちょうじょう様の蒼頭どれい。我らに従わぬのは張譲ちょうじょう様に従わぬのに等しいぞ!


 わかっているのか!」


 彼らの言う張常時ちょうちょうじとは宦官かんがん張譲ちょうじょうのことだ。その名はよく知っている。


 張譲ちょうじょうは朝廷を牛耳ぎゅうじ宦官かんがん、その中のトップ集団である十常侍じゅうじょうじのさらに筆頭。三国志でも腐敗政治の象徴的に描かれる人物だ。


 後漢を衰退させた元凶のような印象であったが、その奴隷でさえこれほど横暴なのか。


 奴隷は主人次第という話だったが、なるほど。一口に奴隷といっても、主人によってはこれほどまでに変わってしまうのか。


「まずいな。張譲ちょうじょうか。


 厄介な相手だ。ただでさえ素性を明かしたくないというのに」


 その名を聞いて、さすがの劉備りゅうびも尻込みしてしまったようだ。どうやら、既に張譲ちょうじょうの悪名は広く知れ渡っているようだ。


 その名に誰もが躊躇ちゅうちょしたその時、老境に差し掛かったほどの年齢の男性が一人、集団の前へゆっくりと歩み寄っていった。


「お前たち、ここは天下の市場だ。


 その物騒なものを収めよ」


《続く》

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