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第四十四話 洛陽(六)

「この子供も自分を売ったのだろうか?」


 僕は奴隷市場にいた少年の方に目を向けながら、劉備りゅうびに尋ねた。


 彼は少し考えて、答えてくれた。


「そんな子供なら親に売られたかな。


 後は婢妾ひしょう(女奴隷)との間に産ませた子を蒼頭どれいにする場合もあるな。


 そういや、最近は人さらいが増えたらしいな。世が乱れれば、人を誘拐して、遠くの地で売り飛ばす。そんなことが横行するようになる」


 とんでもない話だ。子供を売ったり、さらってきて奴隷にするなんて。

 しかし、こういうことも含めて乱世なのだろう。何とか助けることができればいいんだけど。


「そうだよな。子供が自分の意思で奴隷になろうとなんてしないよな。


 しかし、そんな酷いことが平気で行われているなんて⋯⋯。


 劉備りゅうび、この子だけでも買い取ってやることは出来ないか?」


 そう尋ねたが、劉備りゅうびまぶを歪めながら答えた。


「おいおい、話を聞いてたか?


 蒼頭どれいは一人、一万五千銭もする高価なもんなんだよ。俺は月給二千二百銭、それも三ヶ月足らずで辞めちまったんだぜ。


 コイツは子供だから、もうちょっと値段は安くなるだろうが、それでもポンと出せる額じゃねぇよ」


「そりゃそうだよな⋯⋯。


 すまない、今はまだ僕は無力なんだ。せめて、良い主人に買われてくれ」


 そう言って、僕は柵の中の子に謝った。その奴隷の子は一言も発さず、ただ笑顔で手を振るだけで返した。その仕草に胸を痛めたが、感情をグッとこらえることしかできなかった。


 僕が我慢できずにその場から離れようとすると、それを感じとったのか、劉備りゅうびはこの場からの移動を提案してくれた。


「さて、いつまでも蒼頭どれい市場を見ていても仕方がないだろう。


 そろそろ逆旅やどやを探そう。一度、俺たちの馬のところまで戻るぞ」


 確かにここで何時までも見ててもできることがない。今はただ、彼ら彼女らが少しでも優しい主人に買われることを祈るしかできない。


 歴史通りに行くならば、劉備りゅうびは将来、大きく出世する。そうなれば多くの奴隷を救えるかもしれない。


「そうなっても、今ここにいる人たちを救うことはできない⋯⋯。


 いや、やめよう。できないことをこれ以上考えてもどうにもならない」


 僕は後ろ髪を引かれる思いで、奴隷市場を後にした。


 そこから市場入り口までの帰り道、重苦しい空気が流れた。いや、正確には僕一人が重苦しい空気を発していた。三人は雑談をしながら来た道を戻っていたが、僕は話を振られても、「ああ」とか「うん」とか簡単な返事しかできなかった。ただ、前の三人を追いながら、うつむきながら歩いて帰った。


「おい、あいつなにしてやがるんだ?」


 張飛ちょうひのデカい地声に、フッと僕は我に返った。どうやら、張飛ちょうひは何かを見つけたようだ。


 何事かと思い張飛ちょうひに言われるまま目線を彼の指差す方へとやった。


 指差す先は市場の入り口。そこには市場を利用する客の馬が何頭も止められていた。張飛ちょうひが指し示していたのはさらにその先、僕らが預けていた四頭の馬であった。そして、その馬の前に一人の少年がうろついていた。歳は十歳くらいだろうか。青い衣服を着ており、先ほど聞いた話から彼もまた奴隷であるのだろう。


 彼が奴隷であることを除けば、少年がうろついているだけのこと。何処にでもある光景だ。


 だが、よくよく目を凝らすと、その少年は止めていた張飛ちょうひの愛馬・黒燕こくえんの結んでいた手綱をほどこうとしていた。


「まさか、馬泥棒か!」


 僕がそう呟くとほぼ同時に、張飛ちょうひが「野郎!」と言いながら前に進み出た。


「待ちやがれ!!!」


 張飛ちょうひの張り裂けんばかりの大音声だいおんじょうが辺りにとどろく。あまりの大声に辺りは騒然とし、周辺に止めてあった何頭もの馬が騒ぎ出した。


 だが、間一髪、間に合わなかった。


 既に黒燕こくえんの手綱はほどかれていた。少年は黒燕こくえんに手慣れた様子でヒラリと飛び乗った。そして、張飛ちょうひの大声に驚く黒燕こくえんの馬体にむちを入れ、そのまま逃げ出してしまった。


「野郎、待て!」


 走り去る馬泥棒の少年を追いかけて、張飛ちょうひが駆け出そうとするのを劉備りゅうびは押し留めた。


「待て、張飛ちょうひ


 馬相手に走って追いかけるつもりか!


 ここは劉星りゅうせいに任せろ!」


 そう言い、劉備りゅうびは僕の方へと振り返った。


「こんなことなら門兵にいくらか握らせておくべきだった。


 すまんが、劉星りゅうせい、奴を追いかけてくれ!」


「任せてくれ!」


 僕は胸を叩き、自信満々に答えた。


「頼むぞ、劉星りゅうせい!」


 僕はすぐさま、愛馬・彗星すいせいに駆け寄り、その背にまたがった。そして、腹を押して彗星すいせいを走らせると、すぐにあの馬泥棒の少年を追いかけた。


 既に少年は彼方の先にいる。彼は南に向かって爆速で駆け抜けていっている。


「この人混みの中を縦横無尽に進んでいる。


 あの少年、一体何者なんだ?」


 洛陽らくよう内の一般道は馬に乗ったまま通行してもよいそうだ。それでもあれだけの速度で駆け抜けるような人はいない。道行く人は皆驚き、中には立ち止まる人もいる。


 そんな状況でも少年は一度も立ち止まることも無く、通行人の隙間をってスッスと突き進んでいく。


 僕らが連れてきた四頭の馬はいずれも軍馬だ。他の移動用の馬に比べればどれもたくましい体つきをしている。あの繋がれていた馬の中でも目立つ存在だったんだろう。


「僕らの馬が狙われるのも分からなくはない。


 しかし、あの子は四頭の中から張飛ちょうひ黒燕こくえんを奪った。


 この彗星すいせいも、劉備りゅうび驪龍りりゅうも主を選ぶタイプの馬だ。そして、関羽かんう赤蹄せきていはかなりの悍馬かんばだ。


 この四頭の中だと黒燕こくえんが最も乗りやすい馬だ。


 だが、それを見ただけであの子は見抜いた。なかなかの目利きの持ち主だ」


 一体、あの少年は何者なのか。興味が尽きない相手だ。馬の目利きも乗馬技術も一級レベル。あんな少年がこれだけの水準のものを持っているなんて。


 しかし、そうしている間にも少年は見えないほど遠くへと走り去ってしまっていた。


「あの少年は街の地図が頭に入っているんだろう。


 対して、僕はまだ洛陽らくように来たばかりで土地勘がない。完全に見失うと追いつくのは難しいだろうな。


 だが、幸いにも洛陽らくようの道は格子状こうしじょうに張り巡らされていてそこまで複雑ではない。


 そして、騎乗のまま市場に入れば市吏に捕まる。高級住宅街に行っても目をつけられる。


 ならば、あの子が向かう先は一般の住宅街!」


 僕はあの子の行き先にアタリをつけて馬を走らせた!


 洛陽らくようの中心地に向かうほど高級住宅地に入っていく。そちらに行けば当然、警備の目は厳しい。あの少年はそちらには近づかないだろう。そして、それは市場や城門付近も同じことだ。


 それらを潰していけば、少年が進む方向はある程度絞ることができる。


 僕は彗星すいせいを旋回させ、一般の住宅街の方の道へと突き進んだ。住宅街の一般道を馬で全力疾走する僕らに、道行く人々は驚いて逃げ惑っている。


 しかし、よくよく目を凝らせば、道の先に僕らとは違う方向に驚いている人物を見つける事ができる。


「あそこだ!」


 僕はその方向を目指して住宅街を突き抜けた。抜けた先のちょうど目の前に、先ほどの少年が黒燕こくえんに乗って現れた。


「当たった!


 さあ、僕らの馬を返せ!」


 先ほどまではるか後方にいたはずの僕が、すぐ目の前に現れて、馬泥棒の少年は驚いた様子であった。


 だが、捕まるまいとその馬泥棒の少年も必死に馬を走らせて逃げようとする。


 少年は黒燕こくえんあぶみに足を入れておらず、あぶみは宙を舞うばかりであった。黒燕こくえんあぶみは百八十センチもある張飛ちょうひの身長に合わせている。少年なら足が届かないのは当然と言えるだろう。


 だが、少年はまるで落ちる気配がない。それどころか体の身軽さを利用して、馬上で体を左右に大きく揺らし、巧みに体重を移動させて馬をさらに加速させていく。


「なんて子供だ!


 ジョッキーにしたいぐらいの乗馬技術だ!」


 張飛ちょうひ黒燕こくえんは四頭の中で最も大人しい馬だ。


 しかし、それはあくまであの四頭の中での話だ。


 黒燕こくえん張飛ちょうひの巨体を支えるほどの力強さを持った軍馬だ。

 誰でも彼でもがすぐに乗りこなせるような馬ではない。


「それをあんなに乗りこなせるなんて⋯⋯。


 張飛ちょうひより乗りこなせているじゃないか」


 ただの馬泥棒にしておくのは惜しい才能だ」


 先ほどからあの子の乗馬技術は傑出していると思っていたが、これほどまで乗りこなせるとは思わなかった。


「だが、今はあの子を捕らえることに専念しなければ。


 相手が大人顔負けの馬乗りとはいえ、こちらはプロのジョッキーだ。負けるわけにはいかない!」


 僕は彗星すいせいをさらに加速させた。


《続き》

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