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第四十二話 洛陽(四)

 安喜県あんきけんを去ってから、洛陽らくようにたどり着くまであまり情報が入ってなかったから知らなかった。


「そうか、張純ちょうじゅんが討たれたのか!


 公孫瓚こうそんさんの兄貴が苦戦していると風の噂で聞いて心配していたが、そうか勝ったのか」


 劉備りゅうびはその一報を聞いて安堵あんどの表情を浮かべている。


 討伐軍の指揮官・公孫瓚こうそんさんとは劉備りゅうびは昔馴染みの間柄であった。張純ちょうじゅんとの戦況はあまり良くないと話を聞いて、彼は公孫瓚こうそんさんのことを気にかけていた。


 安喜県あんきけんを去る時に、救援に赴こうという意見もあった。だが、劉備りゅうびがお尋ね者になったこと。そして、公孫瓚こうそんさんは食糧不足に苦しんでいるという話を聞いて、自分たちの食糧も満足に用意出来ない状況で救援に赴いても、返って戦況を悪化させるということで話は流れた。


 劉備りゅうびからすれば、これで一安心ということだろう。


 しかし、僕には別に心配することがあった。


「それで、張純ちょうじゅん以外にも討たれていたんですか?


 他には誰の首がさらされていましたか?」


 僕にはもう一人、気になる人物がいた。


 それは張媛ちょうえんという女性だ。


 彼女は乱の首謀者の一人・張挙ちょうきょの娘であった。会った頃の彼女は父の身代わりとして扱われていた。父の身代わりに囚われるのを気の毒に思い、僕は彼女を何処か遠くの地に逃がそうとした。しかし、僕らでは官憲の目を逃れるのは難しく、結局は烏桓うがんの人々にゆだねることとなった。


 その後の彼女については全くわからない。だが、張純ちょうじゅんが殺されたのであれば、彼女が巻き込まれてしまう可能性は十分考えられた。


 僕の質問に、店主を首を横に振って答えた。


「いや、わからんな。


 張純ちょうじゅんの首以外はなかった。


 少なくとも他にも討たれたとは聞いていないな」


「そうですか⋯⋯。


 あの子が無事ならいいんだが⋯⋯」


 ここでは烏桓うがんがどうなったか知るよしもない。ましてや、そこで密かに暮らす一人の女性の無事を確認するなんてとても無理だ。


 僕はただ祈るしか無かった。


 僕が不安にかられていると、隣の劉備りゅうびが僕の肩に手を置き、なぐさめるような口調で話し出した。


劉星りゅうせい、断言はできんが、恐らく、大丈夫だろう。


 彼女は烏桓うがんに保護された。確か保護した者は烏桓うがん王の従子おいと名乗っていた。それほどの大物が共に討たれたのなら、噂ぐらいは流れてくるだろう。


 その噂もないのなら、恐らく、あの時会った王の従子おいはまだ無事だろう。そして、あの男が無事なら彼方も無事であろう」


 僕は劉備りゅうびの言葉にひと先ず安心することにした。


 確かに劉備りゅうびの言うとおりだ。烏桓うがんの大規模な討伐が行われていれば、その噂が入ってくるだろう。


 それにあの時あった烏桓うがん王の従子おい蹋頓とうとんという人物には聞き覚えがある。


 恐らく、この後の歴史でも活躍する人物だろう。それならば、まだ死んではいないはずで、彼に保護された彼女の身も安全と判断できそうだ。


 うん、大丈夫だ。きっと彼女は無事だ。


「そうだな、劉備りゅうび


 今は烏桓うがんを信じよう。気持ちを切り替えていかないと」


「ああ、お前は馬を見ている時の方が良い。


 せっかく、名馬がいるだ。じっくり見ろ」


 これ以上、ここで心配してもどうにもならない。今は劉備りゅうびの言うように目の前のことに集中しよう。


 今、目の前にいるのは僕が焦がれていた汗血馬かんけつばだ。


「そうだった。


 僕は馬の値段を聞こうと思っていたんだ。


 店主、この汗血馬かんけつばの値段はいくらですか?」


 僕は天下に二頭といないであろう、芦毛あしげ黒斑くろぶちの名馬を指差して、店主に金額を尋ねた。


 店主で得意気に指でVサインを作りながら、高らかに宣言した。


「ズバリ、二百万銭だ!」


「二、二百万銭!


 ……っていくらくらいなんだ?」


 驚いてはみせたものの、額がデカくていまいちピンとこない。そもそもこの時代の金銭感覚だってまだ完全には身に付いていないんだ。


「さっき食った胡餅こへいが一枚、四十銭。


 つまり、胡餅こへい換算なら五万枚分だな」


 劉備りゅうびに言われ、僕は思わず先ほど食べた胡餅こへいを吐き出しそうになる。


「胡餅五万枚!


 ⋯⋯ってことはいくらだ?」


 今し方食べた胡餅こへいは大きな円盤型ではあったが、所詮はパン。未来の日本で買えばどんなに高くても数百円ぐらいなもんだろう。


 しかし、それは飽食の時代の日本での話。


 この時代では食糧の生産量が違う。そもそも今は食糧難だと散々言われていた。当然、物価は上がってるはず。となると、先ほどの胡餅こへいもちょっと高めの外食くらいに考えていた方が良いのかもしれない。


 仮に胡餅こへいが一枚五百円なら、二百万銭は二千五百万円。五千円なら二億五千万円か。

 汗血馬かんけつばを高級外車と考えたら、決してありえない額ではないか。

 二億はよっぽどだけども。


「……ちなみに劉備りゅうび、二百万銭って持ってる?」


「バカ言うな。あるわけ無いだろ」


 念の為に劉備りゅうびに確認を取ったが、一刀両断に切り捨てられてしまった。

 まあ、そりゃそうか。そんな額をポンと用意できるものでもないよな。


 劉備りゅうびは続けて金事情について説明をしてくれた。


「俺の県尉けんいの時の月給が三十こく(穀物約六百リットル)だぞ。


 米の相場にもよるが、一せき(約二十七キログラム)が百銭の場合で換算すると、だいたい二千二百銭ってところだ」


「え、月に二千二百銭ということは⋯⋯。


 県尉けんいの給料だと九百九ヵ月分か!

 年換算なら約七十五年分!」


 県尉けんいといえば下級とはいえ公務員だろうに、とても手が届く額ではない。

 汗血馬かんけつばってそんなに高嶺たかねの花なのか。


「そもそも、これだけの高額なものとなると、銭じゃなくて金とかで買うもんだ。俺は金なんて持ち歩いてないぞ」


 そうか。この時代にはまだ紙でできた貨幣はない。代わりに高額なものは黄金を貨幣として使う。他に布を貨幣代わりに使うこともあるが、劉備りゅうびは黄金も布も持ってはいない。小銭なんて嵩張かさばるもので、二百万銭も持ち歩けばさすがに荷物を見ればわかるものだ。劉備りゅうびがそんな大金を持っていないのは間違いないだろう。


「た、高すぎる⋯⋯」


 僕は両手を地面に突き、わかりやすく落ち込んだ。汗血馬かんけつばは高いだろうとは思っていたが、ここまでの現実を見せられては落ち込まずにはいられない。


 あまりの落ち込み具合に、劉備りゅうびは見兼ねて店主に何やら尋ね始めた。


「店主、その汗血馬かんけつばが名馬だってのは俺の目にもわかる。


 しかし、二百万銭ってのはあまりにも法外すぎねぇか」


 そう言いながら劉備りゅうびはゆっくりと店主の側へと歩み寄り、話を続けた。


「俺が暮らしていた河北かほく(黄河こうが北部)の辺りなら馬は一頭五千銭もあれば買える。もちろん、名馬となれば値はいくらも上がる。だが、それでも二十万銭くらいが上限だろうよ。


 ここが雒陽らくようということを差し引いても、なんぼなんでも二百万銭ってのは高すぎじゃねぇか?」


 僕は立ち上がり、劉備りゅうびの言葉に耳を傾けた。どうやら、二百万銭というのはこの時代の感覚でも相当高い額らしい。


 だが、それに対して店主は落ち着いた様子で答えた。


「お客さん、あんたの言うことはもっともだ。


 確かに数年前まではここ雒陽らくようでも二十万銭くらいで馬が買えたさ。


 それが、何年か前に騄驥廄丞りょくききゅうじょうという役職が新設されてな。要はくにが軍備を整えるために馬を全国から集めさせたんだ。


 それを知った豪族は事前に馬を買い占めていった。これよって馬不足になってしまった。そのために市場の価格はドンドン吊り上がっていったんだ。


 気づいた頃には二百万銭にまで上がっていたというわけさ」


「うちは中山国ちゅうざんこくの商人から買ってるが、価格は良心的だったな」


 確かに劉備りゅうびの言う通り、前に馬商人の張世平ちょうせいへいから購入した時はそんな法外な額は言っていなかった。


「結構前のことだからな。地方によっちゃそろそろ価格も安定した頃だろうよ。


 しかし、雒陽らくようには豪族の息のかかった商人も多い。うちだけ相場より安売りしちまったら豪族に目をつけられちまう。汗血馬かんけつばのような目立つ馬となると尚更よ。


 だから、安売りはできねぇ。すまんな」


 そう言って店主は頭を下げた。こう説明されては、こちらも納得するしかない。劉備りゅうびも頭を下げて返した。


「こちらこそ事情も知らずに無理に突っかかってすまねぇ。


 悪いが、俺たちはそんな高額な馬は買えねぇ」


 店主はニコリと笑って答えた。


「気にするな。言っては悪いが、二百万銭の馬を買う客かどうかは見ればわかるよ。


 私は各地の話を聞くのが趣味だからな。君たちの話が聞けただけで十分さ」


「しかし、そんな額では買い手なんて滅多に現れんだろう。よく、こんな状況で生活できているな?」


 劉備りゅうびにそう尋ねられ、店主は頭をかき、目を泳がせているようであった。


「あ、ああ、そうだな⋯⋯。


 ここ数年で随分、生活が変わっちまった」


 店主は今までの豪放さとは打って変わって、ため息をつき、下に目線を移して愚痴をこぼし始めた。


《続き》


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