太尉・馬日磾が提案した張純の乱に参戦した将兵の昇進の件に対して、宦官・張譲はあっさりと切り捨てた。
「それは本日の議題ではありませんな。
今は劉幽州の昇進のみが議題ですぞ」
「しかし……」
まだ、食い下がろうとする馬日磾を、張譲は一喝した。
「馬太尉、御前ですぞ!」
その一喝に、皆は一斉に張譲の後ろに座るその玉体へと目を移した。
周囲の視線が自分に注がれているのを感じた霊帝は馬日磾を叱るような言い方で注意を述べた。
「馬日磾、今回、張純を捕えたのは劉虞の功績だ。今は劉虞の昇進のみ議論すれば良い。
残りの者たちはいづれの機会にでも議論すれば良かろう」
馬日磾も霊帝自身に止められてはこれ以上話すことは出来ない。やむなく議文を書き直し、それを提出した。
宦官の張譲はその議文に署名を集めると、霊帝に恭しくそれを差し出しながら述べた。
「陛下、決まりました。
劉幽州は太尉に任じ、容丘侯に封ずるのが適当かと思われます」
「よし、わかった。
では、今の太尉・馬日磾は本日をもって罷免とする。
そして、劉虞を太尉・容丘侯とする。
ただし、幽州牧は劉虞以外に代わりは務まらない。牧の役職はそのまま兼務とし、幽州の地で太尉の職に就くこととせよ。以上」
そう言うと、霊帝は満足気な様子で、張譲含む宦官数名を率いて、赤い木沓をカツカツと鳴らしながら、殿中を退出していった。
議会はこれにて終了した。参加した官僚はそれぞれの部署へと帰っていった。
〜〜〜
その議会からの帰り道、馬日磾は一人、釈然としない思いを吐露していた。
「今日もまた、陛下は朝服ではなく、祭服を召されていたか⋯⋯」
今回の議会で霊帝が着用していた衣服は冕冠龍袞と呼ばれる。本来は祭祀などを執り行う時に着用する正装であった。今回のような議会であれば、文官と似たような朝服が適切と言えた。それをわざわざ霊帝は正装で参加していた。
「わざわざ、冕冠龍袞をお召しになるというのは、我らを威圧するのが目的であろうか。
我ら朝臣は敵ではないというのに⋯⋯」
馬日磾はため息をつき、さらにこの度の辞職を振り返った。
「私が太尉の職を辞すのは良い。
しかし、私が太尉の職にあってまだ一年と経っていない。前任の樊徳雲(樊陵)殿はわずか一月で罷免された。
丁元雄(丁宮)殿も劉子高(劉弘)殿も三公に就いてまだ数ヶ月だ。
こうもコロコロ三公が変わってしまっては威光も何もあったものではない。
劉虞にしても太尉に相応しくないとは思わない。だが、張温の先例があるとはいえ、朝廷に出仕せぬままの太尉とは⋯⋯」
馬日磾は胸中を吐き出すように嘆いた。
三公が大臣最高位と言っても、こうも頻繁に成り手が代わっては威信も衰えてしまう。
そうなれば当然、変わらないものへと威信が集まっていく。それが宦官か、それとも、外戚か。
馬日磾は今朝の議会を振り返りながら、今の状況を憂いた。
そんな彼の後ろから別の声が轟いた。
「馬太尉!」
まるで鐘の音のようなよく響き渡る声が彼を呼び止めた。
現れたのは長身の馬日磾よりまだ高い八尺二寸(約百八十九センチ)。歳は五十代頃。面長な顔に白髪混じりの長い眉と髭を生やしている。馬日磾ほど体格はゴツくないが、彼もまた威厳をよく備えた容姿をしていた。
「おお、盧子幹殿ではないか」
彼の名は盧植、字は子幹。今は尚書の職位にあった。
「盧子幹殿、私を太尉と他人行儀に呼ばないでいただきたい。知らぬ仲ではないではないですか」
馬日磾は苦笑いして彼に答えた。
盧植は馬日磾と同様、学者としてもよく知られた人物であった。さらに言えば彼は後漢の著名な大学者・馬融の教え子であった。馬日磾はこの馬融の族子であり、彼の教えを受けた。言わば二人は同門であった。
また、二人は過去に後漢の公式な歴史書『漢紀』(『東観漢記』)の編纂に携わった間柄であった。
「しかし、私は尚書、貴方は太尉だ。
この場では身分の差を重んじねばならない」
盧植は尚書台に属していた。今回のような議会で決まった内容を改めて文章に起こし、それを官民に伝達するのを役目とする。
その長官は尚書令、次官を尚書僕射と言い、盧植の尚書はその次の地位であった。
また、盧植の腰から垂らしている綬も、馬日磾の紫綬より二つ低い黒綬であった。
だが、盧植の言葉に、馬日磾は首を横に振って答える。
「順当であれば、あなたの方が先に三公の位に就いていたことでしょう。
全ては宦官のせいです」
かつて、盧植は黄巾の乱では討伐の指揮官を務めていた。
しかし、視察に来た宦官に賄賂を贈らなかったために、投獄された。
それを同僚の皇甫嵩の執り成しのおかげで罪を許され、復職した。
だが、その一件が尾を引き、未だにその地位は尚書のままであった。
「全ては陛下が決めたこと。
私はそれに従うだけだ」
盧植の言葉に馬日磾はため息混じりに答えた。
「陛下は英邁な方だ。
だが、あまりにも宦官を信用しすぎている。さらには大将軍も宦官に従っている。
今や権力は完全に宦官と外戚に握られてしまっている。
このような者が陛下の側に蔓延っている限り、良い判断が出来るとは言い難いな」
そうボヤく馬日磾を盧植はすぐに窘めた。
「馬翁叔殿、口を慎み給え。何処で誰が聞いているかわからぬぞ」
盧植の顔つきは怒っているようであった。馬日磾を心配しての言葉であった。それを察した彼はまたも苦笑して返した。
「貴方だって、その程度のことで口を慎んだりしないでしょう。
それに私は先ほど、太尉の職を免官になった。今更、気にすることもあるまい」
その言葉に盧植は目を瞑ってしばし考えたが、目を見開くと再び話し始めた。
「中央では宦官や外戚が力を持ちすぎた。
政治を糺すべき我ら士大夫は立場が弱くなるばかりだ」
盧植もつい、自身の思いを暴露した。彼もまた内心では宦官らに憤りを感じている一人であった。
いや、宦官によって処刑されかけた分、憤りはより強いだろう。
盧植の辛酸をよく知っている馬日磾は彼の言葉にため息をつき、天を仰いだ。
「中央では官僚の力は弱まり、政治腐敗が進んでいく。その一方で、地方の力を増すような政策ばかりが行われていく。
果たしてこの漢はどうなるのであろうか……。
かつての戦国の世のように諸侯が乱立する群雄割拠の時代がこなければよいが……」
〜〜〜
督郵の一件で安喜県を去ることになった劉備に同行して、僕・劉星と関羽・張飛はこの後漢の首都・洛陽を目指して進んでいた。
「洛陽はこの時代では一番の大都市だという。
涿県や安喜県では見たこともない文物が揃っている事だろう。
それだけでも心躍るが、洛陽にはさらに心躍る存在がいる。
それは“汗血馬”、アラブ種の馬がいるという。
アラブ馬は未来のサラブレッドの原種になった馬だ。
是非ともお目にかかりたい。出来ることなら購入したいが難しいだろうか⋯⋯」
僕はまだ見ぬアラブ馬に胸を躍らせていた。
しかし、楽しいことばかりではない。心配の種もある。
僕は未来からきた転生者だ。
だから、この先どうなるかも知っている。
この先、洛陽は魔王・董卓によって支配される。
その魔王打倒に立ち上がった曹操ら反董卓連合軍と大規模な戦争に発展。連合軍に抗い難いと判断した董卓は首都を長安へ移してしまう。
そして、華の都・洛陽は董卓によって燃やされて灰になってしまう⋯⋯。
「出来ることなら、この董卓に関わりたくはない。
まだ、董卓が政権を取ってはいないようだ。後、どのくらいの時間が残されているのか分かれば良いんだが。
今がいつなのか確認出来ればなぁ⋯⋯」
これが目下の悩みだ。董卓の乱が発生するまでのタイムリミットを知りたい。
今が何年か分かればまだ対策の取りようがあるが、それには別の問題がある。
「劉備、今何年だっけ?」
「今は中平六年だな」
これなんだよ!
わかんないんだよ、年号で言われてもさ!
なんで西暦じゃないんだよ!
「年号もちゃんと覚えておくべきだったなぁ⋯⋯。
督郵の事件から期間が空いていたように覚えてるんだが、はっきりとは覚えてないし。
何事も無いと良いな」
一抹の不安を抱え、僕らは洛陽への道を急いだ。
《続く》