「うわっ!
何をする!」
僕は督郵から振り下ろされた杖の一撃を咄嗟に避けた。
思わず僕の手は腰の剣に伸びた。
しかし、相手は督郵。斬り捨てるわけにもいかず、すぐにその手を引っ込めた。
だが、その手の動きを督郵は決して見逃しはしなかった。
「どうした?
私を切るつもりか?
その剣を抜けば県尉諸共しょっ引いてやるわ!」
どうにも相手が悪すぎる。已む無く僕は逃げようとするが、すぐに督郵に引き止められた。
「逃げるな!
逃げれば宿舎に偸みに入った罪でお前を捕らえるぞ!」
既に相手は僕の正体も知っている。下手に逃げれば劉備らにも責任が飛ぶだろう。
早く関羽の件を解決したいばかりに焦って失敗してしまった。
「さあ、そこに座れ!
貴様の無礼へ罰を与える!」
劉備に迷惑をかけることは出来ない。僕はその場に跪き、督郵の罰を受けることになった。
「ほら、一! 二!」
「ビシッ」「バシッ」と僕の身体は何度も杖で打たれた。激痛に身悶えながらも、歯を食いしばり、仲間を思って必死に耐え続けた。
「ウグ……グッ……!」
「十九! これで二十!」
督郵の「二十」の声に合わせて、渾身の一撃が放たれた。
僕は思わず叫び声を上げて、前のめりに倒れた。
「どうした!
罰はまだ終わってないぞ!」
「おい! 何をしている!」
そこに現れたのは僕らの大将・劉備。
さらに続けて手を後ろで縛られた関羽、その縄を引く張飛、そして簡雍ら劉備軍団が続けて宿舎へと入ってきた。
「県尉殿、何故ここに!」
「関羽を連れてきた。
だが、それどころではないようだ。
督郵殿、貴方が先ほど杖打ちしていたのは我が郎党ではございませんか?」
そう言いながら劉備は一歩、また一歩とこちらに近づいてくる。徐々に近寄ってくるその顔は明らかに怒りを含んでいた。
そのあまりの形相に、督郵は少したじろぎながら答えた。
「こ、この男が我が宿舎に侵入し、無礼を働いたので罰を与えたのだ」
督郵からすれば理はこちらにあると言わんばかりであった。だが、劉備は決して怯むこと無く進み続ける。
「我が郎党が無礼を働いたことは謝罪する。済まなかった。
だが、督郵である貴方は罪状を報告するのが役目。罰を与えるのは職分から外れていると思いますが?」
いよいよ間近に迫った劉備の迫力と正論に、督郵も圧倒されて言葉を詰まらせる。
「ウッ……そ、それは……。
こいつは無官の男だ! 督郵としてではなく、士大夫として罰しているのだ!」
苦しい言い訳をする督郵を劉備はキッと睨み、相手を圧するほどの大声を上げた。
「ならば、私も県尉としてではなく、この男の大将として対処しよう。
テメー、うちの郎党に何してやがる!!!」
劉備の当然のドスの効いたセリフが辺りに響き渡った。そのあまりの迫力に督郵は思わず跳び上がり、一、二歩後ろへと下がった。
「い、いや、だからこれは……」
言い淀む督郵に、劉備の傍らに控える張飛が一歩前に進み出てくる。
「兄貴、ここはオレが!」
「張飛、控えろ!
これは大将の仕事だ!」
「へ、へい……」
劉備の睨む眼光に、張飛も思わず尻込みして後ろに引き下がった。
その眼光そのままに、劉備はその目線を督郵へと移した。
「先ほどの劉星への杖打ちは二十と言ってたな……」
劉備は再び督郵に向かってゆっくりと近づいた。
そして、狼狽える督郵から杖を奪い取ると、彼に掴みかかって、脇に抱えた。
「お、おい何をする!
だ、誰か助けんか!」
督郵が絶叫を上げて助けを求めると、周りにいた彼の馭者や県兵たちが恐れながらも劉備に近づき、彼の行動を止めようとする。
「劉県尉、お止めください!
どんな理由をつけようと、今ここで貴方が督郵を罰せれば県尉のままではいられませんよ!」
県兵はそう叫んで劉備を引き止めようとする。劉備がどう言ったところで、彼が県尉で、相手が郡の督郵であることに変わりはない。
これだけの目撃者の前で罰せれば、言い逃れのしようもない。
「言いたいことはそれだけか!」
しかし、劉備はそう一言だけ述べ、周囲を「ギロリ」と睨みつけた。その迫力に気圧されて周囲の誰もそれ以上踏み出そうとはしなかった。
周囲を黙らせた劉備は、督郵を脇に抱えたまま、馬を繋ぐ柱へと歩み出した。
「ま、待て! 何をするつもりだ!」
劉備は督郵の声に応えず、彼をその柱へとくくりつけた。
「おい、県尉がこんなことしてもいいと思っているのか!」
全く躊躇する様子のない劉備を、督郵は責めた。県尉が督郵を罰するなんて前代未聞だ。
それをこんな衆人環視のもとでやるのかと督郵は劉備を詰った。
しかし、そんな非難で劉備は怯んだりしない。
「言ったはずだ。今の俺は安喜県の尉じゃねぇ!
劉星らの大将・劉備だ!」
縛り上げられ身動きの取れない督郵。その前に劉備が仁王立ちをして手にした杖を構えた。
「劉星を殴った数は『二十』だったな……!
ならば、十倍だ……!
杖打ち『二百』で許してやろう」
そう言い、劉備は手に持つ杖を振りかぶる。
彼の本気を感じ取り、督郵は怯えながら彼に訴えた。
「ま、待て!
例え、お前がどう言おうと、県尉の地位にある者が督郵を殴ればタダではすまんぞ!
その県尉の地位がそのままだと思うな!」
「そうだな」
劉備は懐より伸びた綬を解いた。そして、県尉の証である官印の入ったその綬を督郵の首に結びつけた。
「ど、どういうつもりだ!」
「県尉の地位は返上だ。
俺は県尉である前にコイツらの大将だ。優先順位は間違っちゃいけねぇ。
コイツらのために地位があるんだ。地位のためにコイツらがいるんじゃねぇ」
「劉備……!」
僕は痛む身体を押さえながら、啖呵を切る劉備を見上げた。
その姿は物語に出てくる劉備とは全く違いながらも、大将の器にふさわしい姿であった。
「さて、そろそろ罰の時間といこうか」
いよいよ身の危険が間近に迫り、督郵はついに折れた。
「ま、待て、わかった!
関羽の件は無かったことにしよう!
私がなんとか諦めてもらえるよう説得する。
だから、それでその男の件は水に流してくれ!」
ついに督郵から関羽の件を帳消しにするという言質を取ることが出来た。
これを見逃してはならないと、僕も劉備に止めに入った。
「りゅ、劉備、今回の件は関羽のことを許してもらおうと思ったのが発端だ。
関羽の件が無かったことになるなら、もういいんじゃないか?
僕のことはもういいから」
しかし、劉備は決して止まろうとはしなかった。
「劉星、そいつはダメだ。
関羽の件は大事だ。
だが、そいつはお前の件とは別件だ。
劉星も関羽も俺の大事な郎党だ。役割の違いはあれ、向ける情に優劣があっちゃならねぇ。
誰かの犠牲と引き換えに、別の誰かを助けるようなことはしちゃならねぇ!
行くぞ、督郵!」
「ま、待て……」
しかし、もはや督郵の言葉に劉備は聞く耳を持たない。彼は杖を振り上げ、僕の時と同じように「ビシッ」「バシッ」と打ち据え始めた。
最初は「ギャッ」とか「グワッ」と叫んでいた督郵であったが、徐々に言葉は減っていった。百を数える頃にはもはやピクリとも動かなくなった。
しかし、劉備はそれでもその手を緩めはしない。先ほど宣言した通り、二百を目指して殴り続けた。
ついに杖打ちは二百回に達し、劉備はようやくその手を置いた。その時には督郵は息も絶え絶えで、生死さえよくわからないような状態であった。
「よし、ちょうど二百だ。
これでケジメはついたな。
では、俺たちはこの町を去るか」
そう言い、劉備は僕の方へと振り返った。
彼の表情は先ほどまでの怒りに満ちたものから変わり、カラッと晴れたような顔つきであった。
「すまない。劉備。
自分が先走ったばかりにこんなことになってしまって……」
結局、歴史の通りに劉備は県尉の地位を返上してしまった。僕は申し訳なさからただただ謝ることしか出来なかった。
謝る僕に劉備は近寄ってきて話し始めた。
《続く》