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第三十三話 督郵(五)

 僕は督郵とくゆうのいる宿舎の周りを見て回った。周囲は土塀で囲まれている。唯一の正門には県兵が二人、見張りに付いている。県兵は劉備りゅうびの部下だから、彼の許可があれば入らせてはもらえるだろう。


 しかし、余程の理由がないと劉備りゅうびも許可出さないだろう。素直に関羽かんうの件を頼みに直談判に行くと言って、彼を許可を出すとは到底思えない。


 僕はさらに周囲に目を向ける。


 宿舎のすぐ隣には、僕らの職場である庁舎が並ぶように建っている。


「庁舎の二階からなら宿舎の様子が見えるかもしれない。行ってみよう」


 僕は庁舎に入り、二階の宿舎側の窓へと向かった。劉備りゅうびが赴任して以降、何度も出入りした庁舎だ。僕が何処に行こうと今さら誰にとがめられることもない。


 僕は二階の窓より宿舎を見下ろした。


「すぐ隣と思っていたけど、改めて見ると庁舎から宿舎までは結構離れているな。これは飛び移るのは無理か。


 ……いや、二つの建物の間に馬小屋がある!


 まずはこの窓より外に出て、一階の屋根を伝って馬小屋まで行く。そして、馬小屋に飛び移って、さらにそこから宿舎の土塀の上に飛び移る……。


 うん、多少危険だが、出来なくも無さそうだ!」


 宿舎の方も外に対しては警備が厳重だが、庁舎側からは手薄だ。まあ、官舎を通り道にする泥棒もいないだろうから当然とも言える。


「あまり、時間を掛けすぎてもいけない。


 よし、行こう!」


 僕は督郵とくゆうに直接会ったことはないが、昔読んだ『三国志』だとかなり悪い奴だった。あまりあとに引き延ばすとどんな手を使ってくるかわからない。出来るだけ急いだ方がいい。


 僕は窓より出て、屋根に降りた。


 庶民の民家なら屋根は茅葺かやぶきだ。足音をそう気にしなくて良い。

 しかし、ここは官舎。屋根には瓦が使われている。それに周囲には官吏が何人もいる。音には要注意しなければならない。


 この時代は役所の中でも土足厳禁だ。おかげで今、裸足なのだが、足音を考えたら正解だったようだ。

 僕はペタペタと屋根瓦の上を歩いた。


「思ったより馬小屋との間に距離があるな。二メートル以上はありそうか。


 しかし、立ち幅跳びは騎手学校の入試試験にもあるぐらいだ。

 オマケに若返っている今の僕の足腰ならこれくらいの距離は余裕のはず」


 僕は乗馬で鍛えた足で瓦を踏みしめて跳び上がった。久しぶりの立ち幅跳び。


 だが、この世界にきて身体が若返っている。そのこともあって、予想以上の飛距離を跳ぶことが出来た。


 しかし、勢い余って「ドン」と音を立てて落下してしまった。

 僕は慌てて身を隠し、周囲を見回した。


「どうやら誰の目にも止まらなかったようだ。

 よし、行こう」


 今度は土塀へと跳び移らなければならない。


「距離は先ほどより若干遠い。それも問題だが……塀の幅は一メートルくらいか。馬小屋より着地する幅がないから気をつけないとな」


 僕は少し助走を付けて跳び上がった。しかし、力加減を間違えた。思った以上に跳び上がり、土塀の端に着地し、そのまま足を滑らせてしまった。


「しまった!」


 僕はそのまま落下。庭の植木へと落ちていった。


「イタタ……木のおかげで怪我はせずに済んだか……」


 身体は若返ったおかげで運動能力は向上した。だけど、未だに慣れておらず、どうにも力加減が上手く出来ない。

 思えば宿舎に侵入するなんて無謀なことも、若返った故の暴走だったのかもしれない。


 しかし、今さらそんなことを思っても、既に後の祭りだ。


「何事だ!」


 顔を見上げると、二十代ほどの少し肉付きの良い男性がこちらをにらみつけている。


(この人は……文官特有の黒服。

 それに懐にあるのは劉備りゅうびが前に言っていた青紺せいこんじゅ……!


 間違いない。この人が督郵とくゆうだ!)


 その督郵とくゆうは侵入した僕に対して声を張り上げた。


偸人どろぼうか!


 官舎に入るとはなんと堂々とした奴だ!

 おい、県兵を呼べ!」


 督郵とくゆうは隣でじょうを構え、震えている馭者ぎょしゃに振り返った。


 まずい、このままでは泥棒になってしまう。僕は慌てて督郵とくゆうを止めた。


「お、お待ち下さい!


 塀上から失礼しました!


 私は安喜県あんきけん劉備りゅうびの郎党で劉星りゅうせいと申します!


 本日は関羽かんうの件でお願いがあり参上致しました!」


 僕が口上を述べると、督郵とくゆうあごに手をやり、何やら思案を始めた。


劉備りゅうびの郎党の劉星りゅうせい


 そんな男が私に何の用だ?」


「はい、我らの仲間・関羽かんうは既に過去を悔いております。また、彼の知識・経験は盗賊討伐に大いに役立っています。


 彼の身柄を引き渡すよりも安喜県あんきけんのために働く方が有益だと思います。


 どうか、彼を連行するのはお止めください」


 僕はその場で頭を下げ、関羽かんうの件を懇願した。


 だが、それに対する督郵とくゆうの態度は冷淡なものであった。


「そんなことを言いにわざわざ来たのか。


 なかなかの行動力だな。


 しかし、君の主の県尉りゅうびは既に関羽かんう引き渡しに応じているぞ。


 君の行為は劉備りゅうびの意に沿わない行動なんじゃないのかね?」


 督郵の目が鋭く光り、彼の問いかけが僕に突き刺さる。

 確かに彼の言う通り僕の行為は劉備りゅうびからすれば裏切りになるかもしれない。しかし、例え裏切り行為になろうとも、未来を知る僕にしかできないことなんだ。


「そ、それは……。


 劉備りゅうび県尉けんいとしての使命感を優先して関羽かんうの引き渡しに応じました。


 しかし、望んでのことではありません。


 どうか、彼を連れて行かないで頂けないでしょうか!」


 僕は再び頭を深く下げ、必死に関羽かんうを連れて行かないよう嘆願した。


 だが、督郵とくゆうの表情は微塵みじんも変わらず、まるで響いていないようであった。


「わざわざ侵入してきて、何を言い出すかと思えば情に訴えるだけか。


 聞くところによれば、君らと長生かんうが出会ってからまだ二、三ヶ月程度と聞いておる。

 それなのに何故、そこまで彼のために動くのだ?」


「それは……」


 僕は一瞬、言葉に詰まった。


 関羽かんうがいかに重要な人物か。説明しようと思えばいくらもできる。でも、それは未来の話だ。今、ここで未来の話を持ち出して、語るわけにはいかない。

 今できるのは、この二、三ヶ月で起きた盗賊退治の話だけで、しかも、それは先ほどして終わったばかりであった。


関羽かんうが我らに必要な人物だから……」


 今の僕にはどうしてもそれ以上のことを言うことができなかった。


 当然、督郵の態度は冷ややかであった。


「特に理由も無しか。激情に駆られての行動といったところか。


 しかし、君のような行動力があり、他者へ慈愛の心を持つ人物を私は嫌いでは無いぞ。


 どうだ? このまま私の味方につかないか?」


 督郵とくゆうは僕の肩にポンと手をやり、怪しげな笑顔を向けて僕を勧誘してきた。


「な、何を当然?」


 戸惑う僕に、相手は構わず話を進めていく。


県尉りゅうびのような何を考えているのかわからぬ男は信用できない。

 君のような激情家の方が信用に値する。


 君と長生かんうとは会って三ヶ月程度。そこまで思い入れもない間柄であろう。


 私に協力すれば十分な恩賞を与えるぞ」


 どうやら相手は劉備りゅうびよりも僕の方が扱いやすそうだと思っているようだ。


 当然、そんな話に乗ることはできない。


 僕は毅然と督郵とくゆうの話を断った。


「そんな誘いには応じられない」


 僕の言葉に、督郵とくゆう若干じゃっかん、不機嫌な様子を見せた。


「頑固な奴だな。


 君は県尉りゅうびの意に反してここにやって来た。ならば、県尉りゅうびに義理立てもなかろう。


 県尉りゅうびの郎党と名乗っているが、とどのつまり無官であろう。

 それなら私が働きかけて郡の官吏に推薦してやろう。


 君のような行動力のある人物ならば、頑張って務めれば功曹こうそう五官ごかん(共に郡太守ぐんたいしゅの部下)になれるかもしれんぞ」


 督郵とくゆうはそう得意気に語る。確かに無官の身からすれば、郡の属吏は十分に魅力的な地位なのだろう。しかし、コネのない自分にはそれ以上の出世はかなり難しい。


 対して劉備りゅうびは後に皇帝にまでなる人物だ。彼についていけばもっと上の地位にける可能性が高い。郡の属吏ではとても比べられない。


「冗談じゃない!


 そんな地位と引き換えで、劉備りゅうびを裏切られない!」


 僕の言葉に、督郵とくゆうは少し意外そうな顔を見せた。


「出世には興味が無いとは、思ったより無欲な男だな」


「別に出世に興味が無いわけじゃない。


 でも、郡の属吏程度では裏切られない!」


 そりゃ地位が高いことに越したことはない。でも、郡の属吏で一生を終えるつもりなんてない。僕の将来の夢はもっと大きいんだ。


 しかし、その言葉は督郵とくゆうの反感を買うこととなってしまった。


「郡の属吏程度だと……!


 貴様、県尉けんいの下働きの分際で、さては、この督郵とくゆうも郡の属吏程度と侮っていたな!」


 しまった。督郵とくゆうも郡の属吏だった。思わぬ地雷を踏んでしまった。


「貴様、私を侮るなよ!


 この一件さえ終われば、私は県令けんれいへ昇進するんだぞ!」


 督郵とくゆうは今までの穏やかな口調が終わり、一転、厳しい口調で僕に詰め寄った。


 だが、僕はその督郵とくゆうの言葉に違和感を覚えた。


「ん?


 この一件が終われば、県令けんれいに昇進する?


 さては、貴方は自身の県令けんれいへの昇進と引き換えに関羽かんうの一件を引き受けたな!


 賄賂わいろを受け取らないから清廉せいれんな人物かもしれないとも思ったが、そちらが本命だったからか!」


 なるほど、県令けんれいへの昇進がかかっているなら、そりゃ県尉けんいからの賄賂わいろ程度では心が動かないわけだ。


 僕がそう指摘すると、督郵とくゆうの顔はしまったと言わんばかりのしかめっ面に変貌した。


「ウッ……!


 そ、それがどうした!


 お前のような出世に興味のない奴にはわからぬかもしれぬ。


 だが、私の出世は世のためだ。私のような男が治めれば、その分、世の中は良くなるんだ。

 わずかな賄賂わいろを取って満足している輩と一緒にするな!」


 僕の耳には随分、自分勝手な言い分に聞こえる。だが、自分が正しいと信じて疑わない督郵とくゆうは僕の言葉に激昂すると、隣にいた馭者ぎょしゃの持っていたじょうを奪い取った。


「貸せ!


 お前に正義の鉄槌てっついを下す!」


 怒った督郵とくゆうはその一メートル数十センチほどのじょうを振りかざすと、僕目掛けて思いっきり振り下ろした。


《続く》

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