劉備は視察に来た督郵の言葉に一瞬、固まってしまった。彼は督郵の言葉に理解が出来なかった。彼が何か言い間違いをしているのではないかと疑い、改めて聞き返した。
「すみません。もう一度、言って貰えないでしょうか?」
その言葉に督郵は、先ほどの穏やかな雰囲気のままではあったが、わずかに険しさの混じった声色で話し始めた。
「貴方の郎党に関羽という男がいることは調べがついています。
その男を私に引き渡しなさい」
やはり、督郵の口から出た名前は関羽であった。関羽は新たに劉備の軍団に加わった人物だ。武勇に優れ、知識が豊富で、来て早々、軍団の主力になった劉備の弟分であった。
しかし、彼の前歴はまだよくわからない人物でもあった。
「何故、関羽を求められるのでしょうか?
その理由を教えていただけませんか?」
劉備は督郵に尋ねた。いくら督郵の要請でも関羽の引き渡しに応じることは出来ない。
だが、督郵が関羽を要求してきた理由も知らないままにすることも出来なかった。
劉備の問いかけに、督郵はさらに険しさを増した声で説明を始めた。
「なるほど、貴方はあくまで関羽がどういう人物であるか知らないと言われるのですね。その方がこちらもやりやすいので良いでしょう。
では、お話しましょう……」
そう言うと督郵は宿舎の床に敷いていた蓆に腰を下ろし、ゆっくりと口を開いた。
「関羽という男は、昔は長生と名乗っておりました。
そして、長生と言えば、彼の故郷・河東郡解県ではよく知られた盗賊の頭領でございました」
督郵の言葉に劉備は驚愕する。
「関羽が……盗賊……!」
初耳の情報に触れ、劉備は理解が及ばない様子であった。
督郵はその様子に満足した様子で、さらに話を続けた。
「ええ、貴方は知らなかった。そういうことにしておきましょう。だから、仕方がない事です。
貴方が長生を匿ったことは不問としましょう。
さあ、引き渡しなさい」
督郵はあくまで劉備の芝居という体で話を進めてくる。
しかし、彼の要求に応じられない劉備はすぐに言い返す。
「お、お待ち下さい!
関羽は既に盗賊より足を洗い、今は真面目に県尉の仕事を手伝っております。
今後も贖罪として安喜県のために働かせます。
ですから、捕らえるのはお待ちいただけないでしょうか?」
劉備の言葉に、督郵はため息を混じらせながら話し出した。
「県尉殿、今の御時世をご存知ですかな?
蛾賊(黄巾賊)が世に蔓延ってよりこの方、皇帝陛下(霊帝)は世を立て直すために様々な改革を行っておられます。
その中でも特に力を入れているのが、軍備の増強と、地方行政の強化。
軍備においては中央に西園軍という直属部隊を新たに作られました。
そして、地方の強化には、刺史の権力を増やし、軍事権を併せて持つ『牧』という役職を新設されました。
県尉殿、貴方は州刺史の役割をご存知ですかな?」
突然振られた質問に、劉備は言葉を詰まらせながらも答え出した。
「え、えーと、自分の州に属する郡国を回り、官吏の監査を行い、不正あらば中央に報告するのを役目としている役職であるかと記憶しています」
州刺史は州ごとに一人置かれる。
よく州の長官として紹介されるが、本来の役割は州に属する郡太守や国相の仕事を調査し、それを報告するのを職分とする。そのため、郡や国の長官である太守や国相より、その地位は低かった。
劉備の認識は当時としては至って普通なものであった。
だが、その解答に督郵は否を声高に唱えた。
「貴方の答えは模範解答といえるでしょう。
しかし、それは認識が古い!
今は地方行政が強化され、州刺史は郡太守や国相をまとめる立場となったのです。
今までは郡を中心に動いていましたが、これからはより大きな州という枠組みを中心に動く時代となったのです!」
督郵は劉備に畳み掛けるようにさらに強い口調で話し始めた。
「この冀州という土地は黄河に面する豊かな土地でありました。
それが黄巾の乱、張純の乱と立て続けに戦乱の舞台となり、荒廃は進み、治安は悪化の一途を辿っております。
この度、新たにこの冀州の刺史となられた李使君(使君は州刺史・牧に対する尊称)は陛下の偉業を扶けるべく、治安の向上に奔走されているのです。
それを盗賊を取り締まるべき立場である県尉が、反対に盗賊を匿うとはどういう了見ですかな?
それは使君のみならず、陛下の意向にも逆らう反逆行為ですよ?」
督郵は劉備に詰め寄り、厳しい口調で問い詰めた。
これに劉備も関羽を引き渡してはならじと強い言葉で反論した。
「仰られるように関羽は元盗賊なのかもしれません。
しかし、今は更生し、県の治安のために戦っております。
それを捕まえてしまっては、他の盗賊たちも更生の道を断つことになりませんか?」
劉備は必死に督郵の説得を試みる。関羽は自分の部下となった以上は守らねばならない。自分の言い分に強引さを感じながらも彼は必死に訴えた。
すると督郵は劉備に近づけていた顔を引っ込め、その場に座り直した。
「先ほどの理由は表向きなものです。
これから言うのは裏の理由です」
そう言うと督郵は、劉備に改めて顔を近づけ、小声で話し出した。
劉備も裏の理由と言われ、その言葉に耳を傾けた。
「貴方は李使君についてご存知ですか?」
督郵がそう投げかける李使君とは今の冀州刺史の李邵の事だ。最近、赴任してきた事は知っているが、それ以上詳しくは劉備も知らなかった。
「私より少し前に刺史になられた方、としか……」
言葉を濁すように話す劉備。それに対して督郵はため息を混じりせながら、嗜めるように話し出した。
「使君は貴方にとっても上司にあたるわけですから、もっとよく知った方が良いでしょう。
いいですか、李使君の生まれは河東郡です」
その発言に劉備は即座に反応する。河東郡と言えば、関羽の故郷でもある。つまり、冀州刺史の李邵と関羽とは同郷ということだ。
「もしや、関羽が過去に李使君の身を脅かしたことがあるのでしょうか?」
劉備は恐る恐る尋ねた。もし、関羽が李邵の仇敵ならいよいよ庇うのが困難になってしまう。
「直接はありません」
その一言に劉備は一応は胸を撫で下ろした。
だが、督郵はさらに話を続けた。
「しかし、無関係でもありません。
県尉殿は白波賊というのをご存知ですか?」
「白波賊?
確か、山西(太行山脈の西側の地域。現在の山西省を中心とした一帯)辺りを荒らす盗賊でしたか」
督郵からの突然の問いかけであった。
だが、白波賊については劉備も最近何処かで聞き覚えがあったので、すぐに答えることが出来た。
「そうです。
白波賊は黄巾の乱以降、各地を侵す匪賊の中でも特に大きな勢力の一つです。
あまりにも強大なため朝廷でさえ、未だ討伐出来ていない大盗賊です。
貴方の郎党の関羽、その頃は長生と名乗っていましたが、かつて、河東の長生は、この白波賊に敗れ、行方知れずとなりました」
劉備は、なるほど、白波賊について聞いたのは関羽からであったかと内心思いながら、彼の言葉を聞いた。
「既に敗れて、勢力を失っているのなら、もはや、脅威とは言えないのではないでしょうか?」
劉備は督郵に尋ねた。今現在、白波賊として猛威を振るっているのならともかく、既に敗れた後というのならもはや、過去の話だ。
だが、督郵の話はそれで終わらなかった。
彼は関羽と白波賊、そして李邵との関係を続けて語り出した。
《続く》