劉備が安喜県尉として赴任してから約三ヶ月。この安喜県に督郵が視察に来るという報告が入った。
「まあ、俺たちは随分、盗賊をしょっ引いた。
いつも通りの仕事ぶりを見せりゃ督郵も納得するだろうよ」
そう語る劉備は何処か楽観的にことを構えていた。しかし、どうもそういうわけにはいかないようだ。
今回、やって来る督郵は郡より派遣される。官吏の仕事ぶりをみる監察官である。県尉の劉備が真面目に働いているか見に来るというわけである。
そんな相手が来るというのに、何処か余裕な素振りの劉備に苦言を呈する者がいた。
「大将、そういうわけにはいかないようだぞ」
そう言いながら現れたのは猫背の小男・簡雍であった。彼は何やら督郵に関する情報を持っているようであった。
「先ほど、張世平殿から連絡が入ってきてな。
今回の督郵の視察は軍功によって官吏になった者を選別するのが目的のようだ」
簡雍は手にした木簡を指し示しながらそう伝えてきた。
話に出てきた張世平はここ中山国を拠点にする商人だ。恐らく地元の商人ならではの情報網があるのだろう。
簡雍の言葉に、劉備は納得のいかないような口ぶりで尋ねた。
「確かに俺は張純の乱での功績が認められて県尉になった。
しかし、俺は赴任して三ヶ月ほどだぞ。さすがに早すぎねぇか?」
「今回の視察は五年前の黄巾の乱の功績で役職に就いた者が主な対象らしい。大将への視察はそのオマケってことだな。
どうするよ、大将。
こういうのはクビにするかどうかは大方、上の方で決まっているもんだ。
もし、上の方で視察対象者を一斉にクビ切りたいと思ってんなら、大将の仕事ぶりなんて関係ねぇぞ。
奴らは自分の都合を優先しやがる。身内を県尉に就けたいから、今の県尉をクビにして席を確保するなんてよくある話だ」
「困ったな。どうすりゃいいんだ?」
頭を抱える劉備に、今度は事務仕事の担当者・李立が進言した。
「大将、貴方がまだ解雇対象か決まってるわけではない。
まずは督郵様を歓迎し、その真意を探るべきでしょう」
その李立の言葉に劉備も納得する。
「そうだな。
督郵と親しくなり、味方につけておけば損はしないだろうしな。
そうと決まれば準備するか」
劉備たちは督郵を出迎えるために動き出した。
だが、未来からの転生者である僕はこの先の展開を知っている。三国志でも有名な場面だ。
この後に来る督郵は強欲な人物で、劉備に賄賂を要求する。清廉な劉備はそれを拒絶するが、それに腹を立てた督郵は劉備の罪をでっち上げて罷免しようとする。それを知った張飛は激怒し、督郵を縛り上げて、棍棒でめった打ちにしてしまう。
劉備は張飛を止めたが、結局、この事件のために、劉備は職を辞して、去っていく。
この話の舞台が安喜県ということまで覚えてなかった。だから、すぐに出てこなかったが、督郵が視察に来るということなら間違いないだろう。これからあのイベントが始まる。
「まずいな。
このまま歴史通りにいけば、劉備は仕事を辞めることになってしまう」
確かに賄賂を贈ってまでこの職にしがみつくべきなのかという問題はあるかもしれない。それにここで辞めるのが歴史通りなら、劉備の人生にそこまで悪影響を与えないのかもしれない。
しかし、せっかく今まで上手くいっていたんだ。劉備もこの仕事を続けて、より上に出世したいと思っている。
ここで助言するくらいなら、歴史がおかしくなることもないんじゃないか……。
「劉備に伝えよう……」
しかし、劉備に賄賂を払えと堂々と言うわけにもいかない。僕は劉備が一人になるところを見計らって声をかけた。
「劉備!」
「どうした、劉星?」
劉備は僕の方へと振り返る。僕は少し言いにくそうに伝えた。
「劉備、君はあまり進まないかもしれない。
だが、督郵に気に入られるように務めるのも一つの手なんじゃないかと思う。
例えば賄賂を贈るとか……」
僕は已む無くそう伝えた。
すると、劉備は笑って答えた。
「ハッハッハ、最近、様子がおかしいと感じていたが、そんな事を考えていたのか。
安心しろ。賄賂の用意ならしてある」
「え、もうしてあるのか?」
驚く僕を尻目に、劉備は得意げに語って聞かせてくれた。
「俺は使える手なら何でも使う男だぞ!
賄賂で丸く収まるのならすぐにでも払うわ。
まあ、県令や県長が用意する額に比べたら少額だろうがよ。県尉なら十分な額を用意している。
心配するな。お前らを路頭に迷わせたりしないさ」
そうだった。物語の劉備は潔癖で誠実な人物であった。
だが、今、目の前にいるこの劉備は、賄賂ぐらい平気で用意できる男であった。
あまり、良いことでは無いのかもしれないが、僕はこの劉備がとても頼もしく感じた。
〜〜〜
それからしばらくして督郵が安喜県にやって来る日を迎えた。
「大将、督郵の軺車が見えました」
この中で一番視力の良い弓兵の董機が城壁の上よりそう叫ぶ。
「さて、じゃあ出迎えるか」
そう言う劉備の姿は四角い箱型の黒い冠に、鮮やかなオレンジ色の服装に着替えていた。
「その服装が県尉の正装ということだね。
その黄色い布も正装の一部?」
僕は彼の懐から腰にかけて垂れ下がる細長い黄色い布を指し示しながら尋ねた。
「劉星は初めて見るか。
これは『綬』だ。この色で官吏の地位を表している。俺は二百石の県尉だから下から二番目の黄色だ。今来る督郵は百石だから俺の一つ下の青紺の『綬』を下げているはずだ。
この『綬』には官印を結びつけておく」
「官印?
ああ、仕事の印鑑か」
「そうだ、仕事で使う印鑑だ。
だが、この官印は俺が県尉である証でもある。だから、絶対無くしちゃいけないからこの綬に結びつけておくんだ」
なるほど、警察にとっての警察手帳みたいなものか。あれも無くすと大変なことになるらしいからな。
「さて、僕らは正規の役人じゃないからそろそろ隠れていくよ。
劉備、上手くやっておいてくれよ」
僕ら劉備郎党は安喜県の正規の職員ではない。そういうのがウロウロしているのは督郵の心証にも良くないだろう。僕らは応対を劉備に任せて、しばらく身を隠すことにした。
「おう、任せとけ」
対して劉備は県兵を率いて督郵を出迎えた。
「よくぞいらっしゃいました。
私は安喜県の県尉・劉備、字は玄徳と申します」
劉備は儀礼に適った挨拶をする。すると、相手も同じように挨拶を返した。
「県尉自らのお出迎え痛み入ります。
私は督郵の頓粛、字は子献と申します」
劉備に続いて挨拶するのは、歳の頃二十代半ば、ふくよかな肉付きの男性。
劉備と違い文官を指し示す黒い服を着用し、懐から青紺の綬を垂れ下げている。
彼が郡より派遣された督郵であった。
劉備は外面を良くするのはお手の物だ。彼は督郵を各所に案内し、懇切丁寧にその質問に答えた。
初日の対応は一段落を終え、劉備は督郵を用意していた宿舎へと送った。
「本日はありがとうございました。
私はかねてより督郵殿の仕事ぶりに敬意を払っておりました。
これはほんの挨拶でございます。今後とも良しなにお願いします」
そう言いながら、劉備は跪きながら小袋を懐より取り出して、督郵の前に差し出した。袋のズシリとした重みからその中身が賄賂であることは一目瞭然であった。
それを見ると、督郵は穏やかな顔つきで笑い出した。
「ハハハ、県尉殿は私のことを勘違いされているようだ。
確かに督郵の中には賄賂を要求する不届きな者はおります。
しかし、私はあくまで自身の職務を全うするのを使命としております。
その小袋は見なかったことにしますので、お収めください」
「これは失礼いたしました」
劉備は慌てて賄賂を片付けた。その様子に穏やかな口調で督郵は語りかける。
「県尉殿、貴方の仕事ぶりはよく聞き及んでおります。
徹底的に盗賊を討伐し、安寧をもたらそうとしている貴方の勤務態度には敬意を払っております」
劉備はその言葉を聞くと、ようやく固まっていた頬が緩んでいった。
どうやら、悪い督郵に当たったわけでは無さそうだと、心の中で一安心した。
「それ故に、私の要求はただ一つです」
その言葉に少し緊張が走る。
しかし、この要求さえ応えれば督郵の件は片がつくと劉備は息を呑んだ。
「なんでしょうか。
この私に出来ることであればなんなりと!」
督郵はゆっくりと口を開いた。
「関羽を、渡しなさい」
《続く》