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第二十九話 督郵(一)

 劉備りゅうび安喜県尉あんきけんいとして赴任してから約三ヶ月。この安喜県あんきけん督郵とくゆうが視察に来るという報告が入った。


「まあ、俺たちは随分、盗賊をしょっ引いた。

 いつも通りの仕事ぶりを見せりゃ督郵とくゆうも納得するだろうよ」


 そう語る劉備りゅうびは何処か楽観的にことを構えていた。しかし、どうもそういうわけにはいかないようだ。


 今回、やって来る督郵とくゆうは郡より派遣される。官吏の仕事ぶりをみる監察官である。県尉の劉備りゅうびが真面目に働いているか見に来るというわけである。


 そんな相手が来るというのに、何処か余裕な素振りの劉備りゅうびに苦言を呈する者がいた。


大将りゅうび、そういうわけにはいかないようだぞ」


 そう言いながら現れたのは猫背の小男・簡雍かんようであった。彼は何やら督郵とくゆうに関する情報を持っているようであった。


「先ほど、張世平ちょうせいへい殿から連絡が入ってきてな。


 今回の督郵とくゆうの視察は軍功によって官吏になった者を選別するのが目的のようだ」


 簡雍かんようは手にした木簡もくかんを指し示しながらそう伝えてきた。


 話に出てきた張世平ちょうせいへいはここ中山国ちゅうざんこくを拠点にする商人だ。恐らく地元の商人ならではの情報網があるのだろう。


 簡雍かんようの言葉に、劉備りゅうびは納得のいかないような口ぶりで尋ねた。


「確かに俺は張純ちょうじゅんの乱での功績が認められて県尉けんいになった。


 しかし、俺は赴任して三ヶ月ほどだぞ。さすがに早すぎねぇか?」


「今回の視察は五年前の黄巾こうきんの乱の功績で役職に就いた者が主な対象らしい。大将りゅうびへの視察はそのオマケってことだな。


 どうするよ、大将りゅうび


 こういうのはクビにするかどうかは大方、上の方で決まっているもんだ。


 もし、上の方で視察対象者を一斉にクビ切りたいと思ってんなら、大将りゅうびの仕事ぶりなんて関係ねぇぞ。


 奴らは自分の都合を優先しやがる。身内を県尉けんいけたいから、今の県尉けんいをクビにして席を確保するなんてよくある話だ」


「困ったな。どうすりゃいいんだ?」


 頭を抱える劉備りゅうびに、今度は事務仕事の担当者・李立りりつが進言した。


大将りゅうび、貴方がまだ解雇対象か決まってるわけではない。


 まずは督郵とくゆう様を歓迎し、その真意を探るべきでしょう」


 その李立りりつの言葉に劉備りゅうびも納得する。


「そうだな。


 督郵とくゆうと親しくなり、味方につけておけば損はしないだろうしな。


 そうと決まれば準備するか」


 劉備りゅうびたちは督郵とくゆうを出迎えるために動き出した。


 だが、未来からの転生者である僕はこの先の展開を知っている。三国志でも有名な場面だ。


 この後に来る督郵とくゆうは強欲な人物で、劉備りゅうび賄賂わいろを要求する。清廉せいれん劉備りゅうびはそれを拒絶するが、それに腹を立てた督郵とくゆう劉備りゅうびの罪をでっち上げて罷免ひめんしようとする。それを知った張飛ちょうひは激怒し、督郵とくゆうを縛り上げて、棍棒でめった打ちにしてしまう。


 劉備りゅうび張飛ちょうひを止めたが、結局、この事件のために、劉備りゅうびは職を辞して、去っていく。


 この話の舞台が安喜県あんきけんということまで覚えてなかった。だから、すぐに出てこなかったが、督郵とくゆうが視察に来るということなら間違いないだろう。これからあのイベントが始まる。


「まずいな。


 このまま歴史通りにいけば、劉備りゅうびは仕事を辞めることになってしまう」


 確かに賄賂わいろを贈ってまでこの職にしがみつくべきなのかという問題はあるかもしれない。それにここで辞めるのが歴史通りなら、劉備りゅうびの人生にそこまで悪影響を与えないのかもしれない。


 しかし、せっかく今まで上手くいっていたんだ。劉備りゅうびもこの仕事を続けて、より上に出世したいと思っている。


 ここで助言するくらいなら、歴史がおかしくなることもないんじゃないか……。


劉備りゅうびに伝えよう……」


 しかし、劉備りゅうび賄賂わいろを払えと堂々と言うわけにもいかない。僕は劉備りゅうびが一人になるところを見計らって声をかけた。


劉備りゅうび!」


「どうした、劉星りゅうせい?」


 劉備りゅうびは僕の方へと振り返る。僕は少し言いにくそうに伝えた。


劉備りゅうび、君はあまり進まないかもしれない。


 だが、督郵とくゆうに気に入られるように務めるのも一つの手なんじゃないかと思う。


 例えば賄賂わいろを贈るとか……」


 僕は已む無くそう伝えた。


 すると、劉備りゅうびは笑って答えた。


「ハッハッハ、最近、様子がおかしいと感じていたが、そんな事を考えていたのか。


 安心しろ。賄賂わいろの用意ならしてある」


「え、もうしてあるのか?」


 驚く僕を尻目に、劉備りゅうびは得意げに語って聞かせてくれた。


「俺は使える手なら何でも使う男だぞ!


 賄賂わいろで丸く収まるのならすぐにでも払うわ。


 まあ、県令けんれい県長けんちょうが用意する額に比べたら少額だろうがよ。県尉けんいなら十分な額を用意している。

 心配するな。お前らを路頭に迷わせたりしないさ」


 そうだった。物語の劉備りゅうびは潔癖で誠実な人物であった。

 だが、今、目の前にいるこの劉備りゅうびは、賄賂わいろぐらい平気で用意できる男であった。

 あまり、良いことでは無いのかもしれないが、僕はこの劉備りゅうびがとても頼もしく感じた。


 〜〜〜


 それからしばらくして督郵とくゆう安喜県あんきけんにやって来る日を迎えた。


大将りゅうび督郵とくゆう軺車ようしゃが見えました」


 この中で一番視力の良い弓兵の董機とうきが城壁の上よりそう叫ぶ。


「さて、じゃあ出迎えるか」


 そう言う劉備りゅうびの姿は四角い箱型の黒いかんむりに、鮮やかなオレンジ色の服装に着替えていた。


「その服装が県尉けんいの正装ということだね。


 その黄色い布も正装の一部?」


 僕は彼の懐から腰にかけて垂れ下がる細長い黄色い布を指し示しながら尋ねた。


劉星りゅうせいは初めて見るか。


 これは『じゅ』だ。この色で官吏の地位を表している。俺は二百石にひゃくせき県尉けんいだから下から二番目の黄色だ。今来る督郵とくゆう百石ひゃくせきだから俺の一つ下の青紺せいこんの『じゅ』を下げているはずだ。


 この『じゅ』には官印を結びつけておく」


「官印?


 ああ、仕事の印鑑か」


「そうだ、仕事で使う印鑑だ。


 だが、この官印は俺が県尉けんいであるあかしでもある。だから、絶対無くしちゃいけないからこのじゅに結びつけておくんだ」


 なるほど、警察にとっての警察手帳みたいなものか。あれも無くすと大変なことになるらしいからな。


「さて、僕らは正規の役人じゃないからそろそろ隠れていくよ。


 劉備りゅうび、上手くやっておいてくれよ」


 僕ら劉備りゅうび郎党は安喜県あんきけんの正規の職員ではない。そういうのがウロウロしているのは督郵とくゆうの心証にも良くないだろう。僕らは応対を劉備りゅうびに任せて、しばらく身を隠すことにした。


「おう、任せとけ」


 対して劉備りゅうびは県兵を率いて督郵とくゆうを出迎えた。


「よくぞいらっしゃいました。


 私は安喜県あんきけん県尉けんい劉備りゅうびあざな玄徳げんとくと申します」


 劉備りゅうびは儀礼にかなった挨拶をする。すると、相手も同じように挨拶を返した。


県尉けんい自らのお出迎え痛み入ります。


 私は督郵とくゆう頓粛とんしゅくあざな子献しけんと申します」


 劉備りゅうびに続いて挨拶するのは、歳の頃二十代半ば、ふくよかな肉付きの男性。

 劉備りゅうびと違い文官を指し示す黒い服を着用し、懐から青紺せいこんじゅを垂れ下げている。


 彼が郡より派遣された督郵とくゆうであった。

 劉備りゅうび外面そとづらを良くするのはお手の物だ。彼は督郵とくゆうを各所に案内し、懇切丁寧にその質問に答えた。


 初日の対応は一段落を終え、劉備りゅうび督郵とくゆうを用意していた宿舎へと送った。


「本日はありがとうございました。


 私はかねてより督郵とくゆう殿の仕事ぶりに敬意を払っておりました。

 これはほんの挨拶でございます。今後とも良しなにお願いします」


 そう言いながら、劉備りゅうびひざまずきながら小袋を懐より取り出して、督郵とくゆうの前に差し出した。袋のズシリとした重みからその中身が賄賂わいろであることは一目瞭然であった。


 それを見ると、督郵とくゆうは穏やかな顔つきで笑い出した。


「ハハハ、県尉りゅうび殿は私のことを勘違いされているようだ。


 確かに督郵とくゆうの中には賄賂わいろを要求する不届きな者はおります。


 しかし、私はあくまで自身の職務を全うするのを使命としております。

 その小袋は見なかったことにしますので、お収めください」


「これは失礼いたしました」


 劉備りゅうびは慌てて賄賂わいろを片付けた。その様子に穏やかな口調で督郵とくゆうは語りかける。


県尉りゅうび殿、貴方の仕事ぶりはよく聞き及んでおります。

 徹底的に盗賊を討伐し、安寧をもたらそうとしている貴方の勤務態度には敬意を払っております」


 劉備りゅうびはその言葉を聞くと、ようやく固まっていたほおゆるんでいった。

 どうやら、悪い督郵とくゆうに当たったわけでは無さそうだと、心の中で一安心した。


「それ故に、私の要求はただ一つです」


 その言葉に少し緊張が走る。


 しかし、この要求さえ応えれば督郵とくゆうの件は片がつくと劉備りゅうびは息を呑んだ。


「なんでしょうか。


 この私に出来ることであればなんなりと!」


 督郵とくゆうはゆっくりと口を開いた。


関羽かんうを、渡しなさい」


《続く》

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