「おい、張飛!
何をしている!」
そこに現れたのは僕らの大将・劉備であった。劉備は僕から無理に愛馬・彗星を奪い取ろうとする張飛を一喝して窘めた。
劉備の側には、いつの間に姿を消していた簡雍が立っている。どうやら、彼が劉備を呼んできてくれたようだ。
「あ、兄貴……」
自身の敬愛する兄貴の登場に、張飛は一転、萎縮してしまった。
「お前が奪い取ろうとしているその馬は劉星の愛馬だ。
張飛、何故、そんな真似をする」
劉備に睨まれ、張飛は拗ねた子供のような顔で、伏し目がちに答えた。
「だってよ、生意気じゃないか!
この軍で馬持ちなのはまだ兄貴だけだぜ!
それなのに二人目の馬持ちが、あんな玩具付けなきゃ馬にも乗れないような奴なんて納得出来ねーぜ!」
そう言って張飛は僕の吊るした鐙を指差した。この時代にはまだ馴染みの薄い鐙が、彼には玩具にしか見えないようだ。
だが、劉備には既に鐙の良さを語って聞かせている。彼は鐙の重要性を理解してくれていた。
「その器具は馬をより円滑に乗りこなすためのものだ。完成したら俺の分も作ろうかと思ってたくらいなんだぞ」
張飛は説教された子供のように縮こまりながらも、それでもなおも悪態をつく。
「兄貴!
なんでこんな新参の肩ばかり持つんだよ!」
もはや駄々っ子のような文句だ。どうやら張飛は俺への擁護が一番気に入らなかったようだ。
「訳アリの奴なんだ。配慮してやるくらいいいだろう。別に劉星にだけ特別なわけではないだろう」
劉備も呆れたような口調でそう答える。しかし、気に入らない張飛はなおも叫ぶ。
「とにかく、コイツの馬術は兄貴が目をかけてやるほどのもんじゃねー!
俺の方がよっぽど馬に乗れるぜ!
こんな奴じゃなくてオレに馬をくれよ!」
張飛は駄々っ子のようにとにかく馬を要求してくる。それに対して簡雍は反対に尋ねた。
「張飛、おめぇ、馬なんか乗れたのか?」
「舐めんじゃねーぜ!
お前らが遠征している間に牛に跨って何度も練習したぜ!」
張飛は得意げに胸を張ってそう答える。それには簡雍も呆れた様子でため息混じりに聞き返す。
「張飛、あのな、馬に跨がれても、乗った事にはならないんだぜ」
「何だと!
オレが馬に乗れねーってか!」
張飛は顔を真っ赤にしながら、今度は簡雍に食ってかかる。
もはや、誰にでも喧嘩を売りそうな勢いに、劉備も声を上げて止めに入った。
「わかった。
張飛、お前は劉星と馬で競争しろ。
もし、劉星に勝てたら……劉星の馬はやれねぇが、代わりにお前専用の馬買ってやるよ」
専用馬を買ってやる。この一言で張飛は目の色を変えて跳び上がった。
「ホントか、兄貴!」
犬のように無邪気に喜ぶ張飛に対して、劉備からさらに追加で条件が出された。
「その代わりもし負けたら、この劉星から馬術を習え」
「え、コイツから?」
張飛は僕の方に振り返りながら不満な声を漏らす。それに劉備はにじり寄って問い詰める。
「やるのか、やらねーのか?」
「や、やってやるぜ!」
張飛の了解の一言を得ると、劉備はニヤリと笑って僕方へと振り返った。
「というわけだ。悪いが張飛と一勝負してくれ。
もし、お前が勝てたら、その鞍と鐙の代金を俺が持ってやるから」
厄介なことになった。まさか、あの張飛と勝負することになるなんて。相手は三国志を代表する豪傑・張飛だ。これが一騎討ちならまず勝ち目はないだろう。
しかし、馬でのレースとなれば話は違う。僕は元プロのジョッキー、レースは僕の本業だ。負けるわけにはいかない。しかも、勝てば鞍と鐙が手に入るとあっては、勝たないわけにはいかない。
勝負が決まると、わらわらと劉備軍団の面々が集まってきた。僕らは彼らを従えて楼桑里の村門の前へと場所を移した。
村の前には広々とした荒地がどこまでも広がっている。これなら馬でいくらでも走れそうだ。
僕が乗るのはもちろん、月毛の愛馬・彗星だ。装備には直したばかりの鞍と木製の鐙を着用している。
今回のレースはこの直したばかりの鞍と鐙の試運転を兼ねている。基本を意識した乗り方を心がけよう。
馬は左側より乗る。手綱と鬣を掴み、左鐙に足を掛けて、一気に体を持ち上げる。そこから馬を跨ぐ。この時、馬を蹴らないように注意する。鬣から手を離し、両手でしっかりと手綱を持つ。そして、右足を右鐙に入れてば乗馬姿勢の完成だ。
対する張飛はまだ愛馬がないので、劉備の青毛の愛馬・驪龍を借りての参戦だ。こちらは鐙は未装着。しかし、よく見ると鞍が簡雍の言っていた硬質のものになっている。
気位の高さそうな驪龍は始め、主ではない張飛を乗せるのに渋っている様子であった。だが、劉備が頼むと、渋々その場に蹲り、張飛をその背に乗せた。
なるほど、足を掛ける鐙が無いから、一度馬を座らせないと乗れないのか。鐙がないのだから当然乗り方も変わってくるか。
「よし、二人とも準備はいいな」
これにて両者が揃った。張飛とのレースの始まりだ。
「お前たち、あそこの木が見えるな」
劉備が向こうにある一本の大木を指差した。ここからなら1キロちょっとくらいの距離だろうか。周りに他に木はないので一目でわかる。
「ここから出発し、あの木を折り返して、またここまで戻ってこい。
先に辿り着いた方の勝ちだ。木の周りにも人をやっとくからズルはするなよ」
あの木まで行って帰ってくる。往復で2キロ。競馬でいうと中距離走だ。特に障害もない平坦な道。これなら問題なさそうだ。
「では、二人とも位置につけ」
僕らは地面に書かれた線の手前に並んだ。
合図用にと、戦場で使っていた太鼓が引っ張り出されてきた。両者が揃ったところで、簡雍が馬が驚かない程度の音量でドンと太鼓を叩いた。
それを合図に、僕と張飛はほぼ同時に前に飛び出した。
「さあ、彗星、いよいよ勝負だ。
だが、焦る必要はない。いつも通りに行こう」
今更、この程度の中距離を走るのは、彗星にとって何の問題もないだろう。僕はそう彗星に声をかけ、首元を撫でた。
今回のレースは基本に忠実な乗馬がテーマだ。
まずは背筋をまっすぐ伸ばす。横から見て、頭、肩、尻、踵が一直線に並ぶのが良い乗馬の姿勢だ。太ももを馬に密着させて挟む。そして、足は八の字を意識する。
競馬のジョッキーの乗馬というと、鐙の長さを短くして、尻を鞍から離して前傾姿勢での乗り方が主流だ。この乗り方をモンキー乗りという。
このモンキー乗りは騎手の体重が前方に掛かり、馬の負担が少なく、スピードが出やすいという利点がある。
しかし、今回はモンキー乗りは封印だ。モンキー乗りは鞍ではなく、鐙に全体重を預ける乗り方だ。強度に問題のあるこの鐙でとても出来る乗り方ではない。
「鐙に体重を掛け過ぎては壊れてしまう。
鞍と左右の鐙、この三点にバランス良く体重が分散することを意識して乗ろう」
僕は足で彗星の腹を押して合図を送り、徐々にそのスピードを上げていった。
僕らはそのまま何事もなく折り返し地点へとやってきた。その周囲には祖達ら観戦中の劉備軍の面々が数名並び、ヤンヤヤンヤと喝采を浴びせる。僕らは木をグルリと周り、元来た道を戻って行った。
折り返すと張飛と向かい合わせの形となる。僕らを真正面に見て、張飛は焦りを見せて、より驪龍の手綱を強く引いた。
「おい、驪龍、急げ!
このままじゃ負けちまうぜ!」
そう言うと張飛は、思いっきり驪龍の馬体を締め上げた。張飛の怪力に締め上げられ、驪龍は驚いき、苦しそうな様子を見せた。
その瞬間の表情を見て、僕はすぐに危険に気づいた。
「あのやり方はまずい!
張飛、それ以上締め上げるのはやめるんだ!」
「うるせぇ!
お前の言葉なんか聞かねぇ!」
張飛は聞く耳を持たない。
しかし、ついに耐えられなくなったのか、驪龍は勢いよく前脚を跳ね上げ、立ち上がった。
「うわー!」
「張飛!」
《続く》