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第十九話 張飛(二)

「おい、張飛ちょうひ


 何をしている!」


 そこに現れたのは僕らの大将・劉備りゅうびであった。劉備りゅうびは僕から無理に愛馬・彗星すいせいを奪い取ろうとする張飛ちょうひを一喝して窘めた。

 劉備りゅうびの側には、いつの間に姿を消していた簡雍かんようが立っている。どうやら、彼が劉備りゅうびを呼んできてくれたようだ。


「あ、兄貴……」


 自身の敬愛する兄貴の登場に、張飛ちょうひは一転、萎縮いしゅくしてしまった。


「お前が奪い取ろうとしているその馬は劉星りゅうせいの愛馬だ。


 張飛ちょうひ、何故、そんな真似をする」


 劉備りゅうびに睨まれ、張飛ちょうひねた子供のような顔で、伏し目がちに答えた。


「だってよ、生意気じゃないか!


 この軍で馬持ちなのはまだ兄貴だけだぜ!


 それなのに二人目の馬持ちが、あんな玩具付けなきゃ馬にも乗れないような奴なんて納得出来ねーぜ!」


 そう言って張飛ちょうひは僕の吊るしたあぶみを指差した。この時代にはまだ馴染みの薄いあぶみが、彼には玩具にしか見えないようだ。


 だが、劉備りゅうびには既にあぶみの良さを語って聞かせている。彼はあぶみの重要性を理解してくれていた。


「その器具は馬をより円滑に乗りこなすためのものだ。完成したら俺の分も作ろうかと思ってたくらいなんだぞ」


 張飛ちょうひは説教された子供のように縮こまりながらも、それでもなおも悪態をつく。


「兄貴!


 なんでこんな新参の肩ばかり持つんだよ!」


 もはや駄々っ子のような文句だ。どうやら張飛ちょうひは俺への擁護が一番気に入らなかったようだ。


「訳アリの奴なんだ。配慮してやるくらいいいだろう。別に劉星りゅうせいにだけ特別なわけではないだろう」


 劉備りゅうびも呆れたような口調でそう答える。しかし、気に入らない張飛ちょうひはなおも叫ぶ。


「とにかく、コイツの馬術は兄貴が目をかけてやるほどのもんじゃねー!


 俺の方がよっぽど馬に乗れるぜ!


 こんな奴じゃなくてオレに馬をくれよ!」


 張飛ちょうひは駄々っ子のようにとにかく馬を要求してくる。それに対して簡雍かんようは反対に尋ねた。


張飛ちょうひ、おめぇ、馬なんか乗れたのか?」


「舐めんじゃねーぜ!


 お前らが遠征している間に牛にまたがって何度も練習したぜ!」


 張飛ちょうひは得意げに胸を張ってそう答える。それには簡雍かんようも呆れた様子でため息混じりに聞き返す。


張飛ちょうひ、あのな、馬に跨がれても、乗った事にはならないんだぜ」


「何だと!


 オレが馬に乗れねーってか!」


 張飛ちょうひは顔を真っ赤にしながら、今度は簡雍かんように食ってかかる。

 もはや、誰にでも喧嘩を売りそうな勢いに、劉備りゅうびも声を上げて止めに入った。


「わかった。


 張飛ちょうひ、お前は劉星りゅうせいと馬で競争しろ。


 もし、劉星りゅうせいに勝てたら……劉星りゅうせいの馬はやれねぇが、代わりにお前専用の馬買ってやるよ」


 専用馬を買ってやる。この一言で張飛ちょうひは目の色を変えて跳び上がった。


「ホントか、兄貴!」


 犬のように無邪気に喜ぶ張飛ちょうひに対して、劉備りゅうびからさらに追加で条件が出された。


「その代わりもし負けたら、この劉星りゅうせいから馬術を習え」


「え、コイツから?」


 張飛ちょうひは僕の方に振り返りながら不満な声をらす。それに劉備りゅうびはにじり寄って問い詰める。


「やるのか、やらねーのか?」


「や、やってやるぜ!」


 張飛ちょうひの了解の一言を得ると、劉備りゅうびはニヤリと笑って僕方へと振り返った。


「というわけだ。悪いが張飛ちょうひと一勝負してくれ。


 もし、お前が勝てたら、そのくらあぶみの代金を俺が持ってやるから」


 厄介なことになった。まさか、あの張飛ちょうひと勝負することになるなんて。相手は三国志を代表する豪傑・張飛ちょうひだ。これが一騎討ちならまず勝ち目はないだろう。


 しかし、馬でのレースとなれば話は違う。僕は元プロのジョッキー、レースは僕の本業だ。負けるわけにはいかない。しかも、勝てばくらあぶみが手に入るとあっては、勝たないわけにはいかない。


 勝負が決まると、わらわらと劉備りゅうび軍団の面々が集まってきた。僕らは彼らを従えて楼桑里ろうそうりの村門の前へと場所を移した。


 村の前には広々とした荒地がどこまでも広がっている。これなら馬でいくらでも走れそうだ。


 僕が乗るのはもちろん、月毛つきげの愛馬・彗星すいせいだ。装備には直したばかりのくらと木製のあぶみを着用している。


 今回のレースはこの直したばかりのくらあぶみの試運転を兼ねている。基本を意識した乗り方を心がけよう。


 馬は左側より乗る。手綱とたてがみを掴み、左あぶみに足を掛けて、一気に体を持ち上げる。そこから馬を跨ぐ。この時、馬を蹴らないように注意する。たてがみから手を離し、両手でしっかりと手綱を持つ。そして、右足を右あぶみに入れてば乗馬姿勢の完成だ。


 対する張飛ちょうひはまだ愛馬がないので、劉備りゅうび青毛あおげの愛馬・驪龍りりゅうを借りての参戦だ。こちらはあぶみは未装着。しかし、よく見るとくら簡雍かんようの言っていた硬質のものになっている。


 気位の高さそうな驪龍りりゅうは始め、主ではない張飛ちょうひを乗せるのに渋っている様子であった。だが、劉備りゅうびが頼むと、渋々その場にうずくまり、張飛ちょうひをその背に乗せた。


 なるほど、足を掛けるあぶみが無いから、一度馬を座らせないと乗れないのか。あぶみがないのだから当然乗り方も変わってくるか。


「よし、二人とも準備はいいな」


 これにて両者が揃った。張飛ちょうひとのレースの始まりだ。


「お前たち、あそこの木が見えるな」


 劉備りゅうびが向こうにある一本の大木を指差した。ここからなら1キロちょっとくらいの距離だろうか。周りに他に木はないので一目でわかる。


「ここから出発し、あの木を折り返して、またここまで戻ってこい。


 先に辿り着いた方の勝ちだ。木の周りにも人をやっとくからズルはするなよ」


 あの木まで行って帰ってくる。往復で2キロ。競馬でいうと中距離走だ。特に障害もない平坦な道。これなら問題なさそうだ。


「では、二人とも位置につけ」


 僕らは地面に書かれた線の手前に並んだ。


 合図用にと、戦場で使っていた太鼓が引っ張り出されてきた。両者が揃ったところで、簡雍かんようが馬が驚かない程度の音量でドンと太鼓を叩いた。


 それを合図に、僕と張飛ちょうひはほぼ同時に前に飛び出した。


「さあ、彗星すいせい、いよいよ勝負だ。


 だが、焦る必要はない。いつも通りに行こう」


 今更、この程度の中距離を走るのは、彗星すいせいにとって何の問題もないだろう。僕はそう彗星すいせいに声をかけ、首元を撫でた。


 今回のレースは基本に忠実な乗馬がテーマだ。


 まずは背筋をまっすぐ伸ばす。横から見て、頭、肩、尻、かかとが一直線に並ぶのが良い乗馬の姿勢だ。太ももを馬に密着させて挟む。そして、足は八の字を意識する。


 競馬のジョッキーの乗馬というと、あぶみの長さを短くして、尻をくらから離して前傾姿勢での乗り方が主流だ。この乗り方をモンキー乗りという。

 このモンキー乗りは騎手の体重が前方に掛かり、馬の負担が少なく、スピードが出やすいという利点がある。

 しかし、今回はモンキー乗りは封印だ。モンキー乗りはくらではなく、あぶみに全体重を預ける乗り方だ。強度に問題のあるこのあぶみでとても出来る乗り方ではない。


あぶみに体重を掛け過ぎては壊れてしまう。


 くらと左右のあぶみ、この三点にバランス良く体重が分散することを意識して乗ろう」


 僕は足で彗星すいせいの腹を押して合図を送り、徐々にそのスピードを上げていった。


 僕らはそのまま何事もなく折り返し地点へとやってきた。その周囲には祖達ら観戦中の劉備りゅうび軍の面々が数名並び、ヤンヤヤンヤと喝采を浴びせる。僕らは木をグルリと周り、元来た道を戻って行った。


 折り返すと張飛ちょうひと向かい合わせの形となる。僕らを真正面に見て、張飛ちょうひは焦りを見せて、より驪龍りりゅうの手綱を強く引いた。


「おい、驪龍りりゅう、急げ!


 このままじゃ負けちまうぜ!」


 そう言うと張飛ちょうひは、思いっきり驪龍りりゅうの馬体を締め上げた。張飛ちょうひの怪力に締め上げられ、驪龍りりゅうは驚いき、苦しそうな様子を見せた。


 その瞬間の表情を見て、僕はすぐに危険に気づいた。


「あのやり方はまずい!


 張飛ちょうひ、それ以上締め上げるのはやめるんだ!」


「うるせぇ!


 お前の言葉なんか聞かねぇ!」


 張飛ちょうひは聞く耳を持たない。

 しかし、ついに耐えられなくなったのか、驪龍りりゅうは勢いよく前脚を跳ね上げ、立ち上がった。


「うわー!」


張飛ちょうひ!」


《続く》

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