「うーむ、こりゃひでぇな」
猫背の小男・簡雍は千切れた鐙を睨み、顎を手でこすりながらそう唸った。
劉備の故郷・楼桑里で自己紹介を終え、一段落となった。後は劉備が安喜県に赴くまでの間、僕らはこの村での日々を過ごす事となった。
僕と簡雍は愛馬・彗星を前に、鐙と睨めっこしていた。
「直すのは難しそうか?」
彼の様子を覗き込みながら、僕は簡雍に尋ねた。
この鐙は前に手先の器用な簡雍が木を切って作ってくれた特製鐙だ。先の張純の乱に参戦した時に、烏桓の勇士・魯昔と戦闘になった。その最中に踏み込み過ぎて、右の鐙を吊るした革紐が千切れてしまった。
今、その破損した鐙を改めて簡雍に見てもらっているところであった。
鐙を睨む簡雍は先ほどからどうにも渋い顔つきである。
「直す事自体はすぐ出来るさ。
千切れたところを交換すればいいだけだしな。鐙が割れたわけでもないし。
でも、ここをよく見てくれよ」
簡雍が指を差したのは鐙でも革紐でもない。愛馬・彗星に乗せた鞍の方であった。
千切れたのは革紐だとばかり思っていた。だが、よく見ると、千切れていたのは鞍の方であった。
「千切れたのは革紐じゃなくて鞍の方だったのか。鞍って千切れるようなもんなのか」
彗星に乗せていた鞍は革で出来ている。革が悪いわけではない。未来ではビニール製が主流だが、革製の鞍もないわけではない。しかし、現代の鞍は立体的な構造をしており、自転車のサドルのような座席が形作られている。
だが、今使っている鞍は違う。ペラペラの座布団や茣蓙のような敷物となっている。はっきり言って座り心地は悪い。馬の背に直接座っているのと大差ない。その敷物のような革の鞍に穴を開けて、鐙を結んで吊るしていた。
「見ての通り千切れたのは鞍の方だ。つまり、鐙じゃなくて鞍の方に問題があるってわけだ。
お前さんの馬に乗ってるのは韀という敷物の上に、厚手の革で出来た鞍を乗せた軟質の鞍だ。
随分、時代遅れの代物で、今時は貧乏人かよほどのこだわりがないと使うようなもんじゃない」
転生したばかりの頃に手に入れたものだから、この世界の鞍はこういうものかと思っていたが、どうやら、これはかなり粗末な鞍であったようだ。
「これは敵から奪ってそのまま使っていたものだ。
お尻が痛いなと思っていたが、骨董品みたいな鞍だったのか」
簡雍は顎髭を撫でながら答える。
「胡人から手に入れたんだったか?
胡人ならまだこんなの使ってんのかもしれんな」
簡雍は彗星を手に入れた経緯を知っているので、話は早い。
烏桓(胡人)の文化には疎いが、彼らにはまだこの鞍が現役なのかもしれない。
しかし、せっかくなら愛馬には上質な馬具を使いたい。
「じゃあ、今時はどんな鞍を使うんだ?」
僕は簡雍に現在の鞍事情を尋ねた。
「今時の鞍か。
今は木で骨組みを作って、そこに革をかぶせて立体的な形を作る。そういう硬質の鞍がだいぶ普及しているな」
木製の鞍か。そういえば昔、博物館で見た江戸時代の鞍も木製だったような気がする。細部は違うだろうが、その原型のような物は既に出来ていたようだ。
「もう、そんな立派な鞍が登場していたのか。いつもはお尻の下に敷かれているからあまり人の鞍まで見てなかったな。
ちなみにその硬質鞍って簡雍なら作れる?」
僕はダメ元で簡雍に尋ねた。しかし、彼は首を横に振った。
「いや、無理言うな。俺は職人でもなんでもないぞ。
こんな趣味人に頼まずに、ちゃんとしたのを作ってもらえ!」
「やはり職人に頼まなきゃならんか」
簡雍の言う事も尤もだ。いくら手先が器用とはいえ、鞍なんて大物を素人に頼むのも良くないか。
しかし、職人なんて心当たりがないな。
「お前のやろうとしていることは、鐙という人の体重をかける部分を鞍に付けようという話だからな。
確かに硬質鞍はお前の軟質鞍より強度は上だ。しかし、鐙のために作っているわけではない。既製品を買うのではなく、ちゃんと用途を伝えて、特注で作ってもらった方が良い」
「なるほど。それもそうだ」
「近々、大将馴染みの商人が訪ねてくる。その時にでも頼んでみたらどうだ?」
転生して来たばかりの僕に職人の心当たりなんてまるでない。商人が来てくれるならその人に注文するのが一番良いのだろう。劉備に馴染みある人物ならそうふっかけてもこないだろうし。
「そうさせてもらおう。
とりあえず、その時までは君お手製の鐙で練習させてもらうよ」
「ああ、おれの素人品は練習用にでも使ってくれ」
僕は鞍の無傷なところに穴を開け、再び木製の鐙を吊るした。
しかし、その様子を見て、指差して大笑いする者がいた。
「ハーハッハッハ!
何だそりゃ!」
そう笑うのは身長は百八十センチほどの長身。筋肉質な体格。どんぐり眼と無精髭の自称、劉備の弟分・張飛であった。
張飛はキッとこちらを睨みつけるとズカズカと近づいてきた。
「劉星、お前、特技が乗馬とか言ってたくせにそんな玩具付けなきゃ乗れねーのか。
お前にそんな馬は勿体ねぇ!
オレに寄越せ!」
そう言うと張飛は彗星の手綱をむんずと掴み、奪い取ろうとしてきた。
「待て待て、そんな無理やり引っ張らないでくれ。彗星が可愛そうだ」
彗星は連れて行かれるのを嫌がっているのに、張飛は力ずくで連れ去ろうとするので、僕は慌てて止めた。
それが気に入らなかったのか、張飛は唾を飛ばしながら僕を高圧的に怒鳴りつけた。
「うるさい!
お前みたいな新参がいきなり馬持ちなんて生意気だ。この馬は先輩のオレに譲れ!」
どうもこの張飛という男はやたら先輩であることを強調する。確かに自分がこの中で一番の新参だが、それで愛馬を奪われてはたまらない。
僕は取り返そうと手綱を掴んだ。
しかし、相手は天下の張飛だ。とても力で敵う相手ではない。僕はあっさりと突き飛ばされた。
「こんな弱っちい奴だったのか」
張飛が無理やり愛馬・彗星を連れ去ろうとしたその時、一人の男性が割って入った。
「おい、張飛!
何をしている!」
僕と張飛は揃ってその声の主へと振り返った。
《続く》