「ブチッ!」という音とともに右足の鐙が切れ落ち、馬上の僕はバランスを失った。
「しまった!」
敵の烏桓の男はその一瞬の隙をつき、矢を構える。
「しめた!」
「させるか!」
後ろに隠れる仲間の董機は敵に矢を射掛け、僕の援護をしてくれる。
「無駄だ」
しかし、敵の神憑り的な弓術で、飛んできた董機の矢は彼の矢で射落とされてしまう。
そして、敵はすぐに次の矢を番えて僕に狙いを定める。
董機の一矢は僅かな時間稼ぎにしかならなかった。
「もはや、ここまでか!
いや、ここで終わるわけにはいかない!」
だが、その董機の稼いでくれた僅かな時間が僕に次の一手を打つ時間を与えてくれた。
僕は倒れ込みながらも、手綱を引く。身を大きく乗り出し、真横に倒れるかのような姿勢で体重をかけ、愛馬・彗星を右に大きく引っ張った。
引っ張れた彗星は右に大きく退け、敵の一矢は空を抜け、虚しく地面へと突き刺さった。
「あんな避け方を漢人がするのか!
奴は烏桓か鮮卑の血でも引いているのか!」
烏桓の男は目を見開き、歯軋りしながらこちらを見ている。
僕もあんな避け方が出来るとは思わなかった。まだ左足の鐙が残っていたから出来た芸当だろう。
鐙に足を引っ掛けた状態だからこそ落馬せずに済んだ。鐙も無しにあんな曲芸染みた乗り方はとても出来るものではない。
「彗星、よく耐えてくれた」
僕は手綱を引き、左の鐙に体重をかけて姿勢を直した。
「だが、次はない!」
敵は驚異の連射力を誇る弓の名人。すぐに次の矢が僕らを狙う。
しかし、先ほどは上手く避けれたが、次も成功する保証はない。相手の矢が尽きるまで逃げ続けるのか。気力も集中力もいい加減限界だ。こちらに反撃する手段があれば……。
「次こそトドメだ!」
烏桓の男が矢から手を離そうとしたその時、一人の男が僕らの間に割って入って現れた。
「二人共、そこまでだ!」
割って入ってきた男は、歳は僕とそう変わらない二十代前半くらいの若さ。身長は百六十センチほど。横幅は大きいものの、随分と体格のずんぐりした男だ。今まで戦っていた男のスマートさと比べると、かなり真ん丸な男だ。
格好は烏桓特有の赤い服、重厚な鎧。円錐形の尖り兜の頭頂部には赤い羽が靡いている。
さらには乗っている馬も全身鎧で覆われている。
その姿から彼が烏桓の有力者であろうことは予想のできる。
それもかなりの上位の人物であろう。
そのずんぐりした全身鎧の男の「そこまで」の掛け声とほぼ同時に、先ほどまで僕を狙っていた烏桓の男は構えていた弓を下ろしていた。
彼が今まで戦っていた烏桓の男の上司なのだろうか。
そのずんぐりした男は僕に向かって話し始めた。
「私は烏桓族の蹋頓。
この男の主君でもある。
君はその女性がどういう人物か知っているのか?」
その蹋頓と名乗ったずんぐりとした男は、僕の後ろに乗せた娘を指差して尋ねてきた。
「本人から聞いて知っている」
僕は彼女が乱の首謀者・張挙の娘で、その身代わりとして利用されていたことを既に聞いている。それを気の毒に思い、逃がそうと思った矢先に先ほどの男の襲撃を受けた。
後ろの彼女も同意するように頷いてくれている。
「それで、それを聞いてどうするつもりだ?」
蹋頓はさらに僕に尋ねた。
「彼女を死なすには忍びず、そのまま逃がすつもりでいた」
「本当です。この人は私を遠くに逃がそうとしてくれました」
僕と彼女は正直なところを蹋頓に答えた。
その答えに、蹋頓は目を瞑り、少し考えるような態度をとった。
「なるほど。
私は烏桓王・丘力居の従子です。貴女のことについては既に従父から聞き及んでおります。
私たちは貴女の逃走に協力致します。どうぞこちらに」
事情を知った蹋頓は僕らに協力する旨を申し出てくれた。
だが、その申し出を素直に信じて良いものか、僕には判断しかねた。
「貴方たちを信じて良いのか?」
僕の問いかけに、蹋頓は笑顔を見せながら、先ほどまで戦っていた烏桓の男を指し示しながら答え出した。
「殺すつもりならこの男の矢が彼女を狙っていたはずです。
そうでないのは貴方がよく知っているでしょう」
それはそうかも知れない。彼女を亡き者にしたいのなら、先ほどの烏桓の男の弓の腕なら彼女の方を狙っていたことだろう。しかし、男の矢は僕を狙っても、決して後ろの彼女に向けられることは無かった。
しかし、だからといってこのまま彼女を渡してしまっていいものか。
「劉星、その娘を渡してやりな」
僕が迷っていると、いつの間にか茂みから出てきた劉備が直ぐ側までやって来ていた。
「しかし、劉備……」
「今、張挙を失っても烏桓には得もねぇ。
それに漢人に加えて、烏桓人まで敵に回せばその娘の生きる場所は無くなっちまう。その娘の安全を思えば烏桓人を味方につけるべきだ」
劉備の言い分も尤もだ。漢からも、烏桓からも追われて、一体、彼女を何処に逃がすのか。
だが、僕は念の為、後ろを振り返り彼女に尋ねた。
「君はそれで大丈夫か?」
彼女の心は既に決まっているようであった。
「はい、その方の仰る通り、烏桓を信じようと思います。烏桓には以前より良くしていただいておりました。丘力居様も私の事情を知っております。
この身を烏桓に委ねようと思います」
「わかった。君がそう決めたのなら従おう」
僕は納得し、彼女を彗星より降ろした。
そこへ先ほどまで戦っていた弓の名人の烏桓の男が僕の前へと進み出てきた。彼は僕に向かって叫んだ。
「私の名は魯昔!
蹋頓様の部下、獣士衆の衆夫長を務めている!
私の矢を尽く避けたお前の名を聞いておきたい!
名を名乗れ!」
どうやら彼に認められてしまったようだ。しかし、聞かれた以上は答えねばなるまい。
「僕の名は劉星。
ここにいる劉備の配下だ」
「劉星か、覚えておこう」
もしや、ライバルにでも認定されてしまったのだろうか。それはそれで困ってしまうな。
続けて彗星から降ろした彼女も僕の方に振り返って微笑みかけてきた。
「私は張挙の娘、張媛と申します。
劉星様、この度はありがとうございました。
また、縁がある時を心よりお待ちしております」
そう告げると、張媛も蹋頓、魯昔に伴われ、森の奥へと消えていった。
三人の背を見送って、劉備はボヤくように呟いた。
「あの蹋頓という男、烏桓王・丘力居の従子と名乗っていたな。
大将首を逃したな」
それに対して弓の名手・董機が答える。
「ですが、あの魯昔という男は私以上の弓の腕です。
それにあの後ろにはまだ何人も部下が控えておりました。草むらの中で顔はよく見えませんでしたが、いずれも一騎当千の猛者といった気配でした。
仲間たちと合流しても勝てたかどうか……」
「そうだな。今の俺たちじゃとても勝てる相手じゃねぇ。俺たちももっと強くならなきゃな。
そろそろ声かけるか。張飛の奴に……」
〜〜〜
この度の石門の戦いは漢軍側の大勝利で終わった。張純や烏桓たちは石門山を撤退。公孫瓚ら漢軍は多くの烏桓兵を殺し、捕らえられていた漢人を取り戻した。
しかし、乱の首謀者である張純、烏桓王・丘力居、それに偽帝・張挙ら、主要人物のほとんどは逃走した。
「肝心の張純には逃げられてしまった。奴め、妻子まで置いて逃げるとはな。
劉備、お前も張挙は捕らえられなかったか」
公孫瓚の言葉に、真実を語るわけにもいかない劉備はただ謝るばかりであった。
「面目ございません」
「だが、お前たちの働きは十分なものであった。その功績はしっかりとお上に伝えていくぞ」
「ありがとうございます」
僕ら劉備軍は公孫瓚に従い、遼西郡の菅子城に入った。その城で張純軍と再び戦う準備を始めた。
朝廷からの使者がやってきたのはそんな時分であった。公孫瓚は先の石門での勝利を評価され、中郎将に昇進した。
彼の昇進を受け、劉備は挨拶に伺った。
「公孫瓚の兄貴、中郎将への昇進。おめでとうございます。
これで名実ともに張純討伐軍の司令官となりましたね」
公孫瓚もご機嫌で返す。
「おお、中郎将といえば遠征軍の事実上の最高位。まさかここまで一気に昇進するとは思わなかった。これもお前たちの頑張りのおかげだ。
昇進に合わせて張純を必ず討伐するようにと固く命じられた。
劉備、お前たちにもこれから協力して欲しい……と、言いたいところだが」
「どうかされましたか?」
「劉備、お前にも辞令が来ている。
『先の戦いでの功績を評し、劉備を安喜県の尉に任命する』
お前も昇進だ。おめでとう」
「おお、俺が県尉ですか!」
「お前にはまだまだ協力して欲しかったのだが、昇進とあれば仕方がない。
お前の活躍を思えば県の尉は少々低く感じるがな」
「いえいえ、十分な待遇です」
「今は低くともここで頑張れば県令、いや、お前なら郡太守にもなれるだろう。
よく励めよ」
「はい! お任せください!」
劉備は力強く返事をした。
「安喜県といえば冀州の中山国にある。この幽州からは随分遠いが、このまま向かうか?」
「いえ、一度故郷に帰って準備をしようと思います」
「うむ、お前の故郷・涿郡は中山国の手前にある。ちょうど通り道だし、それが良いだろう」
「では、これより我らは帰還致します」
僕らは劉備の県尉への昇進に伴い、最前線から離脱することとなった。そして、劉備の故郷、涿郡へ向かう事となった。
「劉星、お前もこのままついてくるか」
「行き場もないし、お邪魔じゃなければ同行させてもらうよ。何より借りがあるしね」
「よし、では来い。
そうそう、故郷には前にお前が前に言っていた張飛もいるぞ」
「そうか、張飛に会えるのか」
張飛と言えば三国志一の豪傑で、最強の呼び声も高い人物だ。三国志好きなら知らない人はいないほどの有名人。
思えば僕は三国志の時代へ転生したのに、関羽にも張飛にも会っていない。有名な戦いもまだ見ていない。
「考えたら三国志のほとんどをまだ全然体験していないんだな。
劉備に付いていけばこれから多くの三国志をその身で体験することになるだろうな。
大変な事は多いだろうが、三国志好きとしては楽しみでもある。
さあ、まずは劉備の故郷、涿郡へ行こう!」
この時の僕はまだ知らなかった。まさか、張飛に憎まれ、勝負するはめになるなんていう三国志でも最大級の死亡フラグを味わうことになるなんて……
《続く》