一本の矢が僕とその愛馬・彗星の足元に突き刺さった。
僕らの前に現れたのは身長、百八十センチほどの長身細身、鼻の高い異国風の二枚目然とした男。
しかし、赤い服に毛皮の防寒着、尖り帽子のような兜と烏桓を表す記号を身に纏っている。その頭頂部に飾られた白鳥の羽が下位の兵士ではないことを主張しているようであった。
彼は引き締まった立派な鹿毛の馬に跨り、左腕の側面に楯を装着している。そして、空いた両手で弓を引き絞り、矢先をこちらへと向けて構えている。
「その女を置いてこの場より去れ!」
烏桓の彼はキツイ口調でそう叫び、僕の後ろに乗せた張挙の娘を要求してきた。
しかし、僕はこの憐れな少女を逃がしてやると決めた。置いていけと言われて、はいと答えられない。
「それはできない!」
僕は毅然とした態度で彼の要求を拒絶した。
だが、それとほぼ同時に後ろにいるはずの劉備が叫ぶ。
「まずい、劉星!
敵だ! 逃げろ!」
言うが早いか頼りとすべき大将・劉備と弓の名手・董機は既に近くの茂みの中に身を隠してしまっていた。
「え、はっや……」
この辺りは戦い慣れていると見るべきなんだろうか。二人の身のこなしの早さには脱帽する。
「この状況で逃げろと言われてもな……」
今は敵の矢がこちらを狙っている状況だ。おまけに後ろには女性を乗せており、彗星には二人乗りの状態だ。ここで背を向けて逃げたところでいい的になるのが関の山だろう。
「待て、話し合おう!」
無理に逃げても的になるだけならと、僕は話し合いを提案した。そもそも、この烏桓の男がなんで彼女を要求しているのかわからない。
彼女は一応はこの乱の重要人物だ。もし、彼女の安全が保証されるなら話し合う余地は十分にある。
「漢人と話すことなぞ無い!」
しかし、闘志を剥き出しにする烏桓の男は、僕の提案をバッサリと切り捨てて、話し合いを拒否した。民族の壁だろうか。とても話を聞いてもらえそうにない。
僕は後ろに座る女性に問いかけた。
「君はあの男を知っているか?」
「いえ、初対面です」
そう言い、背に乗せた女性は首を横に振った。
「ならば、身柄を渡すのは危険な可能性もあるのか」
知り合いならまだしも、全く知らない相手。それもあんなに話も聞かず怒っている男に彼女を委ねることはできない。
その時、後ろより声が響いた。
「劉星、無駄だ!
早く逃げろ!」
そう後ろより董機の声が聞こえたかと思うと、草むらより一本の矢が放たれる。
弓の名手・董機の一射だ。矢は僕と彼女の間をすり抜け、乱れることもなく一直線に烏桓の男目掛けて突き進む。
さすが、名手と、唸るような見事な精度だ。正確に敵の胸目掛けて真っ直ぐに進む。
「効かん!」
だが、烏桓の男は瞬時に反応し、その場より一歩も動くことなく左腕の楯であっさりと受け止めてしまった。
矢を受け止めたその男は、楯に突き刺さった矢を見ながら鼻で笑い飛ばした。
「漢人の矢はなんとも弱々しいな。
矢はこうやって射るんだ!」
董機が次の矢を射るよりも早く、烏桓の男は矢を番えた。そして、目にも止まらぬ早業で、ほぼ同時に三本の矢を射返した。
放たれた三本の矢はまばらに散って、隠れる劉備らに迫る。二人の潜む茂みの側にある木の幹を抉り、枝を砕き、散っていく葉を貫いた。
連射力、威力、そして精密さを見せつけ、隠れる二人を牽制した。
「おい、董機!
我が軍一の弓の名手ならあんな奴に負けるな!」
そう、劉備は董機に発破をかける。
だが、返す董機の声は弱った様子であった。
「大将、無茶言いなさんな。
真っ直ぐ相手を射るのは騎射の射法だ。烏桓の相手方に一日の長がある。
俺の得意な山なりの射法は、こんな茂みの中ではやりにくい。
向こうに分がある」
その董機の弱気を見透かしたように、烏桓の男は声を張り上げて草むらの二人を威嚇する。
「草むらの弓兵よ!
お前が一矢を射る間に私は三矢を射れる。
邪魔をするな!」
どうやら、この烏桓の男は、うちの弓の名手・董機をも上回る弓の名人らしい。
彼の怒声に押され、草むらの劉備・董機の二人はすっかり大人しくなってしまった。
「次はお前の番だ。その女性を離せ」
そう言い、烏桓の男は今度は僕にその鏃を向けた。
「待て、君はこの女性をどうするつもりだ」
どうもこの烏桓の男とやり合うのはどうにも分が悪いようだ。実力差は歴然。とても勝てる自信がない。
僕はなんとか話し合いに持ち込めないかと、再び呼びかけた。
「お前が知る必要はない!」
しかし、相手の男はにべもなく一蹴する。
「離さぬのなら、射る!」
烏桓の男はいよいよ我慢の限界に達したのか、弓矢をこちらに向けてきた。
相手の男は、馬上で頭ごと仰け反るような構えをして、弓を引き絞った。
彼を乗せる馬はその場より微動だにしない。よく訓練されていることが伝わってくるようだ。
その男より放たれた一矢は目にも止まらぬ高速の一撃。常人ならば避けられないような速さ。
ご多分に漏れず、僕も常人だ。とても避けられない。どころか目で追うことさえ叶わない。本来であれば僕はここで命を落としていたのだろう。
だが、矢が放たれた瞬間、愛馬・彗星はピクリと反応を示した。
「彗星、進みたいのか?」
まるで彗星に誘われるように僕は足で彼の腹を押し、前に進ませた。
それとほぼ同時に、ザクッという音とともに先ほどまで僕が立っていた場所を通り抜け、後ろの太い木に深々と矢が突き刺さった。
「間一髪か。
彗星、お前のおかげで命拾いしたよ」
僕は首を叩いて彗星を褒め称えた。
もし、あの時、彗星が引っ張ってくれなければ、僕は今頃串刺しになっている事だ。
彗星はヒヒンと嘶き、得意満面といった様子で頭を振るう。
思えば彗星との出会いは偶然だった。戦場で偶然に手に入れ、そのまま愛馬としてこんなところにまで連れてきてしまった。
物言わぬまま僕を乗せてくれていたから、受け入れてくれているのだと思っていたが、心のどこかでは無理やり従わせているのではないかと不安があった。
しかし、今、彗星は僕を生かそうとしてくれた。どうやら乗り手として認めてもらえていたようだ。
「今の矢を躱すのか!」
対する矢を放った烏桓の男は目を見開き、声をうわずらせて叫んでいた。
恐らく、あの腕前からして烏桓でも有数の弓の名人なのだろう。矢を躱された事なんて無いのかもしれない。
僕だって躱せるなんて思わなかった。向こうも驚いているかもしれないが、こっちだって驚いている。
僕一人なら到底、不可能なことだった。
全ては彗星がいて初めて出来る芸当だ。
「彗星、君は天下に二頭といない名馬だよ」
彗星の反応速度なら、あの男の矢でも反応することができる。しかし、彗星は僕の指示もなく勝手に動いたりはしない。
ならば、僕の役目は一つ。
彗星に意識を集中し、その反応を感じ取り、反応と同時に指示を出して矢を回避する。
人馬一体、その境地にたどり着かなければならない。
僕と彗星、息が少しでも合わなければ、矢は僕を貫く。やるしかないんだ。
「たまたまだ!
私の矢が当たらぬわけがない!」
目を怒らせて烏桓の男は二の矢、三の矢と矢継ぎ早に放ってくる。いずれも尋常ならざる速度で、正確に僕を狙ってくる。
その正確な射撃を可能にするのがあの乗っている馬だ。一切、勝手な動きを見せず、その場から動こうとしない。安定した足場だからこそ出来る正確な射撃。
しかし、僕が全力で逃げようとすれば、堰を切ったように襲いかかってくることだろう。一歩も動かずとも、彼の乗る馬にはそれだけの迫力があった。
あの神速の矢を自分の目で追って避けられるものではない。僕がやれることはただ彗星を信じることだ。神経を研ぎ澄まし、彗星の反応のみに集中する。彗星との呼吸がズレれば命はない。
「右!
次は左!」
自身の視覚でも聴覚でもない。彗星の感覚のみを信じ、その望む通りに手綱を操った。次も、その次の矢も躱していった。
「しかし、こんなやり方ができるのも鐙があるおかげだな。
作ってくれた簡雍には感謝だ」
僕の足には木彫りの鐙がはまっている。戦いの前に簡雍が作ってくれた鐙だ。
僕が彗星の反応にのみ集中できるのも鐙に体重が預けられるからだ。鐙も無く、彗星にしがみついていたなら、ここまでの余裕は無かっただろう。
しかし、鐙がいくらあるとはいえ、さすがに集中力はすり減るし、体力も限界だ。一体、後何本の矢が避けられるだろうか。
その時、茂みから助け舟が放たれた。
「今だ!」
「劉星、これを使え!」
後ろの茂みより放たれたのは一本の矢。
敵が三の矢を射た後のわずかな隙をついて、後ろに隠れる董機が矢を射返して、僕らの援護してくれた。
「無駄だ!」
だが、烏桓の男は難なくそれを防いでしまう。小休止にもならないほどの僅かな時間しか足止めすることはできない。
董機が一矢を射る間に、敵は三矢を射るほどの連射力を持っている。
董機の一矢をものともせず、すぐに四の矢、五の矢と目にも止まらぬ早業で射かけてくる。
「だが、董機のおかげで一瞬だけど隙ができた!」
僕の手には楯が握られていた。烏桓の男が董機の矢に気を取られている隙に、劉備が投げ渡してくれていたのだ。
「これでまだ戦えるぞ!」
「そんな板切れ一枚で私の矢が防げると思うな!」
敵の放った一矢を咄嗟に楯で防ぐ。だが、烏桓の男の放った矢は楯の左上を砕き、そのまま後ろの木へと突き刺さった。
「た、楯が砕けた!」
「私の矢を防ぎたくばそんな板切れではなく、鉄板でも持ってくるんだな」
(この楯ではあの矢を直接は防げない。
どうする……)
「そうだ、彗星!」
僕は手綱をギュッと握る。その間に烏桓の男の一矢が放たれた。
その速度は馬よりも速い。
だが、その矢は既に何度も見た。
「0コンマ何秒の世界で生きるジョッキーの動体視力を舐めるな!」
僕は愛馬・彗星の手綱を握り、向かってくる矢の角度に合わせると、楯の角度もそれに合わせて矢を弾き落とした。
「なんだと! 私の矢を弾いただと!」
「上手くいった。良かった……」
真正面から防げないのなら、横から弾く。言うは易いが、上手くいって良かった。初見では絶対に出来なかっただろう。
「私の矢を避けるだけでなく、弾くとはな!」
敵の男の苛立ちがヒシヒシと伝わってくる。
しかし、こちらだって油断はできない。僅かでも彗星との息が乱れれば、すぐに矢の的に成り果ててしまう。正直なところ集中力はかなりいっぱいいっぱいだ。
「次だ!」
烏桓の男の放った六の矢。既に僕ももう神経はすり減り、ヘトヘトだ。
そのために少し楯の角度がズレてしまった。弾かれた矢は下に逸れ、わずかに右足をかすめた。かすめたと言っても怪我を負うようなものではない。服がチッと音を立てた程度の小さな一撃。
だが、その一撃に反応して、思わず強めに踏み込んでしまったのは失敗だった。
「ブチッ!」
その踏み込みと同時に、右足の鐙を吊るす革紐がちぎれ、鐙ごと落ちてしまった。
「しまった!」
やはり、この手作り鐙では強度に問題があったか。
僕はバランスを失い、姿勢を崩した。
ほんのわずかなミスが、相手に絶好の機会を与えてしまった。
「しめた!」
烏桓の男は七の矢を番える。そこへ草むらに隠れた董機が放った矢が再び男に迫る。
「無駄だと言ってるだろうが!」
烏桓の男の放った七の矢は、董機の放った矢目掛けて真っ直ぐに飛ぶ。烏桓の男の神業と見紛うばかりのその一射は、董機の細枝ほどの矢を射抜き、そのまま地上へ落下した。
わずか、コンマ0秒の時間を空けて、すぐさま烏桓の男は八の矢を番える。とても体勢を戻すだけの時間はない。
「もはや、ここまでか!」
鐙が切れ落ち、バランスを失った僕らを目掛けて、敵の八の矢が放たれた。
《続く》