ここは石門山の山腹にある烏桓の王・丘力居の陣所。
劉星らが敵の背後を突こうと、山岳地帯を進んでいる頃、この丘力居の陣地にも動きがあった。
烏桓王・丘力居の陣所には、漢族の四角い幕舎を連ねた陣所と違い、穹廬(ゲル・パオ)と呼ばれる円柱型の移動式住居が並んでいた。
遊牧民である烏桓は普段からこの穹廬に住む。そういう意味では、慣れない幕舎暮らしを強いられる漢軍と違い、烏桓軍の滞陣は快適と言えた。
その穹廬の周囲で、ある者は馬の世話に勤しみ、ある者は馬に乗り、それぞれが長期戦を想定して思い思いの過ごし方をしている。
それでも馬との縁が切れないあたり、彼らが騎馬民族であることを思わせる。
烏桓兵は皆、赤い衣服を身に纏っている。その上から騎乗に差し支えない程度の軽装の鎧を身に着け、さらにその上に、自分が仕留めた動物の毛皮で作った防寒着を着込んでいる。
頭は辮髪という頭頂部の髪のみを剃り残し、長く伸ばして三つ編みにするという独特の髪型にする。
その辮髪の上に、三角コーンのような尖った兜を被っている。上級兵士はその兜に鳥の羽や動物の毛皮で思い思いに着飾り、毛皮の服と合わせて、それが兵士の識別に使われていた。
彼らの武器はまず第一に馬である。皆、子供の頃より馬に慣れ親しみ、手足のように使いこなす事ができる。
第二の武器は弓矢である。烏桓の子は弓矢を使った狩りを必ず習う。弓は馬上で扱い易いように三尺(約七十センチ)から四尺(約九十センチ)程度の小型のものを用いる。箭箙(矢袋)を右腰に、弓嚢(弓袋)を左腰の前側に付ける。
さらに左腰の後ろに径路刀と呼ばれるダガーナイフのような短刀を差す。
弓矢と短刀は烏桓の基本装備だ。これに加えて今では矛や戟等の漢族の長柄の武器を持つ者も少なくなかった。
「我が軍は精強だな」
彼らを見て、満足そうに腕組みをする男。彼が烏桓王・丘力居であった。
一際大きな赤い大将旗の下に彼は立っていた。
歳は五十代後半くらい。身長は八尺(約百八十四センチ)を優に超える長身。顔は髭で覆われて見えづらいが、無数の傷が残され、烏桓の壮健な勇士たちの中にあっても一層際立つ存在感を放っていた。
烏桓は民族の名であって、国家の名ではなかった。いくつかの部落に分かれており、その全てを束ねる皇帝のような存在はいなかった。部落を治める者を小帥と言い、小帥の上に大人がいる。
その大人の中でも勢力の大きな者は自らを王と称した。
丘力居はそんな王を称する一人であった。
なので、王と言っても烏桓全てを全体を統治しているわけではなかったが、それでも十万余の住民を率いる一大勢力であった。
今回の張純の乱には何人もの烏桓王が協力していたが、この丘力居はその中でも中心的な人物であった。
その丘力居の側に二人の騎馬兵が駆け寄ってきた。
「従父上、いえ、烏桓王様。
敵の動きは今のところまだ見えません」
二人は馬より降り、そのうちの一人、背の低い方の男は丘力居の側まで行って報告を行う。
その報告者を、丘力居は笑顔で出迎えた。
「おう、蹋頓、戻ったか。
やはり、敵は我らに怖じ気付いたようだな」
丘力居は厳つい顔ながらもニヤリと笑い、続けて語った。
「敵が恐れを抱いているのは、他でもない我ら烏桓だ。
このまま張純・張挙を切り捨て、我ら烏桓族による漢の国の討伐戦に移行するか」
そう言い、丘力居は豪傑らしい大笑をした。
しかし、話し相手の蹋頓はしかめっ面のままであった。
「王様、それは結構なことでございますが、慎重に行うべきです。
漢の国は強大です。我らが対面しているのは漢の領土のほんの一部に過ぎません。この度の討伐軍を退けたとしても、なお、過信すべきではありません。
我らが真の独立を勝ち取るならば、漢人の協力は不可欠です」
そう話す彼の言葉に、丘力居は感心した様子であった。
彼は、烏桓の王・丘力居の従子・蹋頓。
歳は二十代前半くらいとまだ若い。身長は七尺(約百六十一センチ)あるかどうか。体格もずんぐりとしており、精悍な体つきの従父とは対照的であった。
しかし、その目には闘志を滾らせていた。それが返って彼に只者ではないという風格を与えていた。
「なるほど、お前の言う事も尤もだ。
この度の討伐軍を撃退することなら我ら烏桓族だけでもできるだろう。しかし、そこで我らは止まってはならない。
さすが、我が軍でもっとも漢の国を研究した男だ」
人は気分良く話している時に水を差されると不快になるものだ。丘力居もそれは例外ではなかった。
しかし、ただ一人、この従子の蹋頓の言葉だけには、どんな反対意見でも耳を傾けた。
それだけ彼の能力を認めていた。
その丘力居の言葉に、蹋頓は恐縮した様子で答えた。
「恐れ入ります。
しかし、私の研究もまだまだでございます。
先日も漢の戦い方を取り入れた何卜那の隊が敵の騎馬隊に全滅させられてしまいました」
先立って劉備・鄒靖らを包囲した隻眼の大将・何卜那は彼の部下であった。その何卜那がこの決戦前に討たれたのは、蹋頓にとって痛手であった。
落ち込む蹋頓を、丘力居は従父らしく優しく労った。
「確かにお前の研究はまだ半ばだ。
だが、お前はまだ若い。そのまま研究を続ければ、いずれ烏桓を背負って立つ男になることだろう。
なんと言ったか、独自の軍隊を作っているのだろう」
その言葉に蹋頓は一瞬にして臣下の顔に戻り、神妙な顔つきで答えた。
「獣士衆でございます。
生まれ賤しくも、身体壮健で、勇気知略が人並み以上に優れた者を集めて、共に研究に励んでおります」
「そこの従者もその一人か?」
丘力居は蹋頓に同行していたもう一人の騎兵を指差して尋ねた。
蹋頓はその男を呼び寄せて紹介した。
「はい、この者の名は魯昔。
彼の騎射は私を凌駕するほどの腕前です。この者は人が一矢を射る間に三矢を放ち、百歩先の木の葉を射抜き、その威力は弩(機械仕掛けの弓)にも勝ります。
我が獣士衆の衆夫長にございます」
蹋頓からそう紹介された男は、身長は約八尺(約百八十四センチ)と丘力居とほぼ同じくらいの長身。しかし、体格は彼に比べると随分な細身で、一見すると文官にも見える。弓なりの細い眉、切れ長の目、高い鼻と整った容姿の持ち主であった。
紹介された彼は一際丁寧に頭を下げた。
「魯昔にございます。覚えていただけたなら幸いでございます」
「ほう、蹋頓すら上回る騎射の腕前か。
ならば、烏桓一といっても差し支えない実力だな。
お前たちのような若者がいるのは頼もしい限りだ。
俺は既に歳を取った。しかし、息子はまだ幼い。俺に何かあった時は息子と一族を頼むぞ」
丘力居の遺言とも取れる不穏な発言に、蹋頓は狼狽えながらもすぐに返した。
「何を気弱なことを言われるのですか。
王様はまだ元気ではございませんか」
実際、彼の目から見ても丘力居は健康そのもので、老いを感じされるものではなかった。
だが、仮に烏桓王を称する丘力居の目は、その先を見据えていた。
「蹋頓よ、そこまで漢にかぶれることはない。
年長者を敬うは漢かの風俗。我ら烏桓は若さを貴び、老いを忌む。
これからはお前たちの時代だ。よく烏桓を栄えさせよ」
そう言われては蹋頓も受け入れるしかない。
「身命に変えて烏桓のために戦いいたしまする。
しかしながら、これからの決戦という段階で、そのような言説は不吉かと思われます。
どうか、慎みください」
「そうだな、悪かった。
だが、俺には懸念することがあるのだ」
何処か遠い目をしてそう話す丘力居に、蹋頓は勇ましい口調で返した。
「同胞十万に号令をお掛けになる烏桓王様に、いかなる懸念材料がありましょうか」
だが、その返答に丘力居は首を横に振った。
「懸念は我らにあるのではない。
漢人のことだ。
これは秘中の話だが、蹋頓、お前には伝えておく。
魯昔と言ったか。お前も蹋頓の片腕ならば聞いておけ」
そう言われては聞かぬわけにはいかない。蹋頓とその部下・魯昔は丘力居の側に近付き、小声で話す彼の口元に耳を傾けた。
「実はな。この乱の首謀者・張挙は……」
そう言って周りに聞こえないような音量で話す丘力居の言葉に、二人は次第に顔色を失っていった。
「なんと、そんな事実が!」
話を聞き終わると、蹋頓は思わず声を上げた。
「俺は判断を間違えたかもしれない。
故にお前たちに託す。
先々のことは頼んだぞ」
蹋頓と魯昔は力強く丘力居に肩を叩かれた。
二人は丘力居の言葉に力強く答え、その場は下がった。その帰り道、蹋頓は魯昔に改めて尋ねた。
「先ほどの烏桓王の話をどう思うか?」
「まさか、あれほどのことが誰にも知られずに進んでいたとはと、驚くばかりです。
しかし、そうなると気がかりは張挙の陣所……」
その魯昔の回答に蹋頓は大きく頷いた。
「そうだ。
この事実により、我が陣営の急所は張挙となった」
蹋頓の目がギラリと光る。
「ですが、幸い張挙の陣は我が軍の裏手に位置します。もし、決戦となっても損害は軽微でしょう」
「だが、敵が裏に回ったら?」
「大軍が動けばすぐにわかります」
魯昔はそこまでの危機に感じていない様子であった。
その時、一陣の風が吹き荒れた。蹋頓は不安を覚えて丘力居の陣へと振り返ると、彼の大将旗が風に煽られグラリと揺れ、まるで翻弄されるかのように傾いていた。その光景に蹋頓の野生の勘が危機を叫んでいた。
「このままではいけない!
少数精鋭で一気に攻めてくる可能性がある。
よし、我らは裏に周り、張挙の陣の支援に回る!
急げ!」
《続く》