白馬の大将・公孫瓚は我ら劉備軍の陣所に急報を告げに現れた。
「烏桓の貪至王なる者が種人(同部族)を率いて我らに寝返りたいと願い出てきた。
睨み合いがいたずらに続くばかりの状況であったが、それを一変させる好機が向こうよりやってきたぞ!」
公孫瓚は彫りの深い映画俳優のような顔立ちの二枚目だ。そんな顔した彼に、低く渋い声色で伝えられると重要情報もより一層重く感じられる。
炭火の上にかぶせた籠に寄りかかって暖をとっていた男たちは、この急報に皆、黙りこくってすぐには反応しなかった。
籠の隙間から仄かに漏れ出る火の明かりが、彼らの一抹の不安な顔を浮かび上がらせていた。
この公孫瓚がもたらした急報は事態を一変させるほどのものだ。
僕らはこの白馬の大将・公孫瓚の指揮の下、反乱の首謀者・張純、張挙や烏桓族の籠もる石門山の目の前まで進軍して来た。
しかし、堅固な要塞と化した石門山を攻める手立てが見つからず、戦いは長期化するかと思われた。
それが、ここにきて敵の寝返りだ。状況が一変するほどの特大ニュースだ。
しかし、彼らがその一報に手放しで喜べないのもわかる。
「その貪至王ってのは誰なんですかい?」「そんな奴信じていんすか?」「それで勝てるんすか?」
そんな言葉が兵士たちの間で囁かれていた。
そもそも彼らは貪至王を知らないのだ。今回の戦う相手で有名な烏桓族といえば丘力居という人物だ。貪至王という人物は聞いたことがなかった。
「貪至王は遼東属国(現在の遼寧省錦州市辺り)を拠点にし、数千の兵を率いる烏桓の王だ」
公孫瓚はそう語って聞かせる。
この寝返りを約束してくれた貪至王は王と言っても烏桓全体の王ではない。あくまで一集落の王だ。
王と名乗るだけあって勢力は小さくはないだろう。
だが、石門山に籠もる烏桓は丘力居を始め数万もいる。その内の数千を率いる貪至王の勢力が一人寝返ったところで、この戦争に勝てるだろうか?
言うなれば武将が一人寝返るぐらいの話だろう。
その不安のために、彼らはどうにも気乗りがしないようであった。
(公孫瓚は好機到来と思っているようだが、果たしてこの内応、上手くいくんだろうか?)
僕も皆と同じく、そんな疑問を胸に抱いていた。すると、それを見越したように僕らの大将・劉備が公孫瓚の前に進み出た。
「それで、公孫瓚の兄貴は俺たちに何をさせようって言うんだい?
まさか、大将自らがそんな報告をしに俺の陣所に来ないだろ?」
劉備も当然、疑問に思っているようだ。しかし、彼の表情は不安とは無縁といったもので、まるで軽口でも叩くかのように、それでいて公孫瓚の作戦も予期していたかのように尋ねた。
この世界の劉備は表情こそ温和そうで、人当たりがよく思える。
だが、無神経で図々しくて、本当に『三国志』に出てくるあの仁徳の人・劉備なのかと何度も疑問に思っていた。
しかし、肝の太さと頭の回転の早さ、さすが、一軍の大将といったところで、頼りになる。
劉備の返答に、僕よりも付き合いの長い公孫瓚も予測していたかのようで、満足した態度で答えた。
「さすが、劉備だ。話が早くて助かる。
お前たちには敵の背後を突いてもらいたい」
その公孫瓚が提示した作戦に、劉備は重ねて尋ねる。
「敵が内応を約束したのに、さらに俺たちで背後を攻めるんですかい?」
「そうだ。この度の内応は千載一遇の好機だ。
しかし、この好機を活かせず、敵を倒せなければ、これほどの好機はもうないだろう。必ず、次の一戦で敵を倒さねばならぬ。
だが、内応者が一部隊だけでは弱い。敵の集中攻撃を浴びれば簡単に倒されてしまう。
それはお前も感じていることだろう」
その公孫瓚の言葉に、劉備は閃いたような顔つきで答える。
「なるほど、見えてきましたよ。
だから、俺たちに背後を攻めさせ、敵の攻撃を分散させたいってことですね」
「ああ、そういうことだ。
我らが正面から総攻撃を仕掛けても勝てない。内応者が一人だけでも弱い。背後に奇襲を仕掛けても決め手に欠ける。
ならばこの全てを同時に実行しようというわけだ。
お前たちにはこれから石門山の裏に回ってもらいたい。
そして、内応者の貪至王と同時に敵の背後を攻めてほしい」
「わかりました。
それなら、我らは敵軍に扮しましょう。まるで内応者が複数いるかのように見せかければ、より勝率は上がるんじゃないですか?」
「なるほど、それは良い策だ。
では、お前たちは敵軍を装い、内応者と連携して敵軍の背後を脅かしてくれ。
それを見計らって我らも正面より総攻撃を仕掛ける。
敵の表にはこの反乱の張純・丘力居らが布陣しているのに対して、裏には張挙の陣がある。
張挙は反乱当初、皇帝を名乗った人物だ。しかし、反乱が起きてからは張純や烏桓らに比べて活動が乏しく、情報が少ない。気をつけろ」
「お任せを!
しかし、天子を称した張挙が裏にはいるんですか。
ならば、そいつを捕らえれば大手柄ということになりますな」
劉備がニタリと笑う。あまり英雄にはしてほしくない顔つきだ。
だが、見慣れているのか、公孫瓚も何食わぬ顔で答える。
「ああ、張挙を捕らえれば戦功は最上級だ。
十分な恩賞を得られるだろう。
お前も相応の出世が出来るだろう。気張っていけよ」
「へへ、やる気が出てきたな。
よし、野郎ども、戦の準備だ!
莫大な恩賞の首が俺たちを待っているぞ!」
この劉備の言葉で、劉備軍の兵士たちはようやく湧き上がった。
劉備のおかげで、この戦いの勝率と自分たちの役割が見えた。また、一攫千金という目標も出来た。
劉備軍の兵士たちから「ヨッシャ」とか「やるぞ」といった気合に溢れた言葉が口々に飛び出していった。
彼らにこうもやる気を起こさせるとは、さすが大将といったところだ。
斯く言う僕も気の逸る思いであった。
鐙を作った時に、もしこの世界に特許があれば、僕は大金持ちになれたのにと残念に思っていたが、まさか、大金持ちルートがまだ残っていたなんて。
劉備軍の中で馬に乗っているのは僕と劉備の二人だけだ。だが、劉備には全体の指揮という仕事がある。僕が張挙を捕らえる可能性は大いにある。
そう考えたら自然と気合が入っていった。
「お、劉星、ニヤけてんぞ。
馬ばかりの奴だと思っていたが、やっぱりお前も金が欲しいか」
そう言って声をかけてきたのは前に鐙を作ってくれた簡雍であった。
「そりゃそうだよ。
金があれば馬が買えるからね!」
「結局、馬かよ!」
簡雍が漫画みたいにズッコケている。
しかし、この世界であまり欲しい物も今のところ無いしなぁ。
ただ、心残りなのは、彼に作ってもらった鐙の一件だ。僕としてはあの木製の鐙の試走をもう少しやっておきたかった。
(鐙をもう少し試したかったな。木製の簡単な作りだから強度ももっと確認しておきたかったし……。
いかんいかん!
これから戦争が始まるんだ。気持ちを切り替えていかないと!)
そこからの劉備軍の行動は早かった。何しろ一攫千金のチャンスなのだから、皆の目の色が違う。
僕らが出陣の準備をしていると、劉備は僕に黄色い布切れを手渡してきた。
「劉星、今回の俺たちは敵の黄巾賊が我らに寝返ったという設定でいく。
黄巾賊に化ける用の頭巾だ。かぶっておけ」
ゴワゴワしてやたら編み目の荒い小さな布切れだ。それが申し訳程度に薄っすら黄色で染められている。
「かぶるって言ったって、そんな大きな布じゃないぞ」
「ちゃんとした頭巾を用意できれば良かったんだがな。急遽、百人分を用意しなきゃならんから、そんな端切れみたいなのしか準備できんかった。
まあ、パッと見て黄色い布が頭についてるように見えればそれでいい」
やむなく頭に巻いてみたが、三角巾のように頭を覆うにはまだ不足で、ユーレイが頭につける三角の布のようになってしまった。
「おお、前に巻くのはいいな。
後ろに巻いても目立たんし、わざとらしく目立たせるくらいでちょうどいいだろう」
ちなみにこの時代は頭に頭巾や帽子、冠など何かしらかぶっておくのがマナーであったようだ。
僕は詳しくはよくわからないので、転生時に身に着けていた頭巾をそのまま愛用している。どうも頭巾というのは庶民のかぶるものらしいが、今の僕の立場ならちょうど良いだろう。
さらに劉備は僕に一枚の小さな板切れを渡してきた。
「これを馬に銜ませておけ」
「この板はなんだい?」
カマボコ板を少し大きくしたような小さな板切れだ。僕はよくわからずに劉備に尋ねた。
「お前、あんだけ馬のこと知ってて枚を知らんのか。
これは馬に声を出させないように口に噛ませておくものだ。
これから敵に攻め込むまで見つかるわけにはいかないからな」
なるほど、馬に咥えさせて、咄嗟に声を上げさせないための板か。
「しかし、こんなのを彗星に咥えさせるなんて可哀想だな」
「何を言ってるんだ。
誰が馬だけに噛ませるといった」
「え?」
「人間も噛むんだよ」
こうして僕と愛馬・彗星は口に板を咥えて、劉備の奇襲作戦に加わった。
まさか、自分までこんな板を咥えることになるとは思わなかったが、今回の作戦は敵陣に到着するまで見つかるわけには行かない。どんなに気をつけていても、予期せぬ事態に直面すれば咄嗟に声を上げることはある。ましてや馬はなおさら気をつけるのは難しい。そう考えるとこの装備も已む無しなのだろう。
僕ら劉備軍は、敵に見つからぬようにと、敢えて道なき道を突き進んだ。雪を踏みしめ、枯れ木を切り、沼に板を渡して敵の後背を目指す。
「うう、寒い、これが十一月の温度かよ。
彗星、お前は本当に聞き分けの良い馬だな。もう少しの辛抱だ。頑張ってくれ」
時期は十一月、日本だと秋の終わり、冬の初めの印象だが、気温は真冬のように寒い。綿入りの防寒着なんて上等なものはないので、薄手の衣を重ね着して震えながらの行軍となった。
しかし、虫がいないのは幸いだった。馬は虫を嫌う。この悪路に加えて虫害まであったら、彗星のストレスは相当なものだったろう。その点だけは寒さに感謝するできるところだ。
艱難辛苦を乗り越えて、僕らは敵が籠もる石門山の麓までやってきた。
先頭にいた大将・劉備は自らの口の枚を外して、僕らの方へと振り返る。
「さあ、お前たち。
いよいよ作戦開始だ!」
ついに決戦開始だ。
僕は緊張と興奮、強い二つの感情に包まれていた。
しかし、この戦いで宿命的な出会いが待っていようとは、この時の僕は予想だにしていなかった。
《続く》