ここで認めてもらえなければ何も知らないこの世界に放り出されてしまう。彼らに認められなければいけないんだ!)
僕の頬を冷や汗が伝い、唾を大きくゴクンと飲み込んだ。
僕の様子を見ていた劉備は少し苦笑いしながらこちらに話しかける。
「そう畏まるな。ここの部隊内では堅苦しい言葉は使わなくていい。
コイツらも根は良い奴らだ。お前の馬術の腕前を戦場で見せればすぐに納得するさ。
まあ、今は戦時だ。コイツらの個々の紹介はまた落ち着いた時にでもしよう。
そして、こいつが俺の愛馬・『驪龍』だ」
劉備が曳いてきて、見せてくれたのは先ほどまで彼が乗っていた馬だ。
その馬・驪龍は劉備に近づくや、引いていた部下の手を振り解き、勝手に彼の元へと駆け寄っていった。まるで自分が認めた主以外は寄せ付けない。そんな気高さを感じられる馬であった。
「ほう、これは見事な黒馬だ」
「おう、わかるかい」
「ああ、駁一つない黒一色の美しい馬だ。
体高は僕の愛馬・『彗星』より少し低いだろうか。だが、肉付きよく、背丈以上の大柄さを感じさせる。
鬣は艶やかで光輝いている。長い尾で周囲を払うかのように歩き方には気品さえ感じさせる」
僕はうっとりしながら、その馬の気品に見惚れていると、劉備がコホンと軽く咳払いをして話を始めた。
「お前さん相当馬な馬好きで、目利きもできるのはよーくわかった。
俺の馬に見惚れてくれるのは悪い気はしないが、話を進めさせてもらうぞ。
ところで、お前さんは今、ここがどういう状況かわかるか?」
劉備に聞かれて、僕はハッとする。
(そうだ、その確認をしなくちゃならない。今が何年か……といっても年号で言われてもわからないな。
とにかく、今がどんな状況なのか知らなきゃ対応しようがない。
ここは最初の大事なところだ。恥を忍んで正直に聞こう)
「すまない。今どういう状況なのか説明してもらえないだろうか?」
そう尋ねると、劉備はニタリと笑う。
「お前さんアレだな。金が貰えるとか良いことだけ言われてよく説明もされずに兵士にされた口だな。
今は張純の乱を平定する最中だ。それはわかるか?」
張純? 三国志をよく読んだつもりだが知らない名前だ。
「いや、よくわからない。
黄巾の乱なら知ってるんだが……」
僕はそう言って思わず、しまったと思った。
つい、知っている乱の名前を答えてしまったが、ここが黄巾の乱より前の世界なら、僕は未来の出来事を言ってしまったことになる。
しかし、劉備の返事は予想に反するものであった。
「黄巾の乱? そんなの四年も前の出来事だぞ」
「え、終わった……?」
どうやら僕の推理は外れたようだ。
ここは黄巾の乱の四年後の世界であったようだ。
「全く、世間知らずな奴だな。
いや、今回の敵にも黄巾の残党が多く加わってるそうだから決して間違いではないか。
まあ、今回の敵は黄巾賊も含まれるが、主犯格は張純・張挙、そして北方の蛮族・烏桓だ!」
烏桓は聞いたことがある。確か北方に住む漢民族とは別の民族だ。遊牧しながら暮らす騎馬民族だったかな。
「烏桓は長らく我ら漢の国に従っていたが、内心では叛逆の機会を伺っていた。
そこに漬け込んだのが張純という男だ。
奴は烏桓を煽り、反乱を起こさせた。
さらに親族の張挙を皇帝に祭り上げ、自身は弥天将軍・安定王と名乗った。
そして、ここ幽州の地を手始めに、冀州、青州、さらに徐州と四州に跨る大規模な反乱を起こした。
俺たちはその反乱を平定するために討伐軍に加わっているというわけだ」
「なるほど」
劉備の説明のおかげで大体の状況はわかった。
確かこの頃の中国は十三くらいの州があったはず。そのうちの四州が被害にあってるというなら、どうやらかなり大規模な反乱らしい。
「よし、状況がわかったところで移動するぞ。
まずは上官と合流しよう」
劉備の一声に応じて、百人の部隊が前進を始めた。
僕は周りに合わせるように愛馬・彗星を曳いて歩いた。
「これが中国の大地か……!」
目に飛び込んでくるのは、地平線がはるか遠くに見える大平原。その光景にここが日本ではなく、広大な大陸であることが否応なく思い知らされる。どこまで行っても目に付くのはまばらに生えた草と岩、そして大地。
……だけなら良かったのだが、先の戦いの犠牲者だろうか、いくつもの死体とそれに群がるカラスたち。黒ずんだ血と死臭がどこまでも広がっていた。
やはり、ここは現代日本ではないのは間違いない。僕は気持ち悪くなりながらも、なんとか劉備軍に後ろからついて行った。
しばらく進むと、等身大ほどの大きな岩石がいくつも並ぶ岩場へと出た。その彼方より黒粒のような一団がこちらに向かうのが目に入る。その数は劉備軍の比ではない。
最初は警戒したが、劉備が偵察を出すと相手が味方と分かり、部隊は歓喜の声に包まれた。
「あれは鄒校尉の軍か!
ご無事だったか!」
僕らは相手の軍と合流し、劉備はその先頭で馬に乗る指揮官らしい人物の元へと駆け寄っていった。
「おお、劉備か。
貴殿も無事で良かった。
先ほどの乱戦で随分兵がいなくなってしまった」
相手の指揮官も劉備と合流できたことを喜んでいる素振りであった。
「鄒校尉、我が軍は相当な損害を被ったとはいえ、全員が死に絶えたわけではありません。
ここで一度休息を取り、散り散りになった兵士を集め直しましょう」
「なるほど、その通りだ。
よし、全軍、ここで野営の準備だ!」
劉備が戻って来ると、僕はあの指揮官について尋ねた。
「あの方がここの上官なのか?」
「そうだ。破虜校尉の鄒靖殿だ。
青州から反乱軍を撃退しつつこの幽州まで北上してきた。
討伐軍の全体の指揮官というわけではないが、我らの上官にあたる」
なるほど、鄒靖+破虜校尉を略して鄒校尉か。
鄒靖という人物は僕の記憶にない。
しかし、劉備の上官ということは重要な人物なのだろう。
見たところ年は四十代〜五十代くらい。筋骨隆々という程ではないが、引き締まった体に整った身なりで高級将校といった印象を与える。
鎧が胴体部にしかない僕らと違い、彼の鎧は袖や腿まで覆われており、黒く輝いている。
さらに彼の率いている兵は三千人はいるだろうか。劉備軍の三十倍だ。これが正規の軍隊との差かと見せつけられているようだ。
そして、その鄒靖の乗る馬は明るい鹿毛(一部に黒毛を含む茶色)で、四肢が黒い。体高は劉備の馬とさほど変わらないようだが、よりスリムで足が長く見える。鬣や尾は綺麗に整えられ、気高さが感じられた。
飾りなのか、鞍の左右から競馬のゼッケンをより長くしたような黒い布が、地面スレスレにまで垂れ下がっている。
遠くからでも明らかに上官とわかる出で立ちだ。
それにしても、胡散臭い劉備より、この鄒靖という指揮官の部下になれば良かったなと、僕は少し後悔をした。
なにはともあれ休憩だ。僕はようやく休めると一息つこうとした。
「やっと休憩だ。
車も電車も無しでこんなに歩くのはキツ過ぎる。
それにもう日も傾いてきた」
何しろ、このだだっ広い大平原をひたすら徒歩移動だ。いい加減、疲れたし、腹も減った。彗星は道中で草をいくらか食っていたようだが、人間はそういうわけにはいかない。
もう夕方だ。完全な夜になる前に色々済ませておきたい。
僕らは視界の開けた小高く広い丘を陣所に定めて、野営の準備を始める。
だが、その時、空中より『ピューーー』という音が辺りに響いた。
「なんだこの音は?
笛の音か?」
僕には音の正体はわからなかったが、劉備はすぐにわかったようだ。
「まずい、鳴鏑だ!
敵に見つかったぞ!」
「メイテキ?」
「音の鳴る矢だ。
敵の烏桓が使う合図だ!」
その音に合わせるように、岩陰よりドッと無数の騎兵が現れ、僕らの布陣する丘の周囲を取り囲む。
その数は五千人はくだらない。鄒靖軍の三千人、劉備軍の百人を足してもまだ向こうの方が多い。
敵は丘の麓にたどり着くと、各自馬を降り、剣を構えた。さらに大型の楯で壁を作るように立ち並び、ジリジリと包囲を狭めていく。
その様子に劉備は感心したかのように唸った。
「ううむ、なるほど」
「敵相手に何を感心してるんだ、劉備?」
「劉星よ、敵は手強いぞ。
烏桓といえば騎馬と弓矢だ。馬で突っ込み、弓矢で射るのが定番の戦い方だ。
だが、これから夜になる。暗い中、乱戦を仕掛ければ味方にも被害が出る。
敵は状況をよく見て得意武器を敢えて封じている。
それに剣に楯は漢軍の戦い方だ。こちらをよく研究している証左だ」
劉備にそう説明され、僕は震え上がった。
「そ、そんな相手にどうすりゃいいんだ?
このままで大丈夫なのか?」
「このままじゃヤラれるな。
鄒校尉の元に行くぞ。劉星、共をしろ!」
名指しされて、僕は目を見開いて答えた。
「え、僕はここで一番の新参だよ。
他の人の方がいいんじゃないか?」
「うちの馬持ちは俺とお前しかいないんだ。
相手は校尉様だ。歩兵が行ったんじゃナメられる。後ろにいるだけでいいから付いてこい」
そう言われては行くしかない。僕は不安を抱きつつも、愛馬・彗星に跨り、劉備とともに上官・鄒靖の元へと向かった。
既に鄒靖の元には数人の部下がおり、各々進言をしていた。
「東の方が包囲が薄いと思われます。ここを攻めるべきです」「我が軍の疲労具合を考えるべきです」「ここに留まり固く守りましょう」
各自のバラバラな進言に、鄒靖が困り果てている様子だ。その中に劉備は躊躇すること無く馬上から飛び降りながら、彼らを押し退けるような一声を上げた。
「鄒校尉!
この劉備に一計がございます!
ここはお任せください!」
劉備のあまりにも大見得を切った発言に鄒靖は面食らったような表情だ。
だが、えらく自信満々な劉備の顔つきに、感じるところがあったのか鄒靖は尋ねた。
「劉備よ、何か策があるのか?」
「お任せください!
我が軍にはこの者がおります!」
「えっ?」
馬から降りている最中、劉備の指がこちらに向いていることに気付いた。
劉備が指し示しているのは、紛れもなく僕であった。
「この者こそ我が部隊の切り札・劉星にございます。
劉星ならこの難局を打開してみせるでしょう!」
「え、えー!
劉備、何を言い出すんだ!」
劉備はニヤリと笑う。
突如、僕は理由もわからぬまま切り札にされてしまった。
《続く》