「俺の名前は劉備だ」
彼は三国志の英雄・劉備と同じ名を名乗った。その話が本当なら僕は古代中国の戦乱の世界に転生してしまったことになる。
僕の名前は辰元流星。現代日本で競馬のジョッキーをやっていた。それが、レース中の落馬事故で命を落とし、気付いたらこの世界に転生し、劉備と名乗るこの男と出会った。
自らを劉備と名乗ったその男は年の頃二十代後半くらいだろうか。背は百七十センチほどで、他の兵士に比べれば長身だ。身に付けている衣服や鎧は他の兵士とそう変わらない質素なものだ。だが、秀でた眉、紅い唇、大きな福耳と、その温和そうな表情からどこか気品を感じさせる。
だが、その背後には彼を慕う百人からなる厳つい手下がおり、否が応でも警戒してしまう。
(果たして本当にこの人が僕のよく知る三国志の|劉備《りゅうび》なんだろうか?)
僕が疑問に思っていると、劉備を名乗る男の方から話しかけてきた。
「よろしくな、劉セイ。
同じ劉姓だ、仲良くしよう。
ところで名のセイの字はどう書くんだ?」
三国志は古代中国の出来事だ。劉備は劉が姓、備が名前となる。
僕は下の名である流星を名乗ったのだが、どうやら劉という姓のセイさんだと思われたようだ。
(誤解なのだが、相手は同姓だということで親近感を持ってくれている。
知り合いのいないこの世界で味方は一人でも欲しい。このまま劉姓で押し通そう)
そんな打算もあって、僕は劉備の話に乗って答えた。
「名は星の字を書くんだ。
姓は劉、名は星、劉星だ。よろしく」
僕は地面に字を書いて名を伝えた。
辰元流星改め『劉星』、それがこの世界での僕の名前となった。
「ところで劉星さんよ、見事な馬術だったな。
お前さん、どこの部隊の所属だい?」
そう劉備と名乗る男に聞かれ、僕は困ってしまった。
目が覚めたらこの戦場にいた。それ以前の記憶は前世の日本での騎手としてのものしかない。
僕がどこの所属かどころか、そもそもここはどんな世界で、何が起きてるかもわからない。
せめて、先ほど介抱してくれたオジサンから話を聞けていれば、と僕は悔やんだ。
「ははん、なるほど。
お前さん、逃亡兵のクチだな」
僕が答えに窮していると、謎の男は勝手に察して話を進め始めた。
「しかし、逃亡兵は罪に問われる。
行き場がないなら、俺の部隊に来ないか?」
罪に問われると言われては困ってしまう。ここであの劉備の配下になるというのは良い選択だろう。
だが、それはこの劉備が本当に三国志の劉備ならの話だ。
「君の部隊に行くのはやぶさかではない。
ただ、その前にいくつか確認させてくれないか?」
「おう、いいぞ。
なんでも聞いてくれ」
よし、言質を取ったぞ。
今度はこの劉備と名乗る男に尋ねる番だ。
劉備といえば三国志の主人公だ。
三国志とは、今から約千八百年前の中国が舞台の実際にあったお話だ。
当時、中国には後漢という国があったが、戦乱によって衰退してしまう。
そこで主人公・劉備は後漢に対する忠義の心と人徳によって数多の仲間を集め、後漢を復興しようと奮闘する。
結局、後漢は曹操とその子・曹丕によって滅ぼされ、後に魏が建国される。だが、劉備は仲間とともに後漢を引き継いだ蜀漢の国を建国。これに呉の国を加えた三国の興亡のお話が三国志だ。
(本当にここが三国志の世界なのか、そして、彼がその劉備なのか。まずは確かめなければならない。
とはいえ、未来の出来事を尋ねるわけにもいかない。ここは慎重に質問を選ばなければ……)
「僕は『劉備』という名に聞き覚えがある。
本当に君はあの劉備なのか?」
そう尋ねると劉備は得意そうな表情で答えた。
「ほう、もう俺はそんなに有名なのか。
どの劉備と迷ってるのか知らんが、今のところ同姓同名の奴にはあったことねーな」
確かに三国志にはたくさんの似た名前の人物が登場するが、劉備と同姓同名というのは聞いたことがない。
だが、まだ確定するには早すぎる。
「確認なのだが、君の生まれはどこだい?」
「涿郡涿県というところだ。
そこの酈亭の楼桑里というところの生まれだ」
(うーん、記憶だと劉備の故郷は涿郡涿県の楼桑村というところのはずだが……
これは正解の範囲内なのだろうか?)
絶妙に判断の困る返答だ。楼桑里と楼桑村は同じなのだろうか。自分には判断がつかない。
「君は皇帝の血を引いていると聞いたが?」
「そんな話よく知ってるな。俺も言われるまで忘れてたのに。
遡れば皇帝になるらしいが、詳しくは覚えてないぞ。家に帰ればわかると思うがな」
これまた判断に困る返答だ。
(劉備といえば漢の皇帝の末裔で、漢王朝を復興させるために奔走する。
そのはずなのだが、この劉備を名乗る男にはまるでその気が無さそうだ。
しかし、皇帝の末裔ではあるようだし……。
そうだ、決定的な事があった!)
僕は最良の質問があったとばかりに劉備に尋ねた。
「君の部下に関羽・張飛という二人がいると聞いたが、あの中に二人はいるのかい?」
僕はそういって劉備の元に集結した百名からなる彼の部隊を指差した。
関羽・張飛といえば劉備の挙兵した当初から従う豪傑だ。劉備はこの二人と桃園の誓いを行い、義兄弟となったところから三国志の物語は始まる。
彼が本当に三国志の劉備ならこの二人が必ず側にいるはずだ。
だが、彼の回答は僕の予期せぬものであった。
「あん? 関羽って奴は知らないな。
張飛なら知ってるが、ここにはいないぞ。
あいつはまだガキだから故郷で留守番させてるぞ」
(うーん、ますますわからなくなった。
関羽はいないが、張飛はいる。しかもまだ子供だという。
返ってくる回答が微妙に自分の知っている劉備と違う。あの三国志とは別の世界線の三国志なのだろうか?)
「なあ、劉星よ、そろそろいいか?
このくらいで納得しちゃくれないか」
(うーん、張飛がまだ子供ということは、ここは三国志で最初に起きる反乱の黄巾の乱よりも前の時系列なのかもしれない。
自分の知っている劉備と多少異なるが、物語の数だけ劉備像も異なる。
やはりここは三国志の世界で、彼はその主人公の劉備その人なのだろう)
しかし、彼が劉備なら、これは奇跡的な出会いといえる。
彼は最終的には蜀漢という国を興し、その皇帝となる。
そこに至るまでが波乱万丈なわけだが、それでもこの乱世にあって将来が約束された人物と言える。
(ということは、このまま彼に仕えて出世すれば自分の将来も安泰ということだ。
幸い自分には愛馬・彗星と、前世で培った乗馬スキルがある。この時代なら馬術は高く評価されるはずだ。出世するチャンスは十分ある。
しかし、劉備に仕えると夷陵の戦いやら北伐やら後半まで苦しい戦いの連続だな。
よし、劉備が皇帝に即位するまで彼に仕えよう。そして、その後は引退して牧場でも経営して悠々自適な生活を楽しもう。
牧場で育てた馬を蜀漢に格安で譲れば義理も果たせるだろう。
これなら異世界で定番の成り上がりとスローライフをどちらも満喫できる!)
僕は密かにこの世界での目標を定めると、満面の笑みで劉備に返した。
「ああ、ありがとう。
やはり君は噂に聞いていた劉備で間違い無さそうだ。
君の言う通り僕には行き場がない。ぜひ、君の軍に加えて欲しい」
「おお、加わってくれるか劉星!
歓迎するぜ」
劉備は僕の肩を抱くと、自分の仲間の方に向き直って紹介を始めた。
「オメーら、コイツは今日から俺の軍に加わる劉星って男だ。
馬術の腕は一流だ。仲良くしてやってくれ」
そう劉備は気安く紹介する。だが、その部下たちまで気安いとは限らない。
「また大将の気まぐれか」「ウチの大将ナメてんじゃねーか」「剣もまともに使ってなかった奴じゃないか」「役に立つのかよ」……。
そんな言葉がコソコソと飛び交っている。
どうやらあまり歓迎はされていないようだ。何しろ相手は人相の悪い百人からなる男たちだ。僕は何かされるんじゃないかとガチガチに緊張しながら挨拶をした。
「り、劉星です。よろしくお願いします」
(|劉備《りゅうび》が本物か試すような真似をしたが、考えたら僕は転生したばかり。この世界の知識も知り合いもいなければ、帰る場所もわからない。何もない身の上だ)