数日が経ち、少しずつ妖の世界での生活にも慣れてきたミズキだったのだが一つ困っていることがあった。
「あのー、離れてくれませんかね?」
「なぜだい?」
「いや、その……」
ミズキは
ちょっとだけのつもりで外に出てしまった日から紅緑が離れなくなったのだ。食事を終えると彼はミズキを膝に乗せて後ろから抱きしめるというのが暫く続く。
用事で外に出る時もあるのだが、屋敷にいなさいときつく言われている。少しでも外に出ていれば黙っていても気づかれてしまうのだ。
(ちょっと、竹林の石段を眺めていただけでも気づかれたもんなぁ……)
敷地を出たわけでもないのだが彼はそれをも気にするようだ。囲炉裏の火を眺めながら小さく息を吐く。
興味と誘惑に負けて出てしまった自身が悪いのは分かっている。けれど、こうも側にずっといられては落ち着かない。
怖いのかと問われると、少しといったぐらいだろうか。紅緑はミズキに対して酷い仕打ちはしてきてはいない。ただ、側にいて抱きつきてくるだけ。
彼はそれに飽きないのか、落ち着いた様子で見つめてきたり、首に顔を埋めたりする。そんな態度なのでちょっと怖いけれど、不思議といった感覚だ。
まだ日が浅いので何とも言えないけれど、今のところは過保護にされているということ以外は問題がなかった。
(でも、外が気になるんだよなぁ)
人間一人では危険であるのは分かっているのだが、やはりどういったものなのか気になる。外は人間の世界とあまり変わらないとは聞くが、いろんな妖かしが出歩いていると想像するとちょっと見てみたい。
町とかあるのだろうか。そういえば、子鬼は赤鬼の村があると言ってたなと思い出してあっと小さく呟く。
そうだ、鬼の長に人間の嫁がいるのだ。まだ婚儀をしていないとは言っていたが、自分と同じ人の娘だ。どんな理由だろうかと興味がある。
「紅緑様」
「なんだい?」
「この前ですね、子鬼ちゃんたちから聞いたのですが、長様が人間の娘を嫁にしていると」
「あぁ、
紅緑は顔を上げてミズキの頬を撫でる。「知り合いですか」と問うと、「そうなるね」と返された。
この屋敷、竹林を抜けて少し行った先に赤鬼の村がある。近くに住まう者同士として協力関係は築いているので、「知り合いといえば、そうなる」と紅緑は話す。
赤鬼の村の長である凰牙は三月ほど前に人間の娘を花嫁として連れてきた。村はちょっとした騒ぎになったらしい。
「まだ婚儀をしていないので妻ではないですが。まぁ、妻と言っていいでしょう。かなり溺愛しているねぇ」
あの男に会うたびに自慢話と惚気を聞かされるからと紅緑は聞き飽きたといったふうに眉を下げる。
何度か会ったことはあるがえらく落ち着いた娘だったと鬼の妻の印象を紅緑は教えてくれた。人間というのは大抵は帰りたがったり、恐怖で泣いたりするのだけれどと感心したのだと。
「ミズキも騒ぐことはないしねぇ。まぁ、外に出ようとすることはあるが」
「ま、まぁ、帰る場所ないですし……。別に酷いことされているわけでもないので」
「酷いこと……例えばどんなことだい?」
「えっと、暴力とか?」
ミズキの返事に紅緑は眉を寄せて、「何故そんなことをしなくてはいけなんだい」と疑問を口にする。
「こんなに愛らしいというのに暴力を振るだなんて。傷がついたら大変じゃないか」
「は、はぁ……」
「アナタを傷つけるようなことはしないよ」
安心しなさいとミズキの頭を優しく撫でる。そう言う紅緑の瞳は真っ直ぐで、嘘はついていないだろう、そう思わせるほどに眼差しが強かった。
「それで、凰牙の妻がどうしたのですか?」
「会ってみたいなぁと」
途端に鋭くなる紅緑の瞳に思わず身体を引かせてしまう。けれど、すぐにぐいっと肩を掴まれて引き寄せられた。
「どうしてか、教えてくれるかい?」
「その、同じ人間ですし、妖かしの妻ですからいろいろ聞きたいなぁと」
彼女は此処に来ても落ち着いていたと聞く。自分は興味ばかりが湧くというのに、鬼の妻は驚くこもなく冷静だというのだから気にならないわけがない。
どういう理由で鬼の妻になったのだろうか、不安はないのだろうかとそれらが気になってしまう。それに同じ人間だ、話をしたかった。人間が一人で周囲は妖かしだらけというのはやはり少しばかり不安だったから。
そう訳を話すと紅緑は表情を渋くする。ミズキを外には出したくないようだったけれど、理解はできたようで悩ましげに眉を下げている。
あと一押しでいけそうな気がする、ミズキは紅緑の方へと身体を向けて手を合わせた。
「お願いします、紅緑様」
上目遣いでじっと彼の瞳を見つめて頼むとそれが押しとなったのか、はぁと額に手を当てながら紅緑は頷いた。
*
紅緑と共に竹林の細い石段を下りていく。彼の手をしっかりと握りしめながら、ミズキはワクワクしていた。初めて竹林の外を見ることができるからだ。
竹林を抜けるとそこは木々に覆われていた。山というよりは林といったところだろうか、長い道が真っ直ぐと続いている。ちゅんちゅんと小鳥の囀りが耳を掠めた。
長い道をさらに下っていくこと少しばかり、目の前に田園風景が現れた。一面田んぼで青々とした稲は風が吹くたびに靡いている。
田んぼの畦道を歩いていると村の門前が見えてきて、そこを潜ると藁葺き屋根の家が幾つも建ち並ぶ。周囲を見遣れば、赤髪に角を生やした鬼たちが作業をしたり、洗濯をしたり、或いは立ち話をしたりしている。
子鬼がわーっと騒ぎながら駆けていく。人間の村とさほど変わらない風景にミズキは少し驚いた、妖かしも普通に暮らしているのだなと。
そんな村の中央には広場があって、その奥に大きな屋敷が一つ建っていた。瓦屋根に白壁の屋敷には豪奢な門があり、その側に体格の良い大柄な鬼が二人立っている。門番だろうその鬼は紅緑の姿を見るや否や慌てて屋敷へと走っていった。
紅緑は気にすることもなく門をくぐっていくと、玄関から飛び出してきた門番の鬼の一人がどうぞと頭を深く下げる。
玄関は広くて大きな木彫りの虎と水墨画が飾られていた。そこへ足を踏み入れると小間使い達が慌てた様子で膝をつき、ようこそと出迎える。
「長様は奥座敷におりますので、ご案内を……」
「あぁ、場所はわかりますから」
案内をしようとする小間使いの鬼の女の申し出を断ると、紅緑はミズキの手を引きながらさっさと歩いて行ってしまう。困惑する小間使いたちなど気にも留めず、勝手知ったるといった様子で屋敷を歩いていく。
奥座敷の襖を開けると一人の男がいた。体格が大きく筋肉隆々の身体に、燃えるような赤く短い髪を跳ねさせた、厳つい顔立ちの男はあぐらをかきながら昼間から酒を飲んでいる。
男が紅緑に気づくとなんだ珍しいと笑う。
「お前がなんの連絡も無しに訪ねてくるとは珍しい」
「そうでもないでしょう、凰牙」
「そうか? ……うん? そいつはなんだ」
ミズキの存在に気づいた男が指をさす。それに驚きミズキが紅緑の背に隠れれば、彼は「妻ですよ」と彼が紹介した。
「ワタシの妻のミズキです」
「……はぁ! お前、本気か!」
「嘘をつく理由もないだろう」
紅緑の反応に凰牙は「なんだとうとう見つけたのか」と大笑した。ガハハと響く声は大きく、思わず耳を塞ぐ。
「人間は良いだろう。なんだ、紹介しにきたのか」
「ミズキがアナタの妻に会いたいというから来ただけだよ」
紅緑が即座に否定すれば、「お前は俺が気づくまで隠すつもりだったな」と凰牙は突っ込んだ。けれど、紅緑は返事を返さない。それが肯定であるのは知っているので、お前はなぁと呆れたふうに凰牙は溜息を吐いた。
「で? 俺の妻に会いたいと」
「はい、その……同じ人間ですので……」
紅緑の背から顔を覗かせながらミズキは答える。凰牙は人間の考えることはよくわからないがと首を傾げながらも、丁度お茶を持ってきた小間使いに「妻を呼んでこい」と命令した。
「まぁ、杏子も同じ人間と話すとなれば喜んでくれるだろうな」
「杏子さんっていうんですね」
「おうそうだ。可愛らしい名前だろう」
にこにこと笑みを見せながら凰牙は言う、俺の妻は美人だぞと。良い女だと自慢が始まったので、紅緑ははいはいと適当に相槌をした。
「うちを呼んだの、凰牙」
そっと襖が開けられる。栗毛のおかっぱ髪がよく似合う綺麗な顔立ちの娘が室内に入ってきた。えんじ色の上品な着物は彼女の雰囲気にぴったりで、ミズキとさほど年齢は変わらないように見える。
焦茶色のくりッとした瞳が凰牙からミズキへと移されて丸くなる。ほーっと小さく声を溢すと彼女はじっと観察してきた。
これはこれはとミズキに近寄りあちこち見られる。そんな視線に耐えきれず、あのと声をかけると彼女は「ごめんなさいね」と謝った。
「人間に会うの久方ぶりなのよ」
ここ三月ほど人間らしい人間に会ったことはなかったと言われて、それならばその反応も仕方ないとミズキは納得する。
「大丈夫ですよ、気にしてません」
「それはよかったわぁ。あ、うちは杏子っていうの。よろしくね?」
「ミズキです」
「あら、可愛らしい名だわぁ」
杏子は人間と話せるのが嬉しいのか笑みを見せている。その様子に話はできそうだなとミズキは安心した。
ふと、杏子が考える素振りをみせるとミズキの手を取った。
「せっかくやし、二人で話そか。良いわよね、凰牙」
「構わねぇぞ」
「勝手に決めないでほしいのですが……」
「良いじゃねぇか、紅緑。別に逃げるわけでもねぇんだし」
止めようとする紅緑を凰牙が制する。その隙に杏子はミズキの手を引いて部屋を出ていってしまった。