ゆっくりと瞼を上げれば、真っ先に目に入ったのは淡い光だった。行燈が均等に置かれた長い廊下が真っ直ぐに伸びている。周囲を見渡してみると、外は真夜中のようで月が雲に隠れてぼんやりと輝いていた。
広い屋敷だろうか、町で見た大きな家によく似ている。中庭には椿の花が咲いており、小さくはない池があった。赤白黒の鯉が眠るようにじっとしている。
此処が隠し神の住処だろうか。抱き抱えられながらそんなことを思っていれば、男がぴたりと立ち止まった。男は慣れたように部屋の襖を開けて入る。
薄暗かった室内だが、ぱちりと男が指を鳴らすと行燈に光が灯った。薄明かりに照らされて室内の様子がわかるようになる。そこには布団が敷かれているだけでそれ以外には特に無く、まだ畳が新しいようでい草の香りがほんのりとする。
男はミズキを布団の上に下ろした。不安げに「何処ですか」とミズキが問えば、「妖かしの世界」だよと彼は教えてくれた。
「此処は人間の世とは違う妖かしが住まう妖かしだけの国。おまえの故郷とは違う遠い遠い世界」
男はそう言ってミズキの頬に触れた。此処が自分の生きた世界とは違うのだとミズキは理解する、助けを求めることはできないのだと。ミズキは不安げに男を見上げた。
彼はそんなミズキを眺めながら愉快そうに笑むと肩を掴んだ。
(喰われるっ!)
ミズキは思わずぎゅっと目を瞑った。そっと男の手が喉元を触れ、胸へといく。肉付きを確認していくように触られる感覚にミズキはそっと瞼を開く。男はふむと何やら観察している様子だった。
「おまえの名は?」
「……ミズキ、です」
「ミズキ……。いくつだい?」
「二十歳になります」
ミズキは素直に答えた。嘘をついても見破られてしまう気がしたのだ。
「ワタシは
紅緑と名乗った男はにっと笑みをみせる。まだ身体を触ってくるので、自分は食い殺されるのだろうかとミズキは震えた。
「あの、人を食べるのですか?」
恐る恐る聞いてみると紅緑は「食べないねぇ」と答えた。
おまえのように人間が願いを叶えてもらおうとする奴はいた。対価として幼子を差し出され、何度か受け取ったことはあるけれど、殆どの人間というのは逃げてしまうらしい。
捕まえるのは簡単だけれど、興味の薄い子はそのまま放置していた。逃げ出した子は総じて外で出会った妖かしに喰われるか、殺されるか、捕まって奴隷にされるかのどちらかだ。
「人間は生臭いからワタシは食べないよ。まぁ、他の妖かしは食べるやつもいるけれど。所有印が無ければそうなる運命だよ。でも、おまえは運が良い」
「と、言いますと?」
「ワタシの妻になるのだから食べられることはまず無いよ」
紅緑の言葉にミズキは目を見開いた、彼はなんと言っただろうかと。聞き間違いでなければ、「妻になるのだから」と言ったはずだ。
「妻にしてくださるのですか!」
思わず声を上げてしまった、それほどに驚いたのだ。何せ、妻になどされずに喰い殺されてしまうと思っていたから。そうではなくて、本当に妻になるのだと知って驚かずにはいられない。
そんなミズキの様子に紅緑は不思議そうにしていた。妻にしてほしいと言ったのはお前だろうと見つめてくる。
「驚くことかい?」
「いや、だって……触ってくるので食べるために肉付きを確認されているのかと……」
「あぁ、違うよ。肉付きの確認はしていたが、それはお前の健康状態を知りたかっただけさ」
ちゃんと育って生きてきたのか、身体の何処かが悪くなっていないか、怪我をしていないか。それを確認するために触っていたのだと紅緑は話した。
「傷があったら治さないといけないだろう。ワタシの妻になるのだから」
「えっと、その……何故、妻にしていただけるか聞いてもいいでしょうか?」
「対価として差し出された人の娘が、ワタシの妻になりたいと言ったのは初めてだったからかねぇ」
妻になりたいと言った人間は一人としていない。皆が皆、死にたくない殺さないで、帰りたい助けてと騒ぎ、泣いた。誰も彼も命乞いだけをした。
けれど、おまえは妻にしてほしいと言った。「そんなことを言われるなど思ってもいなかったから、えらく驚いたよ」と紅緑は笑う。
「ワタシ好みの娘だからどうしようかと考えていたのだけれど。妻にするならば丁度いい。だから、おまえを連れてきたのだよ」
驚きながらも「食べませんか」と問えば、「食べないよ」と返された。にこにこと笑みをみせる彼にミズキは考える。確かに妻にしてくれと言ったのは自分自身だ。今更、引くことはできない。
「村は……」
「あぁ、どうにかしてやるさ」
紅緑の「おまえが妻になるのならね」というその言葉でミズキは覚悟を決めた。
「つ、妻になります」
「おまえを捨てた村のためにかい?」
「まぁ、その、そうするしかないかなと」
「おまえは本当に不思議な子だねえ」
ミズキの返事にくすりと紅緑は小さく笑うと、そっと唇を重ねてきた。それが口づけだと気づいてミズキは顔を赤くさせる。それが可笑しかったのか、紅緑はまた笑った。
これが交渉成立の瞬間だった。