裕福ではないにしろ、それなりに栄えた村があった。農作物は良く育ち、山ではイノシシや野兎が獲れて食料には困ることはなかったけれど、この年は違っていた。
日照りが続いて作物が育つことなく、木の実の育ちも悪くなり動物の数が減った。作物も獲物も無ければ飢えてしまう。これでは生きていけないと村人たちは困り果ててしまった。
村人たちは集まりどうしたものかと相談をしていれば、一つ思い出したように村長は言う。隣の山に隠し神が現れると。
隠し神とは言い伝えでは黒く艶のある地面につくほどの長い髪を一つに結い、両腕は液体のようにしたり自由自在に変えることができる。血で染まったような赤黒い神職のような衣服をきた男らしい。
隠し神は幼子を好み、差し出せば一つ願いを叶えてくれると言われている。言い伝えではあるものの、そんな話に縋るほどに困窮していたので村長は村人から花嫁を選ぶ決断をした。花嫁として送り出せば、この地は安泰だろうと。
そうして、村人から一人の娘が花嫁に選ばれた。
***
ミズキは綿帽子から見える肩よりも長い黒髪を揺らしながら山道を歩いていた。綺麗な白無垢を身に纏いながらゆっくりと。側には黒服を着た村人が前後を挟んでいる。
この先の村の繁栄を願うためにミズキは隠し神の花嫁として選ばれた。けれど、好みであるとされる幼子ではない。
最初は十二歳の娘が選ばれたのだが、その両親が縋り付いたのだ。どうか、どうかウチの娘はやめてくれと。娘の母親が言ったのだ、あの娘がいるじゃないかと。
ミズキは昨年、両親を病で亡くしている。年齢は二十歳で恋人もおらず、行き遅れと陰口を叩かれていた。「年齢が」と村長が言うも、「童顔の彼女なら騙せる」と返される。確かにミズキは年齢よりも若く見えるが、隠し神を騙せるとは到底思えなかった。
それでも引かない夫婦に村長が折れる形でミズキは花嫁に出されることになった。誰もがそのほうが後腐れがないだろうと思ったのだ。
ミズキは諦めていた。二十歳にもなるというのに未だに嫁にはいけず、両親も病で亡くしてしまった。農作だって一人では限度があり、村から捨てられるのは目に見えている。だから、別にどうでもよかった。
花嫁がどうなるのか知らないけれどミズキは死ぬのだろうなと思った。自分が花嫁となって村の子供が救われるのならば、この命をかけてもいいかなとそんなふうに考えて。
鬱蒼と生い茂る草の隙間を風が吹き抜け木々が鳴り、小鳥の囀りが辺りを満たす。時折、がさりと獣が走り抜ける音がした。それを片耳にぼんやりと景色を眺めながら歩いていれば、目の前を歩く村人が立ち止まった。
古びた社が一つ建っていて、ぼろぼろに朽ちた建物は今にも崩れそうだ。周囲は草がぼうぼうと生えており、何年も人が入っていないことが見て取れた。
村人がミズキの背を押したので、此処で待てということだろうと察して一歩、前に出た。
ミズキは社の前に立つと、しゃんしゃんと大鈴を鳴らして村人たちは逃げるように去っていく。よほど、隠し神が恐ろしいのだろう。幼子ではない娘を差し出すことへの罪悪感と恐怖があるのかもしれない。
一人残されたミズキは緊張と恐怖で落ち着かなかった。いくら死ぬ覚悟があるとはいえど、やはり怖いものは怖い。
いつ現れるか、今か今かと待つ。すると、リーンリーンと鈴が鳴った。村人が持っていた大鈴とは違った音色にミズキは振り返って——黒髪の男が立っていた。
赤黒く染まった神職のような服を見に纏った男が一人佇んでいる。彼の艶のある黒髪は長く地面につくほどであった。
赤い瞳と目が合った瞬間、にっと微笑まれた。ぞっと全身を悪寒が襲い、身体が危険だと知らせる。そこで思い出す、言い伝えられている隠し神の姿を。
只者ではない、この男は。逃げたい気持ちが湧くも、そんなことをすれば村が大変なことになる。恐怖に堪えながら男を見つめていると左腕を黒い液体のような触手に変えた。
にゅるにゅると無数の触手がミズキの身体に巻きつき、ばさりと綿帽子が落ちる。
「逃げぬとはよくできた子だねぇ」
低く耳触りの良い声がした。男が笑みを浮かべながら歩いてやってくる。ミズキは震える身体を抱えながら「あの」と声をかけた。
「貴方様が隠し神様でしょうか?」
「うん? あぁ、人間にはよくそう言われるねぇ。それでおまえはどうしたんだい?」
「あの、村をどうか……」
ミズキは村長に言われた通りのことを伝えた。村の繁栄とまでは言わずとも、どうか豊作をお願いできないだろうかと。それを聞いた隠し神は理解したらしく、ふむと頷いてミズキを上から下へと舐めるように観察し始める。
「さらりとした黒髪、空よりも青く澄んだ瞳、白雪のような肌に愛らしい顔か……あぁ、なんと好みだろうか」
ミズキの髪に触れながら男が呟く。その獲物を捕らえた獣のような瞳から目が離せない。離してしまったら、殺されてしまう気がした。
けれど、そうけれどと男は残念そうに眉を下げた。
「おまえは幼子ではないねぇ……」
低い、低い声。怒りを含んだようなその声音にミズキの身体は震え上がった。あぁ、やはり幼子でなければならないのかと。
どうなるか、どうなるのか。怒りで殺されてしまうだろうか、自分だけならまだいいが村はどうなる。
どっと汗が吹き出た。何とかしなければ、このままではいけない。ミズキは震える手に力を入れて勇気を振り絞り、男の人の形をしている右手を掴んだ。
「どうか、どうか私を妻にしてください……。私で、私しかいないのです……村を救ってください……」
泣きそうになりながらもミズキは男の瞳を見つめて言う。涙を溜めた眼がきらりと輝いていた。
男の表情が驚いたように変わる。二、三度ゆっくり瞬きをして掴むミズキの手を握り返しながら、彼女の頬に触れればぼろりと涙が溢れた。
男の目がゆっくりと細まっていく、溢れる涙を拭いながら彼はそれを眺めるように。
「……そうだねぇ……おまえはワタシ好みだ。妻か、そうか……なら、連れ帰ろうか……」
うんと笑みを見せ、触手にしていた左腕を元に戻すとミズキを横抱きに抱えた。にこにこと愉快げに男は歩き出す様子から先ほどの怒りは感じない。
ふと見遣れば社にぽっかりと暗い暗い穴が空く。宙に浮く穴は誘うようにその暗闇を向けている。
男はその中へと入っていって、ミズキは怖くて思わず目を閉じてしまった。