パトリツィアは、結婚から2年してやっと愛する夫ルイトポルトと身も心も結ばれた。なのにここで2人の道は分かれる――いや、分かれなければならない。父の宰相ベネディクトが断罪されたら、パトリツィアは罪人の娘となり、王太子妃に相応しくなくなる。それは覚悟の上の別れだが、パトリツィアの胸は悲しみで張り裂けそうだ。
パトリツィアは、名残惜しくルイトポルトの寝顔を見つめ、額に触れるか触れないかぐらいのキスを贈った。その時、ルイトポルトの顔にパトリツィアの涙が落ち、ルイトポルトが起きてしまうかとパトリツィアは気を揉んだが、疲れ切っていたルイトポルトは目覚めなかった。
パトリツィアはそっと寝台から出て内扉から王太子妃の寝室へ、そこから自分の居室に戻った。そこにはラファエルと彼の護衛騎士ゲオルグとその母で侍女ナディーンがパトリツィアを待っていた。ラファエルはパトリツィアを見た途端に飛びついた。
「お姉様!」
「ラファエル!」
少しの間、パトリツィアはラファエルを抱きしめていたが、残念ながら再会をゆっくりと味わう時間はなかった。
ラファエルから離れると、パトリツィアは机の引き出しからはさみを取り出し、黄金色の見事な長髪をうなじすれすれにバッサリと切り落として布袋に入れた。切った髪をそのまま床に落としておいたらすぐに逃走がばれてしまうかもしれないからだ。それに美しい金髪は、逃亡中に路銀が足りなくなったら売れるかもしれない。ゲオルグとナディーンは、パトリツィアの断髪の意思をあらかじめ知っていて驚かなかったが、ラファエルは仰天した。
「お姉様?! どうして?」
驚く弟の目線まで屈んでパトリツィアは言い聞かせた。ナディーン達は逃亡することを既にラファエルに伝えていたが、姉としても直接伝えたかったし、変装の意義も言い聞かせたかった。
「ラファエル、よく聞いて。私達はこれからこの国を出て別の人間として生きていきます。お父様が悪い事をしたから、私達はこの国にはもういられないの。国境を超える前に見つからないようにしないといけないから、私は男の子、貴方は女の子に変装するのよ。そうね、ここを出たら貴方の名前はクラウディア、ディアって呼ぶわね。私の名前はヴァルター、ゲオルグはグスタフ、ナディーンはキアラよ。忘れないでね」
「えー、僕、女の子じゃないよ」
「いい、ラファエル? 捕まったら殺されるのよ」
「えっ?! 嘘でしょ?! そんなの嫌だ!」
ラファエルはショックを受けて狼狽えて泣き出しそうになった。パトリツィアはラファエルに厳しい逃亡生活への危機感を持ってもらいたかったが、脅し過ぎたようだった。パトリツィアは、ラファエルを抱きしめて背中を撫でた。
「大丈夫。ゲオルグとナディーンがいるのよ、私達は捕まらないわ。追手は、男の子を連れた大人の女性2人と男性1人のグループを捜すでしょう。だからその為に変装して誤魔化すのよ。分かってくれた?」
「……うん……」
「じゃあ、これに着替えてね――ゲオルグ、ラファエルの着替えを手伝ってあげて。私は隣の寝室で着替えるわ」
ラファエルの髪は、パトリツィアの言いつけで彼女の結婚以来伸ばしており、肩に少しかかるぐらいの長さにしていた。彼はゲオルグの手にある木綿のブラウスと膝下丈のスカートを見て心底嫌そうにしたが、渋々シャツのボタンを外して今着ている服を脱ぎ始めた。それを見てパトリツィアはナディーンと隣の寝室へ入った。
「ナディーン、ゲオルグの古着と布は持ってきてくれたわよね?」
「いえ、お嬢様の体形に合わせて新しい服を買ってきました」
「あら、古着でよかったのに。それから今日からは私達は平民の家族よ。お嬢様も坊ちゃまも止めてね」
「かしこまりました」
「その話し方ももうちょっとくだけないとね」
ナディーンがゲオルグの母という設定は事実と同じだが、ゲオルグとパトリツィアは歳の離れた兄弟、ラファエルはゲオルグの娘の振りをする。ゲオルグとパトリツィア、ラファエルで3きょうだいとするには、ゲオルグとラファエルの年齢差が20歳差で兄妹を偽装するのは難しいのでその案を採用したのだ。
寝室でナディーンは、下着姿になったパトリツィアの豊満な胸に布を巻きつけてぎゅうぎゅうに押さえつけた。それでも胸の辺りだけ不自然に太く見えてしまうのは否めず、腹にも布を巻いて小太りの少年を装う。だが、あまりに苦しくてこれで厳しい逃亡の旅を耐えられるのか、パトリツィアは自信がなくなってきた。
「ううっ! く、苦しい!」
「申し訳ありません。でもお胸が豊かでいらっしゃるから……では胸の布は少し緩めてお腹にもう少し布を巻きましょう」
パトリツィアは何とか我慢できる加減で上半身に布を巻いてもらった後、ナディーンの助けを得て質素な木綿のシャツとトラウザーズを着た。布で太くなった胴体に身頃はちょうどよかったが、袖とトラウザーズの裾は長過ぎた。トラウザーズの幅も臀部はちょうどいいのに、脚の部分はぶかぶかで、全体的に何とも不格好である。だが、贅沢を言ってはおられず、裾をまくり上げてよしとした。
パトリツィアがナディーンと居間に戻ると、ラファエルも着替え終わっていた。ラファエルもパトリツィアも質素な服装をしていてもそこはかとなく高貴な雰囲気が駄々洩れだ。ふわふわの輝く金髪と澄んだ青い目、白磁器のように艶やかな肌はあまりに美しく、人目につきそうであった。ナディーンは用意してあった灰を2人の髪の毛に付けて髪の色をくすませ、ラファエルの頭にはスカーフを、パトリツィアの頭には古びたハンチング帽を被せた。
「灰をつけてもおふたりのお
ゲオルグとナディーンは、この国や近隣諸国の大多数の人々と同様、焦げ茶色の髪の毛と榛色の瞳を持っていて目立たない。この辺りでは金髪も少なくはないが、南に逃亡するとしたら、金髪のままでは目立つだろう。
変装はとりあえずこれでよいとして後は持って行く荷物だが、あまり沢山持って行けるはずはない。1人1着ずつの着替えと水、干し肉や乾パンなど日持ちのする食料、それに逃走資金をゲオルグとナディーンが2つに分けて持って行く事にした。頭陀袋に
「道中の軍資金用に宝飾品も持って行かれますか?」
「いえ、それは王室の財産から買った物か、お父様が不正をして稼いだお金で買った物です。全部置いていきます。それにこれだけの品質の物を売り払ったら、そこから私達の行き先が露見するでしょう。でもいただいた歳費を節約して貯めたお金は……背に腹は代えられないわね。申し訳ないけど、持って行くわ。どこまでもつか分からないけれど……」
「万一足りなくなれば、私達は腕がたちますので、旅商人の護衛で稼げるでしょう」
「そんな訳にいかないわ」
「いいえ、ご心配なさらないで下さい。どうせ自分達だけでもどうにかして稼いで生きていくしかない身です」
「私って情けないわね……兄様の元から逃げる事しか考えていなかったわ」
「気になさらないで下さい。おふたりがまずはこの国から出られるのが一番重要なのです。後は私達にお任せ下さい」
「ナディーン、ゲオルグ……ごめんなさい、迷惑かけるわね」
「とんでもありません。私達はいつもおふたりの側にいたいのです」
「ありがとう」
パトリツィアは涙が溢れそうな目を拭って王太子妃の寝室へ続く内扉を開けた。
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第4章は、パトリツィアがルイトポルトに純潔を捧げた(第2章第47話)直後から始まります。
第47話「最後の閨」
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