王宮の地下牢には、元宰相派の貴族が捕らえられており、前王弟ヨアヒムはその中でも最も奥まった独房に監禁されていた。
1日2回、牢番が巡回ついでに食事や身体を拭く布と水を運んできたり、排泄物を入れるチャンバーポットを交換したりする他は、誰も訪れる事もなく、言葉を交わす事も滅多にない。日記を書こうにも筆記用具がないし、気を紛らわせる本もなく、差し入れしてくれる人もいない――もっとも、いたとしてもヨアヒムに対する差し入れが許されるのかは疑問ではあるが――
退屈であればあるほど、ヨアヒムは愛するカロリーナと実娘ガブリエレの事を考えてしまい、彼女達が心配で仕方ない。牢番達にも彼女達の消息をそれとなく聞いてみたが、答えてくれるはずもなかった。
それに加え、初めて体験する劣悪な環境はますますヨアヒムの気分を鬱々とさせ、気が狂いそうになっていった。彼は妾腹の王子として虐げられ、王族としては恵まれない生活を送っていたが、それでも部屋の中で排泄を強いられて1週間も身体を拭く事すらできないなど、もちろん経験した事すらない。
ヨアヒムは、最初はチャンバーポットの中に排泄するのに抵抗があったが、牢に入れられて3日目に我慢し過ぎて腹がパンパンになって腹痛で七転八倒し、結局粗相してしまった。なのに替えの下着とズボンは2日後にようやくもらえた有様で、それまで下半身スッポンポンの情けない姿で過ごすしかなかった。それで下着の中に漏らすよりはマシと開き直って以来、チャンバーポットの中に排泄している。
ただ、チャンバーポットには蓋があってもぴっちりと閉じられる訳ではなく、匂いは防げない。自ら出したものだとはいえ、悪臭のする中、食事をしなければならず、最初は食欲がわくどころか、吐き気さえ催した。食事の前にチャンバーポットを交換して欲しいと牢番に頼んだ事もあったが、これから他の囚人達の食事を配らなければならないなどと言って大抵体よく断られ、頼んだ後はかえって交換間隔が長引き、1週間近く経ってようやくチャンバーポットを交換してもらえる有様だった。何回かそういう経験をして、牢番達はどうやらわざと意地悪をしているようだとヨアヒムも悟って無駄な頼みをするのは止めた。
ヨアヒムが地下牢に入って3ヶ月以上経ったある日、牢番の巡回時間でもないのに、カツン、カツンと近づく靴音が聞こえた。それは牢番の靴音とは明らかに違うものだった。その靴音はヨアヒムの独房前で止まった。
独房は壁と鉄扉で廊下と隔たれており、独房前に立つ者の姿はヨアヒムには見えない。食事は鉄扉に設けられている、やはり鉄製の窓を開錠して差し入れられる。
「殿下」
「僕はもう殿下と呼ばれる立場じゃないよ」
ヨアヒムを呼んだのは明らかに男性だったが、今まで聞いたどの牢番の声とも違い、友人知人の声でもなかった。
「それでも先王陛下の弟君であらせられる事は事実です」
「それはそうだけど……それで何の用? 誰が君を差し向けたの?」
「私の意思です。殿下はこのままでは明日、男性機能を失います。その前に愛する女性の元へ行かれませんか?」
「彼女達は無事なのか?」
ヨアヒムは、去勢手術への恐怖や手術の日程を知っている男の正体への疑念よりも、カロリーネとガブリエレの消息を目の前の男が知っているらしい事実に喰らいついた。
「ええ、ご無事です。この地下牢に収容されていますが、明日、北の女子修道院へ送られます」
「北の女子修道院! 戒律も気候も厳しい最悪な修道院じゃないか!」
「ご心配ですよね?」
「そりゃそうだよ!」
ヨアヒムが肯定すると、本来なら牢番しか開けられない鉄扉の窓が開いて鍵が2つ差し入れられた。
「この鍵はこの独房のもので、もう一方は地下牢の入口の鍵です。牢番が殿下の独房にいつ頃やってくるか、ご存知でしょう?」
「ああ、もうしばらくして日が傾いたら夕食を持ってくるはずだ……でもいったいどうやって鍵を手に入れたんだ?」
「私には色々伝手があるのです」
男が言外にこれ以上の追求を許さないのを感じ取り、ヨアヒムはそれ以上聞くのを止めた。
「明日早朝、お2人は地下牢から出されて使用人の使う王宮裏口から馬車に乗せられます。その時に御者と入れ替わるといいでしょう」
もう1度窓が開き、牢番のお仕着せと平民の着る簡素な服、フード付きマントが差し入れられた。
「ああ、わかった……旅費と剣も工面してくれないか?」
「実はここに忍び込むので精一杯で今は手持ちがないのです。明日、御者と入れ替わる時に御者からお渡ししましょう」
男は旅費や剣を渡すほど親切にしてやるつもりは毛頭なかったが、ヨアヒムを宥めすかせるために適当な事を言った。
男が去ってしばらくし、天井近くの窓から差し込む日光が弱まった頃、牢番がいつもの通り、乱暴に鉄扉の窓を開け、カチカチに硬くなったパン、水みたいに薄いスープとコップ1杯の水を無言で差し入れた。ヨアヒムは何も気取られないように食事を受け取り、その代わりに朝食の食器を返却した。
本来、牢番は食事を差し入れる際に囚人の様子を目視しないといけないのだが、ほとんどの牢番は食事を窓の内側の棚に置いて牢の中を見もせずに窓を閉めてすぐに立ち去る。通常、食事を受け取った時に前回の食事の食器を返却する事になっているが、ちょっとぐずぐずしていると牢番は食器を受け取りもせずにさっさと行ってしまう。だから明日の朝食の時に食器を返却しなくてもすぐには脱獄がばれないだろうというのがヨアヒムの読みだった。
パサついて味気ない夕食の後、ヨアヒムは藁の上に薄汚れたシーツを敷いただけの寝台に横になった。最初はシーツの下の藁がチクチクして眠れなかったものだが、ここ最近は粗末な寝台にも慣れて眠れるようになった。だが、今夜は脱獄とカロリーネ母娘救出の事が頭から離れず、目を瞑っても眠れない。だが、いつの間にかウトウトしていたようだった。