ベネディクトが執務室から退出してアントンが戻って来た後、ルイトポルトとアントンの間には重苦しい雰囲気が支配していた。
「また妃殿下との閨の件ですね?」
「ああ。ペトラが私の愛人だという噂を聞いて、どうしてパトリツィアを抱かないのかと詰め寄られた。このままだとパトリツィアを自殺に見せかけて殺すと仄めかされた。そうなったら、息のかかった後添えを手配すると脅されたよ」
「それでも妃殿下を本当に抱くのは駄目です。完全な避妊はありません。何より殿下が宰相断罪後に辛くなるだけです」
「分かってる! いちいち言うな!」
パトリツィアの身を案じてルイトポルトは気が気でなくイライラをアントンにぶつけてしまった。
「噂は恐らくパトリツィアの耳にも既に入っているだろう。あれは悪手だった。あんな事をしなくてもどうにかできただろう?」
「耐性をつける訓練をするなら、自らの配下の者とするのが一番安全なのです」
「だと言っても、パトリツィアを悲しませてまでする事じゃない!」
「殿下、貴方は妃殿下の事をそれほどまで……でも宰相断罪後、殿下は妃殿下と縁を切らなくてはならないのはご存知でしょう? 世情次第では処刑もありうる事も覚悟してなければならないんですよ」
「処刑なんてさせない!」
「殿下の妃殿下への執着は危険です。どうせ幽閉後に病死したことにしたりしてどこかへ逃がすおつもりなのでしょう? そんなことが明るみに出れば、宰相派の腐敗ぶりに憤っている貴族や国民が殿下への信頼をなくすでしょう」
それはルイトポルトも分かっていたが、パトリツィアを見捨てる決心がどうしてもつかず、無言を貫いた。
「ここまで来て彼女1人のために大勢の民をこのまま困窮させ続けて国を衰退させるのですか?」
「わかっている。だが……」
アントンはルイトポルトに最後まで反論させず、言葉を被せた。
「理解していただけて嬉しいです。とにかく今は機が熟するまでは例の香を使って妃殿下を抱いている振りをして下さい」
「クソ!」
ルイトポルトは、貴公子らしからぬ下品な罵り言葉を口にして机を拳で叩いた。
「悪いが、今はお前の顔を見ていたくない。出て行ってくれ」
「かしこまりました。くれぐれも個人の感情で大局を見失わないようにお願いいたします」
アントンが出て行った後、ルイトポルトは再び罵りながら閉まった扉にインク壺を投げつけた。扉にぶつかったインク壺は割れてしまい、扉から床に黒いインクが垂れて広がっていった――その不吉な様は、まるでルイトポルトの苦悩と不安のようだった。
一方、ルイトポルトの愛人の噂は、パトリツィアの心を痛めつけていた。
政敵である宰相の娘の自分を抱く訳にいかずに愛人を抱いているのか。あの純情で誠実なルイトポルトがそう簡単に他の女性に手を出すとは思えないが、宰相を振り回すためにわざとしたのかもしれない――パトリツィアは、ルイトポルトを信じたい気持ちもあったが、父と夫の関係を考えると、あり得るのかもしれないと思い、他の女性を腕に抱くルイトポルトの姿を脳裏に浮かべて胸が張り裂けそうになった。
こんな事を続ければ清廉潔白なルイトポルトのイメージが傷つくだけだ。パトリツィアが身を引き、宰相の息がかかっていない、きちんとした身分のある妃を娶ってもらうべきなのだろう。パトリツィアはなるべく長く愛するルイトポルトの妻でいたかったが、それでは彼の政治的な苦境がより長く続く事を意味する。パトリツィアは相反する気持ちで心が千々乱れた。しかし今からその時の準備をしようと覚悟した。
数日後、パトリツィアは父が視察で王都を離れる隙に実家を訪れた。弟のラファエルはパトリツィアに抱き着いて離れない。
「ラファエル、ちょっと離れて。歩けないわ」
「嫌だ! 離れたら、お姉様は帰っちゃうんでしょう?」
「まだ帰らないわよ。帰る時もちゃんとラファエルに言うわ。それより今日こそゲオルグと剣技を見せてくれないの?」
「うん、お姉様に見て欲しい!――ゲオルグ、行こう!」
ラファエルは途端にご機嫌になってパトリツィアとゲオルグと手を繋いで中庭へ駆けて行く。その後をゲオルグの母ナディーンも続いた。
中庭でゲオルグとラファエルは木剣を手に取った。ラファエルはゲオルグの剣さばきを模倣して木剣を一心に振った。パトリツィアは2人の訓練の様子を見ながらナディーンに話しかけた。
「近いうちにルイ兄様から離れて身を引こうと思うの。ルイ兄様はきっとお父様の悪行を是正するでしょう。そうなったらお父様の娘の私が妃でいていいはずがないわ。逃げる時、ゲオルグと一緒に私を助けてくれる?」
「もちろんです。私達は力の限り、お嬢様をお助けします」
「ラファエルもその時に連れて行きたいの。ラファエルは幼くてもこの家の後継ぎだから、お父様が破滅する時には運命を共にさせられるでしょう。でも私はラファエルを守りたい。お母様の最期の思いに応えたいの」
「ええ、お嬢様とお坊ちゃまをずっとお守りします」
「でもね、貴女達にずっと頼りきりで守ってもらう訳にはいかないわ。私達は今の立場をなくしたら、貴女達に給金も払えない。だからせめて逃亡の手助けだけしてくれたら、後は好きに生きていってほしいの」
「いいえ、私達は死ぬまでお嬢様とお坊ちゃまについていきます」
「駄目よ」
パトリツィアは、話しながら剣技を見守るナディーンの横顔を見て彼女の手に自分の手を重ねた。
「お姉様! 僕の剣技、どうだった?」
パトリツィアがナディーンを説得しようとしたところに、剣技の訓練を終えたラファエルが駆けつけて来た。それでパトリツィアはそれ以上その話をできなくなってしまった。