アントンの父はアントンが結婚すれば引退して爵位を譲ると言っていたが、その約束は反故にされそうだった。
「私は父上の言う通り、結婚しましたよ。もうすぐ29歳にもなります。私の寄宿学校の同級生はほとんど爵位を継承しました。私もそろそろ……」
「それなんだがな、お前達に後継ぎが生まれるまでは俺は現役で頑張る事にしたよ。まだまだ宰相閣下のお役に立ちたいからな」
「約束が違うではありませんか!」
「お前の仕えるルイトポルト殿下もまだ即位されていないんだからいいじゃないか」
「殿下は私より10歳も年下です!」
家族としての情を持てない父を殺す事にアントンは躊躇しないが、腰巾着の父が急死してクーデター前に宰相に余計な疑いを持たれるのは困る。それにアントンは今でも父の直属の部下達をまだ掌握しきれていない。父親が現役にしがみつくのを容認するしかなかった。
これで改革後のマンダーシャイド伯爵家の行く末は決まってしまった。いくらアントンがルイトポルト側近だと言っても、当主が罪人となった家を取り潰さなければ、改革後の有力者達から不満が出るだろう。でもアントンは、マンダーシャイド伯爵家が取り潰されて自分が平民になる未来に絶望はしない。むしろ、こんな家はなくなる方がいいとまで思う。連座でアントンが追放されずにルイトポルトに仕え続けられさえすれば、いい。
ただ、王家の影を代々統括してきたマンダーシャイド家がなくなると、自分の子飼いの部下達をどうすればいいのか。ペトラや彼女の義兄ヨルクなど、直属の部下は王家の影に所属しておらず、アントン個人に忠誠を誓っている。だが平民になってしまったら、彼らに渡す給金を払えないだろう。それだけが心配だった。
アントンは、今さっきの父との会話を思い出してそんな思考にどっぷりとはまっており、執務室の扉が何度かノックされたのに中々気付かなかった。
「?!……入れ!」
アントンの入室許可を聞いて入って来たのは、妻リーゼロッテだった。
「ああ、ロッティ、君か。君がここに来るのは珍しいな。どうしたんだ?」
リーゼロッテは、夫が昼間在宅していても仕事の邪魔をしないように声をかけられない限り、ひっそりと過ごしていた。そんな彼女が執務室まで来るのは、一大決心だったに違いない。リーゼロッテは、明らかに緊張して顔がこわばっていた。
「……アントン様、私にも未来の伯爵夫人としての仕事を教えていただけないでしょうか?」
アントンはリーゼロッテの隣に移って彼女の頬をさらりと撫でて肩を抱き寄せた。
「ロッティ、また母上が何か言ったの?」
「い、いえ……違います……」
アントンの母アウグスタは、リーゼロッテの妾腹の出自とそれ故に淑女教育をろくに受けていない事が気に入らず、何かとチクチク文句を言う。今回も母が何かを言ったに違いないが、リーゼロッテはそれを頑として認めなかった。
「君はそんな心配しなくていいんだ。好きな事をして過ごして」
「でも……! このままではアントン様のお役に立てません!」
「ねぇ、ロッティ。誰かの役に立たなきゃいけないって強迫観念は捨てていいんだよ」
アントンはそう言ってリーゼロッテを抱きしめた。
「や、役立たずの私でも……アントン様の隣にいていいのですか?」
「君は役立たずなんかじゃないよ。僕の心の癒しだよ」
「アントン様……」
アントンは肩を震わせる妻の背中をゆっくり撫でた。
「ねぇ、ロッティ。君はダンス好き?」
「わ、分かりません……した事がないので……」
「じゃあ、ダンス教師をつけよう。僕もたまに顔を出すから、その時は一緒に練習しよう。夜会に夫婦で呼ばれる事もあるから、君のダンスが上達したら、僕は大助かりだよ」
「……本当ですか?」
「ああ、本当だ。だから憂いを払って笑顔になって。君には笑顔の方が似合う」
アントンはリーゼロッテの頬の涙の痕を指で拭い、唇を重ねた。
マンダーシャイド伯爵家の未来を見限り、クーデター後の離縁も予定している以上、アントンはリーゼロッテに次期当主夫人としての役割を全く求めていなかった。結婚当初は両親、特に母親のアウグスタがリーゼロッテに伯爵夫人としての心構えや仕事を教えたがったが、アントンは突っぱね、アウグスタは渋々引き下がった。それでもリーゼロッテにお茶会の主催を一緒にやらせるようになど、アウグスタから時々横やりが入ったが、断固拒否して両親とリーゼロッテがなるべく接触しないようにした。
リーゼロッテは、実家で妾の子として使用人のような扱いを受けて育ってきたので、普通の貴族令嬢が受ける淑女教育もダンスの訓練も受けたことがなかった。アントンは、リーゼロッテが元々望んだ領地経営の補佐などは一切学ばせなかったが、テーブルマナーやダンス、刺繍など、貴族令嬢の受ける一通りの習い事をさせた。