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第15話 アントンの気遣い

 見合いの席を設けたレストランのウェイターに割れたカップを片付けてもらい、アントンとリーゼロッテはもう1杯コーヒーを注文して飲んだ。


 その後、アントンはリーゼロッテと彼女の侍女を自家の馬車に乗せ、御者に耳打ちして自分も乗車した。2人の両親は既に帰宅しているので、アントンがリーゼロッテ達を屋敷まで届けるのだ。


 馬車の中でリーゼロッテの侍女はアントンの目の前にもかかわらず、なぜ彼女が手袋をしていないのか咎めた。


「お嬢様、手袋をされていませんね。マナーの先生もおっしゃっているはずだと思いますが、淑女は生の手を晒すものではございませんよ」

「ご、ごめんなさ……」

「ちょっと待って。それは私が粗相して彼女の手袋に飲み物をこぼしてしまったからだよ。彼女の責任ではないから、責めるのは止めて」

「え?! あっ、そうでございますか。申し訳ありません」

「分かってくれたらいいよ。ただ、他家の貴族の前で主人に物を言うのはどうかなと思うよ」

「も、申し訳ありません!」

「謝らなくていいよ、僕は君が仕える家の者じゃないからね。でも君がそういう態度を他の貴族の前でとると、主人が恥をかくという事を覚えておいたほうがいいよ」


 不躾な侍女は最初、ムッとした表情を隠しきれなかったが、リーゼロッテの父親に告げ口されると思ったのか、アントンが彼女を諭すにつれて青くなっていった。


 アントンは、使用人の分際でを咎めた侍女とそのような使用人の態度を許す彼女の両親の姿勢に腹立たしくなったが、アントンが他家の使用人を首にしたり、他人の両親をどうこうできたりする訳ではない。でも、彼女はそんな両親や使用人達と縁を切れる。そう思ってアントンは怒りを鎮めた。


 そうこうしているうちに馬車は、リーゼロッテの家のタウンハウスがある方向ではなく、貴族向けの店が立ち並ぶ地区に差し掛かっていた。リーゼロッテはそれに気付いたようだったが、アントンに聞きづらいようでチラチラと彼を見るだけだった。彼女の侍女も気が付いているはずであるものの、さっきアントンに言われた事が効いているようで黙っていた。


 アントンはある化粧品店の前で馬車を停めさせ、少し待っているようにリーゼロッテに言って自分だけ降りた。リーゼロッテ達に見えないように御者に何か言うと、アントンは店の中に入って行った。


 馬車の扉が閉まった途端、それまで大人しくしていた侍女が再び口を開いた。


「お嬢様、手袋はどうしたんですか? マンダーシャイド伯爵令息はお嬢様を庇ってましたけど、お嬢様が粗相したんでしょう?」

「ご、ごめんなさい……」

「何があったか話して下さい。場合によっては旦那様に報告させていただきます」

「そ、それだけは……勘弁して……」


 リーゼロッテはすっかり怯えていた。いくら侍女が打ち明けろと言ってもリーゼロッテは勘弁してと言うばかりだった。そうこうしているうちにアントンが戻ってくる姿が見えたので、侍女は聞きだす事を諦めて口を噤んだ。


 アントンは馬車に戻って来ると、手にした容器を開けた。


、手を出して」


 いきなりリーゼロッテを愛称で呼んだアントンにリーゼロッテも侍女も面食らい、リーゼロッテは驚きのあまり咄嗟に反応できず固まっていた。アントンは彼女の手をそっと持ち上げ、容器の中からクリームを掬って彼女の手に塗り始め、リーゼロッテはもっと驚いた。


「マンダーシャイド伯爵令息様?!」

「僕の名前はアントンだよ」

「アントン様?」

「うん、何?」

「アントン様にそんな事していただく訳には……!」

「君は僕のになる女性だから、このぐらいさせて。君が喜んでくれるなら、なんてことないよ」

「……ありがとうございます」

「どういたしまして。これは、肌荒れに効くクリームだよ。遠慮なく使って。なくなったらまた買うから」


 リーゼロッテも侍女も『婚約者になる女性』と聞いて目を瞠った。


「ところで、侍女殿。手袋を汚したのは僕だって言ったよね。僕が嘘をついているとでも言うの?」

「い、いえ、とんでもございません!」

「だったら、今日の事はロッティの両親やきょうだいには言わない事。分かったね? ハンドクリームもこれから買う物も婚約者の私がロッティに贈る物だ。まさか取り上げられたりはしないよね?」

「あ、当たり前でございます」

「そう。ならいいよ。取り上げられたら、我が家から正式に抗議するところだったからね」


 アントンはそれだけ言って黙って馬車をしばらく走らせた。馬車が服飾小物の店の前に停まると、アントンは再び自分だけ馬車から降りて店に入って行った。しばらくして戻って来たアントンの手には小さな包みがあった。


「これ、汚しちゃったのとは似ても似つかない物しかなくて申し訳ないんだけど……よかったら使って」

「え?! ありがとうございます」

「開けてみて。気に入ってもらえるといいんだけど」


 リーゼロッテが包みを開けると、水色のレースの手袋が入っていた。彼女のしていた手袋はドレスの若草色と同じ色のサテンの手袋だったので、似ても似つかない。でもリーゼロッテにはそちらのほうが美しく見え、初めて男性からもらったプレゼントに有頂天になった。


「素敵です!」

「一緒に選べなくて申し訳なかったね。今度、時間がある時に一緒に買い物に出掛けよう」


 リーゼロッテはふわふわした気持ちのまま上の空で首を縦に振った。でも馬車が屋敷に着き、待ち構えていた父親に見合いがどうだったか聞かれると、夢心地な気分は途端に萎んでしまった。


 アントンがリーゼロッテを送ってから帰宅すると、父パスカルはすぐに話しかけてきた。


「今日の令嬢は断るんだろう? お前が珍しく見合いに行くって言ったから話を受けたが、いくらなんでもあんなおどおどした女じゃ伯爵夫人は無理だ。本当は評判のいい妹の方を望んでいたんだが、売れ残りの姉の方を押し付けてきたんだ。しかも姉娘は当主が侍女と作った娘だっていうじゃないか。我が家を馬鹿にしているな、全く!」

「いえ、父上。僕はリーゼロッテ嬢と結婚します」


 アントンは無意識のうちにスラスラと了承の言葉を口に出していた。


「おい、本当か?! 嫁き遅れなのと母親の身分が難点だが、お前がせっかく結婚する気になったんだ。ちょっとぐらい難点があっても仕方ないか……」


 リーゼロッテの年齢や出自についてブツブツ文句を言う父親にアントンはムッときた。彼女になのだ。なぜかそんな気持ちが湧き出てきた。

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