掘っ立て小屋の中のボロ布の仕切りをめくって出て来たのは、ペトラよりちょっと大きいだけの小柄な老婆だった。
「ペトラ! 人んちに黙って入るんじゃないよ!」
「おばあはどうせ私が入って来たことが分かるんでしょ? ならいいじゃない」
「全く! 屁理屈を言うんじゃないよ。それで今日は何の用なんだい?」
「今日ね、このクッキーをくれた男の子がいたんだ」
「ほほう。私にもそのクッキーをくれるのか」
「違うよ! じゃなくて……おばあにもそんなこと言われなくても分けてあげるつもりだったけど……」
兄に分けた残りの半分のクッキーをペトラは粗末なテーブルの上に直接置いた。
「ちょっと! 直接置かないでくれよ」
「え?」
「いや、そうだね。何でもないよ」
おばあはポケットからハンカチを出してその上にクッキーを載せ替えた。貧民街に育ったペトラには、おばあの清潔へのこだわりが時々理解できない。
「それでその男の子にまた会いたいのかい? まだまだ子供だと思ってたらもう色気づく年頃になったんだねぇ」
「ち、違うよ! そんなんじゃないよ!」
「ヨルクがかわいそうになっちゃうのう」
「どうしてそこで兄さんの名前が出てくるんだよ?!」
ペトラは、茶々を入れるおばあに何とかクッキーをくれた少年と同行者2人の様子を話した。少年は同行者にヤンと呼ばれていた。ペトラよりも2、3歳上ぐらいに見えたが、ペトラは12歳にしては小さいので同じぐらいの年齢かもしれない。同行者は2人ともヤンよりも更に10~15歳ぐらい年上の若い男性で身体を鍛えているようだった。3人とも平民の着るような服より少し粗末な服を着て顔が汚れていたけど、何だか借り物を着ているような感じで板についていなかった。
「どうやったらこの人にまた会える?」
「ふうん。そうさねぇ……ここを出て働くつもりはあるかい?」
「彼と会える所で働けるの?」
「すぐじゃないけど、ここにいるよりはチャンスがあるよ。行くかい? それともここに残るかい?」
「一旦帰って兄さんと相談する」
「ヨルクは行かないさ。ここで決断しな。今ちょうど奉公先を紹介してくれる人が来ているんだよ。ペトラが決めたんなら、彼がすぐに斡旋所まで連れて行ってくれる。チャンスは1回きりだよ」
おばあが小屋の中の布の仕切りの中へ声をかけると、仕切りをくぐって壮年の男性がペトラとおばあの所にやって来た。彼はがっしりした身体に平民の着るような簡素な服を身に纏っており、年齢の違いこそあれ、ヤン達と同じような雰囲気を持っていた。
「お嬢さん、初めまして。私の名前はアレックス。商会や貴族家で働く使用人の斡旋所を開いているんだ。下女として働く気があるかい? 住み込みの所なら毎日食事を出してもらえるし、そうじゃなくても給金で自由にふわふわのパンを買えるよ」
「本当?」
「ああ、本当さ。今日、一緒に来るなら特別に道中でおいしいパンを買ってあげるよ」
「行く! 行くよ! でも行く前に兄さんに知らせてもいい?」
「ヨルクは本当の兄じゃないだろう? 貧民街の掟は来る者拒まず去る者追わず。ヨルクも分かっているはずだよ」
「おばあ、それはそうだけど……」
「嬢ちゃんが今日一緒に来るならお菓子も買ってやるよ」
「本当? でも兄さんに何も言わないで出て行くのは……」
「大丈夫さ。ヨルクには私から連絡がつく」
「そう?……ヤン君とも会える?」
「保証はできないけど、探す手伝いはしてあげるよ」
「本当?! やったー!」
ペトラは頭陀袋で作った薄汚れた服から突き出た腕を振り上げてぴょんぴょん跳ねた。
「そうと決まったら、その汚い恰好を何とかしなきゃいけないね。こっちに来な」
おばあがボロ布カーテンをめくってペトラをその裏側に招いた。長年おばあの所に遊びに来ていたペトラもボロ布の仕切りの向こう側を覗いたことはなかったので、思ったよりも綺麗な様子に驚いた。
おばあは部屋の隅に設置されているかまどの上の大鍋で湯を沸かし始めた。
「ペトラ、この水がめをあの扉の向こうに運ぶのを手伝ってくれ」
おばあの声を聞いてアレックスがやって来た。
「俺が運んでやるよ」
ペトラは、水がめで両手が塞がっているアレックスのために扉を開けて驚いた。扉の向こうは貧民街にはあり得ない浴室だった。
アレックスは水がめの水を浴槽に全て流し入れた。
「どうしてこの大きな桶に水を移すの?」
「沸騰させたお湯と混ぜてお前の身体を洗うんだよ」
湯が沸騰すると、アレックスは大鍋を浴室に運んで浴槽に入れた。それをもう1度繰り返し、アレックスは指先を入れて温度を確認し、袖をまくってお湯をかき混ぜた。
「いい湯加減だ。ちょっとお湯が少ないけど、これ以上は時間がかかり過ぎるから仕方ない。俺はレディの入浴を見る訳にいかないから、おばあが後はやってくれる。俺は向こうで待ってるな」
アレックスが浴室の扉を閉めて出て行くと、おばあが腕まくりをした。
「ペトラ、その汚い頭陀袋を脱ぎなさい」
「ええー?! やだよ!」
「つべこべ言わない!」
おばあは老婆とも思えない力強さで抵抗するペトラから頭陀袋を剥ぎ取り、ペトラを浴槽にぶち込んだ。石鹸も付けていないのに、その途端にお湯に皮脂と汚れが浮いてきた。おばあはお湯をペトラの頭からかけて石鹸を頭から身体中につけ、同じく石鹸を塗り込んだ布でペトラの身体をゴシゴシ擦った。
「うわっ?! おばあ、痛いよ!」
「我慢しな。長年の汚れが溜まってるんだ。奉公に出て今みたいに不潔にしていたらすぐにクビになるから、働き出しても自分で髪の毛と身体を洗うんだよ」
身体を洗った後のペトラは、見間違えるような美少女だった。まっすぐな黒髪はもう脂でべたべたしておらず、さらさらしており、薄汚れて浅黒いと思っていた肌は健康的に少々日に焼けてはいるものの、元々は色白だったようで頭陀袋に隠れていた所の肌は白磁のように白い。身体はまだ栄養が足りずに細くて小さいが、身体の大きさの割に手足が長い。成長したらスレンダーな美女になりそうである。
ペトラの髪を拭きながら、おばあは彼女の器量を褒めた。
「ほう。あんたも中々器量よしだね。こりゃ、ますます貧民街なんかで暮らしていたら危ないよ」
「おばあ、私の服を返して」
「これは不潔だからもう捨てるよ」
「やだよ!」
「こんなのを着ていたら即クビだよ。それよりこの綺麗な服をあげるから機嫌を直しな」
「えっ、こんないい服くれるの?」
「服だけじゃなくてこの靴もさ」
おばあがくれたのは質素な木綿のブラウスとスカートの古着、くたびれた革靴だったが、ブラウスの襟にちょっとしたレースが付いていて前見頃にプリーツが入っており、ペトラはかわいいと大興奮した。
その服装とペトラの器量は貧民街では目立つので、ペトラは粗末なフードマントをもらって深くフードを被り、おばあの家をアレックスと共に出て行った。