アントンはルイトポルトを発奮させるため、クレーベ王国の闇をもっと見せようと決意した。そのために貧民街を視察しようと提案したが、貧民街は高貴な者が安全に視察できる場所ではないため、もちろん公式な視察ではない。アントンの子飼いの騎士1名とアントン、ルイトポルトの3人で貧民に身をやつして貧民街を見学するのである。
貧民のような恰好をする以上、剣や銃をあからさまに腰にぶら下げて行くわけにはいかない。それぞれ短剣をズボンの中に、拳銃をカバンの中に忍ばせ、シャツの下には目立たない厚さの防弾チョッキを着こんでいくことになった。ルイトポルトはまだ12歳だが、パトリツィアの護衛騎士ゲオルグに負けて以来、剣や射撃の訓練に熱をあげており、優秀な成績を修めている。
決行の日は、アントンと志を同じくする家庭教師の授業をルイトポルトが受けるふりをして従騎士の変装をして王宮を出て行った。平民街にあるアントンの協力者の家で貧民に変装し、徒歩で貧民街へ向かう。その間に、3人は注意事項をもう一度確認した。
「この家を出たら殿下に敬称は使わず、ヤンと呼びます。私達が殿下の両側か前後を歩きますが、殿下はその間から出ないようにして下さい。住民に見られてもすぐに目をそらすように。滞在時間は長くできません。危険を感じたらすぐに戻ります」
これ以降、ヤンというのがルイトポルトのお忍びの時の名前となった。
貧民街に近づくにつれて、ごみと排泄物の混じった悪臭が強くなり、物乞いや行き倒れらしき人々が増えてきた。外壁と屋根を板や布で作った小さなバラック小屋が汚い道の両側に所狭しと建っている。いくら3人が貧民らしき恰好をしていても、ルイトポルトのそこはかとなく感じられる高貴な雰囲気と主人を守ろうとする2人の殺気で住民にはすぐによそ者とわかってしまい、3人はバラック小屋の前でブラブラしている住民にじっと見られて居心地が悪くなった。
そのまま道なりに行くと、バラック小屋がはみ出して道が狭くなっている場所に出くわし、道の両側に溜まっているごみと排泄物を避けるため、3人の隊列が少し乱れた。その隙に小さな影がルイトポルトにアタックしようとし、騎士が素早くその腕をひねりあげた。
「いてぇ! 離せっ! レディに何しやがるっ!」
小さな影は、汚い頭陀袋に頭と手足用に穴を開けたような物を被り、脂汚れでベタベタした黒いざんばら髪に薄汚れた顔とヒョロヒョロした手足をしていて一見、少年のように見えた。ルイトポルトよりも2、3歳程年下の子供のように見えたが、貧民街の子供は栄養状態が悪いので、一概には何とも言えない。
「お前、女だったのか!」
「失礼だな!」
騎士が驚くと、少女は憤慨した。
「いいから、もう放してやろう――これ、やるよ。俺達が見えなくなってから開けるんだぞ」
ルイトポルトはカバンから小さな包みを出すと、少女の薄汚れた手の上に置き、両手でくるんで包みを握らせた。
「え? いいの?」
「ああ。でも見せびらかすんじゃないぞ」
「ありがとう!」
少女はさっきと打って変わって綻ぶような笑顔になった。わざとらしく煤で汚したルイトポルトの顔を彼女が覗き込むと、黒い瞳とルイトポルトの透き通るような青い瞳の視線が合った。
「お前、お姫サマを救う王子サマみたいだよ!」
「これっぽちで大袈裟だよ。それに『お姫様』は自意識過剰じゃないか?」
「失礼だな! こんなに汚れた王子もいないよっ!」
「ヤン、行こう」
アントンは『無礼者!』と叫びたくなったが、辛うじて我慢した。でも話が長くなって住民の注目を浴びたくないので、2人の話を遮った。
3人はすぐに踵を翻して貧民街の出口の方向へ去って行った。少女は道の真ん中でその背中をじっと見ていた。