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第10話 埃だけの離れ

 ペーターは、アルブレヒトが孤児院慰問を了承した事を伝えにすぐにアントニアを訪ねた。


 アントニアは結婚式の直後から屋敷の敷地内にある離れに部屋を移され、独りでそこに住んでいる。その小さな家は、アルブレヒトの祖母が歳をとってから移り住んだ場所でもある。彼女は誰の顔も分からなくなった後、そこに放り込まれて死ぬまで独りで住んだ。幼かったアルブレヒトは優しかった祖母が忘れられなくて、両親に内緒で祖母に会いにその家に忍び込んだことがある。ところが慈愛と気品溢れる祖母はもうそこにはおらず、髪を振り乱して目の色を変えて怒鳴られ、掴みかかられた。その姿がアルブレヒトの脳裏から離れず、彼にはあの家に碌な思い出がない。どうやらそれはアルブレヒトの父にとっても同じだったようで、祖母が亡くなった後、家は放置されていた。


 離れの中は埃と湿気で黴臭く、ペーターが歩く度に廊下の床から埃がもうもうと舞い、床板がギシギシと音を立てた。だからペーターが部屋をノックする前にアントニアは訪問者が来たことに気付き、ショールで口を押えながら部屋の外に出てきた。


「アントニア様、ご機嫌いかがでしょうか?」

「あら、どうしたの?」

「ここの空気は……アントニア様の健康に悪いですね。掃除させて換気しましょう」

「とりあえず自分の部屋は掃除したから、大丈夫よ……ゴホゴホッ、ゴホ……辺境伯家の使用人を使ったら、だ……閣下に怒られるから、私がコツコツ自分でします……ゴホゴホッ……」

「やっぱりすぐ掃除させましょう! アントニア様が掃除するのは駄目です! この白魚のような美しい手が荒れるなんて私には許せません!」


 そう言ってアントニアの手を取ったペーターの顔は上気していた。


「えっ?! そ、そんな……し、白魚のようなって、大げさよ」


 アントニアが仰天して手を引っ込めると、ペーターは慌てて顔を引き締めた。


「ご心配なく。掃除で人を使うことは旦那様に知られないようにいたします」


 ペーターの頭の中には、自分に言い寄ってきていた何人かの下女の顔が浮かんでいた。


「それより、今日は別の用件で参りました」

「そうですの?ゴホッ……ここは埃っぽいですから、部屋の中でお話しませんか? 本当は夫以外の殿方と部屋で2人きりなんて、はしたなくていけませんけど……ゴホゴホ……閣下の信頼の厚いペーターさんなら……ゴホッ……閣下もお許しになるでしょう」


 アントニアは初夜の愛撫を思い出したようで頬を赤らめた。その様子を認めたペーターは嬉しくなったが、彼女の夫の呼び方が気になった。


「旦那様を『閣下』とお呼びになるのですか?」

「ええ、閣下がそう呼べとおっしゃいました」

「旦那様はアントニア様の夫なのに?!」

「でも、私は名ばかりの妻ですから……」


 部屋の中に案内されながらそれを聞き、ペーターはアントニアを抑圧するアルブレヒトに怒りを覚えた。


 部屋の中は一応ざっと掃除はしてあるようだったが、天井や窓までには行き届いてない。天井には蜘蛛の巣が張り、窓も曇っている。家具は15年程前に亡くなったアルブレヒトの祖母が使っていたままのようで、かなり古びていて辺境伯夫人が使うような代物ではない。アルブレヒトは閨のためにここに来る気はないので、アントニアは月に1度だけ本邸の名ばかりの夫婦の寝室へ行く。アルブレヒトは閨が終わるとすぐに出て行くが、アントニアはその晩だけそこで眠ることを許されている。


「あの……ソファは使い物にならなくて捨ててしまって……ここしかないのですが……お座り下さい」


 そう言ってアントニアが手で指し示したのは、古びた寝台だ。部屋の中には、確かに椅子は1脚もなく、ソファも見当たらない。ソファとセットで使われていたであろう小さなローテーブルが1脚だけ寝台の脇に置いてあった。


「あっ……その、もちろんペーターさんをゆ、ゆ、誘惑しようだとか、そんなつもりはないので、誤解しないでいただきたいのですが……」


 そう言ったアントニアの頬は真っ赤になっていた。その初々しい反応がペーターには微笑ましく、好ましく思っている女性に自分を意識してもらえていることに嬉しくなった。

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