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第9話 その果ては我が胸にありて……

 馬蹄ばていの音が静かな街に染み渡ってゆく。ジュデッカは凍り付いており、そのさまは荘厳であった。人々の命を脅かしていた炎も水も土も風も雷もすべて氷に呑まれている。ソウルは馬上から辺りを見渡す。



(形の無いものまで凍結させられるのか。許可なくしては溶けさせない精度、他への干渉力と制圧力、これだけ効果範囲を広げているのにどこも脆弱になっていない強度。ヴィヴィアンの魔力は際立っている。恐らくはエリス以上)



 氷の魔力を持つ者の存在自体はコキュートスも認識していた。けれど、例え魔力で生み出された氷であっても、高温には耐えられない。また、光の魔力があれば、氷は溶かせる。ルシフェル家を没落に追い込んだ魔氷だけが、その例外だった。



(オレではヴィヴィアンにとうてい敵わぬ)



 弛まぬ研鑽でその実力を磨き上げてきたソウルはそう断定した。せざるを得なかった。



 当代最強の騎士は誰か。そう問われれば、みな“雷鳴の騎士”、マルコ・デュマ・ベルフェゴールと答えるに違いない。彼がこれまでに積み上げてきた武功はコキュートスで一番のものであり、一騎打ち無敗の実績も彼らの支持を受けるに足る理由のひとつである。



 とは言え、当の本人のマルコはそれに納得しはすまい。彼は“花炎の騎士”、エリス・ウィル・ジャッカロープこそが最強だと考えていた。彼女がもし本気で団長の座を狙い始めて一騎打ちを所望すれば、自身の栄光もそれまでだと自覚していた。水と雷、ふたつの魔力を使いこなすマルコは確かに最強と謳われるだけの実力があった。



 だが、エリスはそれ以上の存在であった。ソウルが彼女と正面から戦闘になっていれば、勝ち筋はほとんど無かっただろう。これは意味の無い仮定であるのかもしれない。実際、彼女は格下のマゼンタ・ユス・ケルベロスの不意打ちで致命傷を負っている。であれば、ヴィヴィアンに対して奇襲が成功すれば、ソウルにも可能性があったのかもしれぬ。



 しかし。ソウルは馬から飛び降り、自由にさせた。ジュデッカの中央よりやや北。清廉白滅騎士団の騎士舎へ向かう道に続く広場に修道女が立っていた。彼女はソウルを待ち構えていた。彼がここへ来るのが分かっていたというように。ヴィヴィアン・バフォメットは沈痛な面持ちで白い息を吐く。



「やっぱり、戻って来たんだね。こんなに最悪の気分になる予想通りは初めてだよ。あなたの責任感は知っているつもり。でも、アタシは聞きたい。ねぇ、ソウル。どうして」



 ヴィヴィアンは淡い金髪を己の感情のままに揺らせた。その蒼い瞳はひどく濁っている。



「どうして戻って来ちゃったの? ソウルは自由だった! ここにもはや縛られる理由は無いでしょう。あなたの夢はアタシが完膚なきまでに打ち砕いた。分かっているはず。もうすぐ、ユグドラシルの軍勢がコキュートスにトドメを刺しに来る。……あなたは死ぬ。なのに、何で」


「決まっているだろう。オレはきみと約束をした。必ず迎えに行くと。その誓いを果たしたいだけだ」


「その夢は壊れた。ねぇ、アタシはあなたを裏切ったのよ。あなたの正義を嗤ったのよ。愛しいるあなたの誓いを利用したのよ。……どうしてそんなに優しい目をしていられるの?」


「……一度忠告されてな。オレは誠実なき振る舞いをしたくはないんだ。その場の感情に任せて言葉を吐いたわけではない。ヴィヴィアンへの愛は本物だから」


「愛? そんな空虚なものをアタシは求めない。無意味な慣習に操られて。利益を得るためならば手段を選ばず。それが人間でしょう。すべての人間はそうであるはずよ。あなたもどうせ、ひとときの安らぎを感じるために、そんなことを言っている。……そうに決まってる」



 戦勝祈願のための生贄として売られ、親しくしていた者に傷付けられ、アンテノーラ教会の諜報員としてあらゆる悪事に身を染めてきたヴィヴィアンが歪んでしまったわけではない。


 そもそも、この世界自体が既に破綻しているのだ。彼女は正しく世界を見ている。その確信がある。それなのに、彼女はソウルの真っ直ぐな目を見返すことが出来ない。愛しい人に否定されれば、ヴィヴィアンは自分というものを保てなくなるに違いなかった。



「あぁ、そうだな。人間は醜い。自分勝手な理屈を相手に無理矢理押し付けて満足したい……愛の正体はいつだってそうだ。オレもきみを愛すという虚構の夢シバルリック・ロマンスに酔っているだけなのかもしれない。側から見れば空虚に見えるだろう」


「……っ、なら」


「でも、いいんだよ。愛は自由なものだとそう教わった。耐えがたい教訓だったけどな。……何度裏切られようとも構わない。オレはヴィヴィアンを愛している。例え無意味にその命を使い果たすことになったとしても、変わらない」



 純白の軽鎧はソウルの心を表すが如く、凛と煌めいていた。ありふれた黒髪と黒瞳は絶世の美少女たるヴィヴィアンに比べれば、何と華の無いことか。しかし、ヴィヴィアンはいま、ソウルに気圧けおされていた。かつてソウルがエリスに感じた神気しんき。それを抱かされていた。



「ヴィヴィアン。オレの手を取れ。共に生きよう。きみがユグドラシルの諜報員であることに縛られているというなら、大陸から離れたっていいんだ。充分な金貨はあるしな。だけど、きみがオレを嫌いだと言うのなら、拒んでもいい。それは自由だ」


「ずるいよ。嫌いなわけない……! アタシがどれだけあなたを待っていたか。いつか助けに来てくれるんじゃないかって、ずっと待っていた。でも、ソウルは来てくれなかった!! 10年よ? アタシはもう穢れてしまった。あなたと共に生きる資格なんて、もう無いのよ!」


「あるさ」


「何故」


「何故ならオレたちは人間だから。人間は裏切り合い傷付け合い、それでも群れを成して生きてきた弱い生き物だ。サタンに祈るまでも無いさ。きみの罪はすべてオレが許そう。その代わりに、オレが今まできみを待たせていたことを許してくれ」


「…………ありがとう。あなたが迎えに行くって言ってくれたとき、アタシがどんなに嬉しかったか。予定調和の世界でソウルだけがアタシのつまらない予想を裏切ってくれる」



 ヴィヴィアンは涙を流している。10年間、耐えていた堤防は崩れ去ろうとしていた。姦計を用いる策略家としての仮面は霧散している。ヴィヴィアンはソウルに向かって力無く手を伸ばす。


 いや、伸ばそうとして止めた。



「でもね、それは出来ない。アタシはコキュートスを滅ぼすという選択をした責任を取らなくちゃいけない。魔氷の聖女として、一時的にコキュートスの指揮を取り、民衆を味方に付けて、大陸をひとつの国として統一させる。それがくだらないくだらない、アタシの夢よ」


「ならば、打ち砕こう。くだらないものに縛り付けられている愛しき人を救えずして、何が騎士か。貴族としての名であるティカも、きみを傷付けたルシフェルもここで捨てる。“魔光の騎士”、ソウルとして立ち塞がろう」



 ソウルは剣を抜く。カイーナの屋敷にあった、ルシフェル家の家宝。闇の如き漆黒の刃は氷の街によく映えていた。光の一族とは思えぬ邪悪な一振りだが、少女の夢を破壊するに、これほど相応しい業物わざものも無いだろう。



 一方、ヴィヴィアンは腰から短剣を抜いた。暗殺に特化した造りで、鍔迫り合いに持ち込むことが出来れば、確実に壊すことが出来る。問題は。ヴィヴィアンが手を振っただけで現れた幾千もの氷の槍。それが雨のように降り注ぐ。



 避けようとする、それは即ちヴィヴィアンから距離を取るということ。距離を詰めなければ、勝ち筋は無い。だから、ソウルは突撃する。虹天城。光熱の力を溜めた盾を造り出し、その攻撃を耐える。いや、耐えられない。刹那のうちに盾が砕ける。絶対的な魔力量では敵わないのだ。氷の槍が少しずつソウルの体を抉ってゆく。致命傷を避けて、間合いに入る。



 剣を振るおうとして、目の前が真っ暗になった。それは巨大な氷の波。触れたモノを即座に凍結させる即死級の攻撃が地面を突き破り、下から現れたのだ。しかも、攻撃範囲が群を抜いている。誰であっても避けられない。たとえここにいたのが、エリスやマルコであっても結果は変わらない。


 上から降ってくる致死級の攻撃は正面への攻撃を誘うためだった。近距離まで近付ければ、そこに氷の攻撃は無いと読ませた。もっとも、ソウルの勝ち筋など、最初から存在しなかった戦いなのだが。



 悲しそうな顔をしたヴィヴィアンはソウルの氷像から目を背ける。愛しい人を自らの手で殺した。その罪はとうていあぎない切れぬ。



「大好きだったよ、ソウル」



 瞬間。


 どんなことをしても溶けるはずのない氷が霧散した。ヴィヴィアンは信じられぬ物を見る目で彼を見ている。全身に白い鎧甲のような鱗を纏ったような異形の姿。頭上には天輪が旋回し、背中からはしなやかな翼が生えていた。彼が持つ黒い剣に煌々とした光が蛇のように巻き付いている。理性の灯った黒い瞳が彼女を射抜く。



神身堕落しんしんだらく  天魔黎明てんまれいめい



 その神々しさを目の当たりにしたヴィヴィアンは笑った。笑うしかなかった。深い深い絶望の中で、彼女は初めてソウルに対して怒りを覚えていた。どうしようもない感情の奔流だった。



「あ、はは、あははは! はははは! あなたが最初からこうしていれば、こんなことにはならなかった! アタシはこんな思いを経験せずに済んだ! 最初からソウルに死ぬ覚悟さえあれば。はははは……裏切られた」



 もし、ソウルが神身堕落を使うと決めていたら。ルシフェル家の氷は溶けて家は没落しなかっただろう。ヴィヴィアンは捕まり、魔宴サバトの贄になっていた。ソウルは順当に騎士となり、無感動に子供を殺し、親の言い付け通りの娘と結婚したのかもしれない。



 いや、幼き身では神身堕落の負荷に耐えられず、そのまま魔浄兵まじょうへいとしてヴィヴィアンより先に死していたか。この“正義の騎士道譚シバルリック・ロマンス”はソウルが生にしがみついていたからこそ生まれたものだった。死という絶対的な欠落への恐怖。それを克服した少年はようやくまことの騎士となったのだ。



「オレはヴィヴィアンを愛す」


「アタシも好きよ、ソウルのこと。だから、アタシの全霊を以て、あなたに報いる。それだけが、それだけがアタシの愛だから!!」



 空中に浮いていた氷の槍がソウルが手を振っただけで消滅した。神身堕落に勝つ方法。ソウルの理性を失わせない方法。それはひとつしかない。ヴィヴィアンは初めてその真奥へ。



「神身堕落  氷瀑無窮ひょうばくむきゅう



 そこに降り立ったのは氷の天女。さざなみのように揺れる羽衣。蒼空の化身の如き瞳。掌から溢れ出る雪は神秘的な白さであった。足元まで伸びた黄金の髪はすべてを慈悲で包もうとしている。その美しさは比類無きもの。


 明滅する理性の中でソウルはヴィヴィアンの姿に感動する。彼女の思いを受け止めるために振るわれた漆黒の刃がたちまち凍ってゆく。


 こと、ここに至ってはもはや言葉は不要だった。1分にも満たない時間で決着はつくだろう。それでも、ふたりは愛し合う恋人たちのように刹那を永遠としながら、戦った。その舞踏は“魔光の騎士”と“聖氷の魔女”を取り巻く騎士道譚に相応しい。



 ここにコキュートス事変は決着したのである。




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