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第4話 運命を回す歯車とは……

 「まあ! 旦那さまが川海老をお残しになるとは珍しいですね」



 レイチェルの言葉で我に帰るソウル。夕食中であるにも関わらず、ぼんやりとしていたようだ。けれど、どうにも続きを食べる気はしなかった。



 真っ白の布が掛けられたテーブルの上に並んでいるのはどれもソウルの好物ばかりだ。香辛料で味つけられたローストチキン、ふっくらとした食感のパン、にんにくが効いたパスタ、そして川海老のグリル。グラスには炭酸葡萄水が注がれている。



 プロの料理人には及ばずとも、ただの使用人にしておくのはもったいないくらいレイチェルの作る料理技術は高い。清廉白滅騎士団の食堂から貰ってきたレシピを見るだけで、すぐさまその味を再現出来ていた。



 当然、ここで作る以上は材料費はかかるが、騎士舎食堂のタダの夕食より、ソウルはこちらを優先している。レイチェルが共に食卓に着いてくれないのは不満であったものの、使用人とはそういうものだと言われると真っ直ぐ否定することなど出来ない。



「すまない……食欲が無くてな」


「最近はお疲れですか? 騎士の仕事はわたしには理解出来ぬほど大変なものであるのは承知しております。しかし、それで体や心を壊されては意味がありません。明日はお休みなさってくださいまし」


「働いてた方がむしろ気分は休まるさ」



(もはやオレの騎士道など無い。正義を成すなど、過ぎた夢であったのだ。それを理解しているだけに、一度休めばもはや立ち上がれなくなる。……個人の想いなど|瑣末《さまつ》なこと。ルシフェル家を再興するための歯車に徹するのがオレに残された唯一の活路)



 エプロン姿のレイチェルが柱時計を見つめ、「そうだわ」と何か思いついたように表情を明るくさせる。その感情に合わせたように後ろで括られたあでやかな黒髪が踊る。



「ならば、気分転換などいかがでしょう! ジュデッカにはアンテノーラ教会という場所がございます。最近、そこで懺悔なるものが流行っているんですよ」


「懺悔? 聞いたことないな」


「ええ、そうでしょうとも。自らの犯した過ちをシスターに告白するのです。誰にも言えぬ秘密であろうとも、彼女たちは神の名の元にすべて秘匿致しますし、包容力と優しさ、そして確かな教養でシスターたちは罪を洗い流してくださる。殿方に人気のスポットですのよ」


「……修道女なんて趣味じゃないな。それにオレは罪など」



(いや。エリスの悪を|糾弾《きゅうだん》しながらも、結局は従った。誇り高きルシフェル家の誉れに泥を塗った。これは間違いなく罪ではないか)



「旦那さまが悪いことをしたとは言っていませんわ。懺悔など、所詮は建前。美女揃いのシスターたちに癒してもらうのが本筋ですからね」



 とレイチェルはいつもの通り、にっこりと笑って言った。自分とそう年齢も変わらない少女に教会へ行くよう言われてソウルは困惑していた。



 そもそも修道女とは娼婦に等しい。一般的に娼婦と呼ばれる女たちは誰にも許可を得ず、苦しい生活を凌ぐために己の体を売る。


 教会とはコキュートスが作った公的な娼館であった。値段はそれなりに張るが、病気の心配も無ければ、詐欺に遭うことも無い。首都のジュデッカにあるのだから、規模は大きかろう。レイチェルの言う、美女もさぞ多くいるのだろう。けれど。



 エリス・ウィル・ジャッカロープという信頼していた女性に裏切られたいまのソウルにとっては抵抗のある場所だった。彼はこの傷付いた心を癒せるものなどこの世には無いと考えている。だが。



(ルシフェル家を再興するためにはエリスの|麾下《きか》でこの先も働き続けなければならない。彼女に騙されぬよう、女への耐性はつけておく必要はあるな。行くだけ行ってみてもいいか)



 柱時計を見て、深夜までまだまだ時間があることを確認し、ソウルは立ち上がった。その様子にレイチェルは自慢げであった。



(相場が分からん……。だが、念のため金貨を2枚ほど持っていけば充分だろう)



 銅貨を100枚で銀貨1枚、銀貨10枚で金貨1枚の価値になる。飲食店で満腹になるには銅貨が19枚あれば充分だ。傭兵であった頃、好奇心で抱いた娼婦の値段は銀貨4枚だったことをソウルは覚えている。



 念のため、軽鎧は身につけ、剣は持っていくことにする。不測の事態に備えて……というのは建前なのかもしれない。騎士としてのアイデンティティが大きく揺らいだソウルにとって、これらの装備が無ければ、もはや自分を保っていられなくなってしまうのだ。



 レイチェルに教えられた場所は既に覚えた。馬に乗っていけばすぐの距離だ。だが、歩いて向かうことにした。繋ぐ場所があるかは分からないし、いまの自分ならば落馬してしまう恐れがあった。何せ動物というものは人間の感情に敏感な生き物であるがゆえに。



 月で照らされているだけの道を歩く。夜は人間の思考を良くない方向へと誘導する。しかし、ソウルにとってはそれが心地良い。彼が持っていた価値観から考えれば、正義なき騎士など侮蔑の対象だ。町人から向けられる尊敬の念を今だけは振り払いたい気持ちなのだった。



♦︎♦︎♦︎


 アンテノーラ教会へやってきた。豪華なステンドグラス、金色のシャンデリア、見事な筆致で描かれた長い絵。下には赤い絨毯が敷かれ、これが娼館だとはとても思えぬ。壁際で待機している男どもはみな荒々しく目当ての女性を見つけると急ぎ足で共に個室へ入ってゆく。



 ここまでやってきたと言うのにやはり娼婦を抱く気にはなれなかった。ソウルはぼんやりとしながらも、長い絵に惹かれてなんとなく眺めることにした。建国神話の一部だと思われる。



 騎士たちの中央にいる美貌の男。これがコキュートスの王の祖先だとされるサタンだ。磨き抜かれた両刃の剣を天に掲げている。その横にいるのは3人の騎士。角が生えたり、3つの頭を持っていたり、大きな翼を持っていたりと人間離れした姿をしている。



 角の生えた騎士はジャッカロープ。彼は破壊を司る覇者であるらしい。3つの頭を持っている騎士はケルベロス。彼女は豊穣を司る勇者であるらしい。大きな翼を持つ騎士はドラゴン。彼は知恵を司る賢者であるらしい。


 三大貴族と謳われる彼らはサタンの子供たちであり、同時に友であったという。



 彼らは民衆を救い、人々を守るために騎士団を作った。その心はもう忘れ去られてしまったようだ。自分勝手に神話を解釈する者、神話を真実として妄信する者。神話とは所詮、夢物語に過ぎぬ。そう考えているソウルは時代遅れの遺物なのだろうか。



 絵の中でひときわ目を引くのは騎士たちの周りにいる異形の怪物たち。


 すなわち、神身堕落しんしんだらく……自らの体を悪魔として堕落させる力を行使した名も知れぬ騎士たちである。ユグドラシル事変のときもヘルヘイム侵攻のときも天国戦争のときも、自らを魔浄兵まじょうへいとして命を捧げた騎士たちの犠牲によってコキュートスはここにある。



(同じ立場にあれば、オレも神身堕落を使うだろうか。いや、使えないだろう。オレにはルシフェル家を再興させるという夢もある。……彼らは死に場所を見つけて国難を救った。オレなどより、よほど立派な騎士だ)



「ねえ、もしかしてソウル?」



 その声に振り返ると修道女の少女が立っていた。ソウルは思わず言葉を失う。かつて毎日のように遊んだ使用人の娘。ルシフェル家は彼女たちを雇用出来なくなり、みな屋敷から去った。あれから10年経っている。容姿が変わっていれば普通は分からない。それなのにソウルは彼女が誰なのかすぐさま理解した。



「ヴィヴィアン、なのか」



 初恋の少女とソウルは再会する。最悪の場所で。



 淡い金色のロングヘア。突き抜ける空みたいに蒼い瞳。黒と白を基調とする修道服越しからでも分かる豊満な胸部。……身長は低い。変わったところ、変わっていないところ、それぞれあれど、ヴィヴィアン・バフォメットは絶世の美少女であった。



「どうして、こんなところに。あ、いや。きみを雇えなくなったのはルシフェル家の責任だ。申し訳ない。オレがもっとしっかりしていれば、ヴィヴィアンが教会で働くことなど」



 ヴィヴィアンは複雑そうな顔をしながらも「終わったことだよ」とソウルの謝罪を受け取らない。



「お母さんに売られたの。元々、戦勝祈願のための生贄として育てられてきた身だもの。生き残っているだけ、全然マシ。ソウルは予想以上にかっこよくなったね。でも、予想通り全部自分で背負い込もうとしている。よくないよ?」



 彼女は微笑み、ソウルの腕を掴み、肩に頭を乗せた。淡い金髪からは甘い匂いがした。



「会いたかった」


「……オレもだよ」


「再会したら言いたいこと、いっぱいあったのに言えないや。ね、部屋の中でお喋りしよ?」



 修道女と一緒に個室に入る、とはそういうことだ。ソウルはどうしたものかと悩む。こんなところで幼馴染に会うなど思ってもみなかったことだ。彼女に手を引かれるまま、個室の前へ行くと扉の前に青い短髪の人物が腕を組んで立っていた。こちらを強く睨んでいる。



「あ、グレモリー卿。もう、いらしていたんですね。申し訳ありません。その前に彼と話したいのです。構わないでしょうか?」


「見たところ彼は新参者のようだね。新規の客にも優しいのは商売上手だと褒めればいいのかな? でも、僕はきみと会うために嫌味を言われながらも仕事から抜け出して来たんだ。それなのに、男に抱かれたあとのきみと相手しろって言うのかい?」


「埋め合わせは必ず致しますので、どうかご容赦を。彼はアタシの幼馴染なのです」



 短髪はねっとりとした目つきでソウルを見る。値踏みされているような感覚に怖気おぞけが立つ。



「ふぅん。まぁ、いいよ。確かに僕が早く来すぎたのも悪いからね。今日は帰るよ。セリ婆が売り上げが減ったと喚くかもしれないけどね」


「あんたは何か勘違いしているようだが、オレはヴィヴィアンを抱くつもりは無い。今日は懺悔のために教会へ来たんだ」


「……懺悔ねぇ」


「彼女には指一本触れない。だから、懺悔が済むまで部屋の外で待っていてくれ」


「分かったよ。アンテノーラ教会で一番人気のヴィヴィアン・バフォメット相手におまえの理性が保つかどうか、楽しみにしておくよ」



 やけに分厚くて重い扉を閉める。顧客の秘密を隠匿しつつ、いざとなれば、娼婦を閉じ込めておくためにも使える。派手な装飾品で誤魔化しているだけで、ここは女たちを閉じ込める牢獄のようなものだ。



(それにしても嫌味たらしい奴だ。こんな奴にヴィヴィアンは抱かれているというのか……。娼婦という仕事は体も心もすり減らされてゆくものだ。こんなところに長くいれば、いずれ彼女も限界を迎える。……その前に)



「ごめんなさい、ソウル。グレモリー卿は悪い人ではないの。あの人の独占欲のおかげで他の男に抱かれることも最近は減ったし。とは言え、あまり時間は取れそうにないわね。懺悔コースでいいのかしら。あの。本当に?」


「何が」


「本当にソウルはアタシを抱いていかないの」


「あぁ」


「どうして? アタシが修道女になって汚れてしまったから?」



 上目遣いでこちらを窺うように見るヴィヴィアンの顔にソウルは恥ずかしさを覚えて目を逸らす。だが、これから言わなければならないことの重大さを考えれば、このような誠実なき振る舞いは適していない。ソウルは彼女の蒼い目を見つめ返した。



「決めたんだ、いま。オレは立派な騎士となって、いつかヴィヴィアンを迎えに行く。抱くのはそのあとでいい。キミはずっと変わらない。綺麗なままだ。だから、待っていてくれないか」


「……ふふっ。裏切られたわ。まさか、そんなことを言ってくれるなんてね。でも、誉れあるルシフェル家の長子ちょうしの正妻が修道女だなんて許されないでしょう?」


「許されるさ。ルシフェル家を再興させることが出来れば、オレはその功績で当主にしてもらう。当主であれば、何をしたって構いやしない。ヴィヴィアンと幸せになりたいから」


「じゃあ……待っているわ。アタシがおばあさんになる前に来てくれると嬉しいんだけど」


「そんなに待たせるつもりは無い。毎日とはいかないが、ここに来て懺悔をしよう。ヴィヴィアンの顔が見たいんだ」


「明日からの楽しみが増えたわ。では、懺悔の時間です。主の名の元に祈りたまえ、主はすべての罪を洗い流す……」



 そこでオレは話すことにした。正義の騎士を目指して挫折した哀れな男の物語を。



♦︎♦︎♦︎


 懺悔を終えたソウルはスッキリとした気分であった。彼は難しいことを考え過ぎていたのかもしれぬ。エリスを許せないというのであれば、騎士になったあとに復讐すれば良いという単純明快なアドバイスにも笑ってしまうほどであった。



 本来、夢とは叶わぬものだ。ルシフェル家を再興するのは現時点では非常に難しいと言わざるを得ない。しかし、そこから逃げたとして、ソウルが今更失うものなどあるだろうか? 



 彼はエリスの悪事に対して剣を向けなかった。この時点で既に正義は折れている。ルシフェル家の誉れに泥を塗ったあとなのだ。何ものにも縛られず自由な道を歩いてもいい。それが寿命という枷で囚われた人間の哀れな抵抗だ。



 ヴィヴィアンが浮かべる聖女の如き優しい表情に強く惹かれているソウルは頬を赤く染めながらも彼女の顔を見据える。



(オレはヴィヴィアンと添い遂げてみせる。そのためならば、正義など無用。騎士の道など気にしている場合ではない。どんな戦いがあろうとも生き残る。生きて生きて生きて、オレはヴィヴィアンを愛すのだ)



「父上、お許しください。オレはもう」



 そう呟きながら扉を開ける。すると、青い短髪の男が部屋の中やヴィヴィアンの体を無遠慮に見る。



「本当に手を出さなかったみたいだね。これは驚きだ。きみの名前は? その剣と鎧からして騎士のようだが」


「オレはソウル・ティカ・ルシフェル。騎士見習いだ」


「僕はアンジュ・グレモリー。同じ騎士であるならば、相見えることもあるだろう。そのときはよろしく頼むよ。さぁ、出て行ってくれたまえ。時間は貴重なものだからね」



 扉を閉める前、寂しそうに微笑むヴィヴィアンが何かを口にした気がしたが、よく聞こえなかった。



♦︎♦︎♦︎


「……もう遅いんだよ、ソウル」



♦︎♦︎♦︎


 屋敷まで帰って来ていた。もうすぐ夜明けだ。エリスの麾下のまま明日から騎士としての任務を続ける……その覚悟が出来ていた。屈辱に耐えることは傭兵時代から変わることのないソウルの得意技であった。



 屋敷に入る前、花壇にチラリと銀色のモノが見えた。何の気は無しにそれを拾う。掠れていてほとんど見ることは出来ないが、死体が何者かを判別するためのドッグタグに似ていた。



(どうして、こんなモノが花壇に?)



 不審に思いながらも、ソウルはテーブルのある部屋に向かう。柱時計を見るに、深夜も半ばといった頃合いだ。そこにはレイチェルが待機していた。いつ帰るとも知れぬ主人の成果を心待ちにしていたのだろうか。



「まあ、お帰りなさいませ。旦那さまはずいぶんと元気になられたようでレイチェルは嬉しゅうございます。食欲は湧いて来ましたか? 先の料理、すべて残っておりますので食べますか? ちゃんと火の魔法で温め直しておきました」


「ありがとう、レイチェル」


「いえいえ、主のために働くこと。それこそが使用人の誉れでございますから」



(誉れか……ならば彼女の誉れを尊重してゆくのも主の務めだな)



「いつもの礼として何か欲しいものはあるか」


「勿体無いお言葉でございます。でも、欲しいモノはあるのです。ゲリュオン・シャックスの『赤き鮮烈の剣』なる書物がいいです」


「レイチェルは本を読むのか?」


「ええ! 噂では家に騎士道譚きしどうたん専用の書庫まであるというジャッカロープ卿には及びませんが、わたしの騎士道譚への愛はカイーナでは一番だと自負しております」


「そうだったのか、知らなかったな。明日の夜、買ってくることにするよ」


「ありがとうございます!」



 テーブルには香辛料で味つけされたローストチキン、ふっくらとした食感のパン、にんにくが効いたパスタ、川海老のグリル。飲み物は炭酸葡萄水。



 ローストチキンに齧り付き、肉汁を堪能し、溢れでた肉汁にパンを浸して食べるとこれまた美味だ。パスタを食べて、口の中がすっかり臭くなったところでメインディッシュの川海老のグリルだ。ぷりぷりとした食感が堪らない。



 好きな女の子に再会しただけでこんなにも気分が舞い上がってしまうソウル。けれど、彼はまだ17歳の少年なのだから当然だと言えよう。脳裏に浮かぶのはヴィヴィアンの寂しそうな微笑み。



(必ずヴィヴィアンを救う。このひとつで良い。これを成すためにこれからを生きよう)




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