冬の風がいっとう冷たく吹き抜ける中、ソウルはエリスとジュデッカの街を歩いていた。遊んでいるわけではなく、
未だ彼は騎士見習いであったが、既に
ソウルは周囲の騎士たちが手のひらを返すように自身を褒め始めたことを純粋に嬉しく思っていた。
騎士の多くは権威主義に傾倒しているが、同時に実力主義でもある。清廉白滅騎士団は名高きベルフェゴール家の麒麟児、マルコが団長を務め、建国神の血を引くことを意味する三大貴族の一角ジャッカロープ家の騎士、エリスが副団長の騎士団なのだ。
貴族の血と力。己が貴族であるからこそ偉く、強いものだという考えが
このとき、彼が感じたのはけして騎士たちへの侮蔑ではない。祖父と叔父と父親に対する感謝の念である。
多額の給金を手にし、使用人のレイチェルが働きやすいように道具を購入したり、自身の体格に合った鎧を新調したり、大好きな川海老の料理をプロに作らせたり。安定した月収による余裕から生まれる自由。それをソウルは手にしたのである。
だからと言って、傭兵のときに得た金を
ジュデッカの街はひどく華やかだ。それに似合わぬ格好をしていることを
だが、そのエリスはというと、相変わらず不機嫌な顔をしながら肉串を一心不乱に食べている。庶民ならいざ知らず、普通の貴族は屋台で買い物などしないし、食べ歩きなどもってのほかだろう。ましてや、今は警邏中なのだから。
(この方はやはり普通の貴族とは違うな。よほど甘やかされてきたのか、あるいは周りの視線など気にされぬのか。変わったお人だ)
ソウルは呆れながらも彼女を見ている。華やかだった街から少しずつ治安が悪い道へと進んでゆく。いつもの巡回コースである。
酔っ払いがうろつき、物乞いがあちこちに座っている。光が強ければそのぶん闇も濃くなる。ソウルが暮らすカイーナでは見られぬ光景であった。
「きしさま……たべものをおめぐみください」
まだ幼い物乞いがエリスに近寄る。彼女は無表情を貫きつつも、食べさしの肉串を物乞いの手の上に落とす。「ありがとうございます」と嬉しそうな幼い物乞いは店の下で寝転がる親らしき人物の元へ走る。
遣り切れぬ思いを抱えつつもソウルにはどうすることも出来ない。コキュートスの法律では例え一年でも税を支払えなかった者は貧民と称され、まともな就職口にすらありつけなくなる。コミュニティからは疎外され、日銭稼ぎがせいぜいだ。ソウルは貧民となって屋敷を取り上げられるのを恐れ、幼いときから傭兵業に就いていたが、そんな選択肢を取れる者はあまりいない。
「お優しいのですね」
「私はネギが嫌いだ。ネギだけになった串に用は無い。どうせ、その辺りに捨てようと思っていたくらいだ。物乞いが来てありがたかった」
「ご謙遜を……」
と言いつつもエリスがひどい偏食であることはソウルも承知していた。騎士舎にある食堂で彼女が食事を残す様子を幾度も見た。彼女の言葉はすべて真実であるかもしれぬ。それでも、ソウルは物乞いを突き放すようなことを言わなかった彼女に優しさを感じたかったのである。
「泥棒だ!」
そんな声が響き渡る。見れば向かいのパン屋からフードで顔を隠した子供が粗末な袋を持って走って出てきた。たとえ悲惨な境遇にある子供だとしても、罪を犯せば咎人だ。商品を盗まれた被害者のために騎士は働かなければならない。
(同情はしない。それが正しい……はずだ)
痩せっぽっちな子供に追いつくことなど造作もない。確かな自負と共に走り出そうとしたとき、エリスが小さく彼の腕を引っ張り、小声で囁く。
「追いつかない程度に走れ」
「何故です」
「真に罪を犯したのは誰なのか突き止めなくてはならない。子供に指示を出したのが親であれば、そちらを捕まえるのが筋だろう」
「……! 承知致しました」
浅慮だった自身を恥じつつ、彼はエリスと共に手加減して走る。路地を曲がり、屋根を伝い、水路を飛び越え、思いの外、子供の運動能力が高かったことに驚きつつもまんまと撒かれたフリをした。
後ろを何度も振り返りながら子供は袋の中を覗いて安心したように座り込む。すると、その子供にボロ切れを纏ったような女の子が近付いてきた。フードを下ろして彼女の顔を見た子供は……男の子は袋から小さくて黒いパンを出して、彼女の手に収める。
彼らに気付かれぬよう忍び寄って前後を挟み、そして「清廉白滅騎士団だ!」と名乗りを挙げた。ソウルは咄嗟に逃げようとした男の子の肩を掴んだ。エリスが威圧のために細剣を抜き、ふたりは観念した。
「きみ、名前は。親はどこにいるんだ」
「おれはアスナロ。こいつはおれの妹のミリアだ。頼むよ、騎士さま。見逃してくれよ。父ちゃんも母ちゃんもとうにくたばった。おれたちを雇ってくれる大人なんて居ない。お願いだ」
アスナロが懇願するように頭を下げる。ミリアはこほこほと咳をして、自身の手の中にあるパンを食べようか迷っていた。
今朝、ソウルが食べてきた白くて柔らかいパンとは違い、それはひどく粗末な黒いパンであった。ソウルが騎士見習いとなる前はよく口にしていたお馴染みのパンだ。あれが硬くて不味いことはよく知っている。あんなもので命を繋がなければならない惨めさもよく分かっている。
「すまない。きみの事情に法律は容赦しない」
「頼むよ……! ミリアは病気なんだ。分かるだろ!? 一日でも食事を抜いたら死ぬかもしれない。こうするしかなかったんだよ」
「情状酌量の余地はある。小さな被害だし、アスナロは収容所に入っても3日程度の強制労働で終わるだろう。大人しくしてくれ」
「3日程度って! その間、ミリアの面倒は誰が見てくれるんだよ!? こいつが死んだら、おれは、おれは。死んだ父ちゃんと母ちゃんに何て言い訳すればいいんだ……」
(騎士が任務に私情を挟んではならない。だが、こんな子供を見捨てるのが騎士の正義だというのか? 何とか出来ないのか?)
「エリスさん、彼らには親がいません。孤児院に入ってもらうのはどうでしょう」
「それは難しい」
「何故です」
「あの盗賊たちがジュデッカ周辺の孤児院を荒らし回ったおかげで、多くの子供が溢れている状況だ。彼らを養うべき大人たちはみな殺された。運が悪かったと諦めろ」
「そんな。いや、それならばミリアはオレが引き取ります。強制労働が終わったら、アスナロもうちに来い。子供のひとりやふたり、何とかなる。騎士団に迷惑は掛けません」
「い、いいのか、にいちゃん!?」
「あぁ! おまえたちはこれ以上つらい思いをしなくていい。騎士とは正義を成すものだ。貧困に喘ぐ子供を救えずして何が正義か」
ソウルはしゃがみ、アスナロを抱きしめる。親が死に、生活のために罪を犯す。それは傭兵堕ちした彼にとって、あり得たかもしれぬ道だ。とても他人事とは思えなかった。
「ふむ……確かに。ならば」
そう言ったエリスは顔色ひとつ変えることなく、剣を閃かせた。
「え」
ごとり。ミリアの小さな頭が地面に落ちていた。そして、一拍遅れて鮮やかな血液が首から吹き出す。こんな小さな体のどこに入っていたのかと思うくらいの量であった。ミリアが死んだ。いま、助けようしていた命は呆気なく失われた。
エリスが殺したのだ。呆然として、手が緩む。アスナロがソウルの手を突き飛ばしてミリアの死体の元へ駆け寄る。
「ミ、ミリア……。……ミリア!! なんで、どうして!? 騎士のにいちゃんは助けてくれるってそう言ったじゃないかよ!」
ソウルは目の前の光景がとても信じられない。尊敬する上司がなぜ、こんな凶行に及んだのか理解出来ない。飛び散った血液がかかった頬を拭おうともしない。エリスの甚だしいまでの美しさは
「何故です」
「このような貧民がジュデッカに何人いると思う? 貴公はそのすべてを拾うつもりか? こちらに情けをかけ、あちらは捨て置く。そのような誠実なき振る舞いをするつもりか?」
答えに窮した。ソウルが正式な騎士になったとしても、世話出来る子供の数などたかが知れている。いずれ生活が苦しくなるのは目に見えていた。食べるのに困るようになれば、結局は同じところに行き着く。正しい理論だ。だとしても。
「……だとしても、こんなに幼い女の子を殺していいはずがない! エリス、あなたはオレの問いに答えていない! 何故、殺した!?」
ソウルはそう叫ぶ。騎士の礼を取り、エリスに敬語を使うのも忘れていた。これほどまでに怒りに包まれるのは久方ぶりであった。
「貴公の未来を守るためだ。没落した家を再興するのは容易ではない。そのためには切り捨てることを覚えなければならぬ。いずれ迎える妻のためにも子供は不要だ。……上司としての教育の一部に過ぎぬ。これまでの貴公への態度と何も変わりはしない」
「こんなものが教育なものか!」
「何をそこまで怒っているのだ? だいいち、こいつは罪の原因だ。取り除くのは騎士の役目だろう」
「ミリアは何もしていない! パンを盗んだのはアスナロだ。だが、パンを盗んだ程度で殺すのは横暴ではないか!」
「パンを盗む。それ自体は
「ならば、何故!?」
ミリアの死体とそれに縋り付くアスナロをエリスは冷たく見下ろす。ゾッとするほど冷徹だ。いや、エリスはソウルと初めて会ったときから何も変わってはいない。その表情を勝手に解釈したのはソウル自身に他ならなかった。
「言っただろう。この少女は罪の原因だ。収容所から出たとてそのあとはどうなる? この少女の命を繋ぐために罪は重ねられ続ける。兄は妹を救うという名目でパンを盗み続ける。その果てには強盗・殺人もあるかもしれない。職もなく家もなく両親も食糧も安全も無い貧民の人生をここで終わらせてやるのだ。感謝こそすれ、咎められる
ソウルが尊敬していた騎士の
「分からぬな。なぜ、貴公はそこまで怒っているのだ? 下賎なる貧民が死んだだけではないか。このような命は毎日のように失われている。それが分かっていないわけであるまい」
「死んだ? 貴様こそ何故そこまで他人行儀なのだ! 貴様が殺したのだろう! こんなに幼い女の子を……!」
「なるほど……そういうことか」
と納得したような言葉を吐きながら、エリスはミリアの死体を剣で貫いた。ぐさぐさ。ぐりぐりと幾度も確かめるように彼女の尊厳を辱め続けた。
「よくもミリアを……死ねぇ!」
勢いよく殴りかかったアスナロは一瞬で炎に包まれる。彼女の炎を何度も目の当たりにしたソウルはこれが手加減したものだと分かる。エリスは倒れたアスナロをあやすようにその頭を撫ぜる。
「安心せよ、貧民。おまえの罪の原因は私が取り除いた。収容所から出たあとは好きなところへ行くがいい。何をするのも自由だ。おまえを縛り付けるものはこの世に存在しない」
「ぐ、ぐ……死ね、死ね、死ね……。おまえは絶対に許さない……! 収容所から出たら殺しに行く。何度失敗しようと、必ず殺す!!」
そんな憎悪の声をエリスは簡単に受け止める。
「好きにせよ。それもまた自由。ただ、一度失敗すればそれまで。そのとき、おまえの命は燃え尽きているだろうから」
怒りの顔のままアスナロは失神した。エリスはスカートから綺麗な布を取り出し、死体から剣を抜いて刃を拭き始める。目の前に彼女の所業を許さぬ帯剣した騎士がいるというのに。攻撃される心配をまるでしていない。
「ふむ……。貴公はまだ怒っているのか。子供ではないのだから、そろそろ鎮めなさい」
「何故、亡骸を刺した?」
「貴公は乙女信仰なのだろう?
的外れな形だけの謝罪をエリスは述べる。乙女信仰とは処女を殺してはならぬという騎士の中での掟のようなものである。確かにルシフェル家には乙女信仰があった。
けれど、7歳で家を失ったソウルには関係の無いことだった。怒りのまま震える手で剣に手をかける。しかし、彼の理性がそれを押し留め、抜くには至らない。
(エリスは強い。オレに勝てる相手なのか? 抜群の運動能力、卓越した剣術、尋常じゃない魔術。オレのすべてを以てしてもこの人には敵わぬのではないか)
臆病風に吹かれたのは事実だ。だが、彼はエリスの莫大な魔力に裏打ちされた実力を間近で見ている。騎士の正義などという青臭い理想が何の足しにもならぬという現実を味わい過ぎている。ややあって、ソウルは呟く。
「許されない。こんなことは許されるはずがない。守るべき人々を騎士が殺す。そんなこと」
それでもソウルは己が正義を果たさんとする。震える手を鎮めようとする。勇ましい言葉で自身の臆病さを吹き飛ばそうとしている。返ってこないと思った声量であったが、エリスは短く答えた。
「許されるさ」
「何故」
「私はコキュートスを建国せし悪神“サタン”の末裔……つまりは三大貴族が一角、ジャッカロープ家の騎士だから。言わば……神」
「は……? 神? 何を馬鹿なことを。サタンなど俗信に過ぎない。神話など夢物語だろう。おまえなぞ、騎士の風上にも置けぬ」
「信仰は自由だ。……貴公に初めて会ったときに言ったではないか。私の騎士の道とは“正義”であると。コキュートスでは貴族の血と力のみが“正義”。私はそれを守るために
(あぁ。そうだろう。エリスはオレが何を言おうと己の考えを曲げることはない。凝り固まった権威主義と実力主義。サタンとは言い得て妙だ。こいつはコキュートスが生み出した悪魔。悪魔を殺すのは騎士の役目なり)
剣を抜こうとしたその刹那。
「止めておけ。剣を抜けば貴公の夢は永遠に叶わぬ。ルシフェル家を再興する。そう誓ったのではなかったか。貴公はもうすぐ
手が止まる。エリスに人の気持ちなど察せるわけがない。それなのに彼女の言葉は的確にソウルの心を抉った。騎士となるため。騎士となってルシフェル家を再興するため。氷像と化した祖父を、叔父を、父を救うため。
ここでエリスに剣を向ければ、千を超える屈辱を耐え、泥を啜ってきたこれまでの人生に意味が無くなる。理屈では分かっているのだ。
「ここで剣を抜かずして何が正義か。何が騎士か。オレは。オレは。オレは……」
(どうすればいいのだ)
「迷うのは自由だ。揺らぐのも自由だ。だが、これだけは言っておこう。貴公の正義と貴公が救わねばならないもの。どちらが重いのだ?」
(………………っ!!)
まさに
ソウルは力無く手を下ろす。血と脂で汚れた刃を拭き終わったエリスは彼に接近する。間合いの内側に入り、いつでも互いを殺せる距離に来たというのに彼らは剣を合わせることは無かった。
「何故だ。何故、あなたはオレにそこまで言うのだ。あなたの力を以てすれば、簡単にオレの命など奪える。気に入らぬなら殺せばいい。オレの夢など……捨て置けばいいのに」
「貴公は……何故、何故と子供のように繰り返すばかりだな。少しは自分の頭で考えよ。足りぬ頭は費やす時間の長さで埋めよ」
「……くっ」
「死体は放っておいても良い。どうせ
「……は。了解致しました」
ソウルの正義が完全に折れた瞬間だった。エリスはそのまま振り向くこともなく立ち去る。何事も無かったかのように。争いなど起きなかったかのように。アスナロとミリアを踏み
「オレには分からない……。正義とは何だ。騎士とは何だ。それともオレには何も無いのか……」
そこに怒りはなく、悲しみもなく、ただ虚無だけがソウルをジュデッカの街に立ち尽くさせていた。