霧でぼやけた視界の向こうに、街があった。
ほんのりと薔薇色に色づいた砂壁の街だ。
路地は狭い。戸をしっかりと閉ざした家々の壁は隣どうし繋がりあい、まるで迷路のような、砦のような風景だった。
ときどき住人らしい人物ともすれちがう。
石畳のうえを薄物をまとった男女が、伏し目がちに歩いてくる。
彼らはみんな、言葉をかけても、まるでこちらのことには気がつかないみたいに過ぎ去ってしまう。
霧が深すぎて、ほんの目の前を歩く相手のことさえわからないかのようだ。
階段に丸いナッツのようなものをいっぱいに詰めた籠が置かれている。そばに腰を下ろした老婆がブツブツ唱える呪文のような言葉も、どこか遠くの路地で駆けまわるこどもたちの足音もはっきりと聞きとることができるのに。
当てもなく路地を歩いて入るとふと、甘ったるい匂いが鼻を突いた。
砂壁の道の情景に、何かが重なり合う。
それは桃色の影であり、じっと見つめると花の形をしていた。
水に浮かぶ蓮華の花だ、と気が付いたとき、霧が晴れた。
すると、先程まであった街は影も形もなく消えていた。
足は沼沢地のぬかるみを踏みつけていた。
周囲にあるのは街なんかではなく、槍のような寒枯蘭や葦の群生だ。
ずっとむこうに、ひとりだけ女が残っていた。長耳の女で、耳の片方が欠けている。女は手の仕種で、「こっちに来てはいけない」と言っていた。
そこから先、沼地はさらにぬかるんで、どれくらい深くなるのかは誰にもわからなかった。
ぬかるみを踏みつけた脚を引き抜くのを見届け、小さく見えていた女の姿は少し戸惑いながら、森へと去って行った。
*
その街がなんだったのか、女は何者か、現実のものなのかすら知る術はもうない。
そういう幻の出る森だとは聞いていたが、まさか自分が遭遇するとは思わなかった、とキュイスは溜息を吐くような声音で言った。
酒でまどろんだ緑の瞳が琥珀色の液体にうつり、溶けあっている。
隣で話を聞いていたメルは微笑みを浮かべていた。
「きっとまた出会うよ、どこかで」
キュイスは何でそう思うのか訊ねようとして、やめた。
長く旅を続けていると、不思議なことに出会うものなのだ。
もしも明日が昨日よりも長く続くのならば、また出会うこともあるだろう。
それから煙草を一本吸い、席を立った。
「やっぱり、明日はひとりで行くよ」
酒場の中は暗く、カウンターに肘をついてこちらに向き合っているメルだけがはっきりしている。店員や、ほかの冒険者の姿は、霧の向こうの街のようにぼんやりと曖昧だった。
「俺たちみたいなのは、最後はひとりで行かなくちゃいけないものだ。なあ、そうだろ?」
メルはしばらく答えなかった。
薄青の瞳が、湖面のように静かにキュイスを見返している。
その瞳にみつめられると、キュイスはいつも自分が挑んで来たものたちのことを思い出し、神妙な気持ちになるのだった。樹々や岩や、泥や土。滔々と流れる大河、過ぎ去っていく時間。人がどれだけもがこうと、微動だにしない、計り知れないものたちのことだ。
そういうものに相対していると、いつも荒れ狂っていた心が不思議に落ち着くのを感じる。
不器用な若者の誰にも明かさない心のうちが見通せるかのように、メルは頷いてみせた。
明日何が起きようと、きっとまた出会うだろう。
いつか、きっと。
どこかで……そんな直感を抱いて。
ひとり店を出た旅人は、夜が明けないうちにオリヴィニスを出発した。
*****キュイス・ギャレイ*****
初登場は第14話、『追懐』。地図をよく読み、山や森に詳しく、冒険者たちを先導する優秀な道先案内人だった。
*****片耳が欠けたエルフ*****
初登場は第21話、『一夜花』