板戸を半分開けてこちらを見下ろした顔は、まだ三十代のそれとは思えないほど深い皺が刻まれていた。褪せた瞳の色にも、汚れた前掛けにも、何もかもに生活の苦しみが滲んでいた。
彼女の言葉を覚えている。
「あらやだ、なんで帰って来ちゃったの? 気味が悪い……」
少女は呆然と口を開けたまま、義母の乾いた口元を見上げていた。
手や指は凍え、足は氷の塊のようだった。
けれども何よりも辛いのは、薄々そうではないかと疑っていたことが真実だとわかったことだ。
そう、それはつまり……自分を愛してくれる人は、この小さな村にはいない。そして生まれ故郷のこの場所にいないのなら、大陸中を、そして世界中を探したとしても、どこにもいないのだということだった。
一面の雪景色に小さな足跡が点々と続いている。
見知らぬ枯れた森の奥からここまで、彼女はひとりぼっちでしんしんと降り積もる雪の中を歩いてきた。わざと置いて行かれたのだとは気がつきもせずに。
*
はるか北にある故郷は、まだ雪に閉ざされていることだろう。
故郷でただひとり優しかった祖母が言うには、太古の時代、イストワルは雪に覆われてはいなかった。けれども魔術師たちが過ちをおかし、本当の故郷は氷に閉ざされた湖に沈んでしまったのだという。
彼女はイストワルに伝わる秘密や伝説をいろいろと教えてくれた。
ただその教えは幸福をもたらすものではなく、疫病神のように厄介者で、行く先々について回った。
銀貨数枚と引き換えに売り払われ、ようやくミグラテールに落ち着いたのもつかの間のこと。夜魔術の才能があることに気づかれてしまい、追い出されるまで大した時間はかからなかった。
そうして紹介状ひとつを頼りに辿りついたのは、冒険者の街・オリヴィニスだった。
辺境の街は思ったよりもにぎやかだ。
街のそこかしこで人がにこやかに会話し、商人の姿も多い。
しかし、だからといって多少なりともふさぎ込んだ気分が晴れやかになることはない。
ここで彼女のことを知る者は誰もいないのに、誰もが敵に見えた。
街に入る前、長かった髪を切り落とした。過去のことを知られるのは怖かったし、今度こそ自分を受け入れてくれる人が見つかるとは限らない。今までの全てを捨てて男のふりをして、別人になって生きようと思ったからだ。
魔術師ギルドへの紹介状だけが頼みの綱、唯一の道標だった。
それなのに、突然どうしようもなくそれを引きちぎって捨ててしまいたいという気持ちに駆られるのだった。
そしてその気持ちのもっと奥には、もっとどす黒い感情が隠れている。
(何故、自分ばかりがこんな目に遭わなければいけないのだろう? ただ、他人より少し魔術が使えるだけ、見えないものが見えるだけで……)
幸せそうな人たちを見ると、どうしようもない怒りが湧いた。
もしも自分が呪文を唱えたなら、一度そうすると決めたなら、自分はこの小さな街の人々を皆殺しにすることだってできるだろう。なのに何故、再び追い出されることに怯えて暮らさなければいけないのか……そう考えている己に気がつき、彼女は他ならない己のことを恐ろしく感じた。
そんな彼女の歩みを止めたのは、呻き声だった。
「水……水をくれ……誰か…………」
苦しみに枯れ果てた声だった。
そこは人通りの多い通りで、左右には店が並んでいる。
その屋台と屋台の狭間に物乞いが蹲っていた。襤褸切れを頭からかぶり、足下に欠けた椀を置いて、道行く人々に慈悲を乞う姿は哀れなものだ。
彼女も通りを行く人々と同じようにその姿を無視して通りすぎた。
しかし水を求めて呻く声はいつまでも後をついてくる。それは物乞いの呼び声というよりは、具合が悪く、助けを求めているようでもある。
とうとう彼女は後ろを振り返った。
そして物乞いのところまで戻り水の入った革袋を差し出したのだった。
しかし、その袋を受け取る手はなかった。
物乞いはとうの昔に息を引き取っていた。干からびた遺体は、誰かが片づけるのを待つばかりで、水を差し出す彼女を道行く人々が気味悪そうに見つめている。
(まただ、また、自分は――)
時に魂のないものたちは、生者を呼ぶ。そして、生まれながらに死者たちと会話してきた彼女には、死者と生者の差がはっきりとわからないことがあるのだった。
また、ここも去らなければいけない。
そう考えると、胸の奥がずきりと痛んだ。
「どうもありがとう」
そのとき、声が聞こえて、彼女は振り返った。
「彼に水をくれて、どうもありがとう」
少年が微笑みかけている。
その微笑みが自分に向けられたものだということを理解するのに、しばらく時間がかかった。
年の頃は十五かそこらだろうか。
革の鎧を身に着けて、腰には剣がある。冒険者のようだが、彼らよりもずっと優しい雰囲気だ。瞳の色は湖の上を覆う氷の色だ。
「僕はメル。君の名前は?」
「…………アラリド」
どうして名前を教えたのか自分でもわからなかった。これから逃げ出さなければいけないかもしれないのに……。
メルはアラリドの隣に腰を下ろし、胡坐を掻いて座った。
通行人の視線が集まることなど、まるでお構いなしだ。
「けどね、その水筒は引っ込めといていいよ」
彼は紙袋から酒瓶を取り出し、口を切った。
「この人はね、どうしようもない人でさ……いくらか金を渡しても、端から酒代に使っちゃうんだ。若い頃はそこそこ優秀な冒険者だったんだよ。まあ、僕はきらいじゃないけどね」
さあ、命の水だよ。
そう言って、メルは置かれた空の杯に酒を注いだ。
アラリドの瞳には若い男が笑みを浮かべ、なみなみと注がれた杯を受ける姿がうつっていた。
地上に取り残された霊魂は少なからず苦しみに満ちているものだが、杯を受けた霊は満足そうな顔つきで消えていく。
メルは男が消えていくまで、そこに腰を下ろしたままだった。
「君に
そう問いかけると、メルは驚いた顔でアラリドを見つめた。
「もしかして……君、人の魂が見えるの?」
見えるはずがない。
また、してはいけない発言をしたのだとアラリドは悟った。
でも今度はもう怖がらなくてもいいのだという予感がした。
「そうだよ。見えるだけじゃない、もっといろんなことができるよ」
答えると、氷の瞳は暖かく熱を帯び、そして口元はにやりと歪む。
悪だくみを思いついた子どものような顔だった。
「ねえ君、レヴェヨン城って興味ない? 君の力が役に立つかもしれないんだ」
「……怖くないの?」
「何が?」
「霊が見えること……」
「どうして? 凄い力だと思うけど」
メルはきょとんとしている。
そうしたことはアラリドにとって初めてのことだった。
自分以外の誰かが、死者を恐れず肩を並べて向き合ってくれる。
自分を怖がらないでいてくれる。たったそれだけの優しさですら、彼女にとっては初めて触れた人の温かさだったのだ。
どこにでも行くよ、とアラリドは迷いなく言う。
「一緒に行こう」
差し出された手を握り返す。
そのあたたかさ。
それは彼女の願いだった。
そしてその願いは叶えられた。
そこから全てがはじまった。
今は、恐れや憎しみのない心の平原のそのむこうで、永遠に旅をする。