噴きつける大雨は、最早滝といっても差し支えない勢いで船体を打つ。
風のうねりは鈍色をした海原をかき乱し、帆船を木の葉のように翻弄する。
その勢いは激しく、船内は上下の別すら忘れるようなありさま。板子一枚下は地獄、とはよく言ったもので、船は荒れ狂う海の上を地獄か、それとも生を繋ぐか、その狭間で浮沈を繰り返していた。
「取り舵一杯!!」
「取り舵いっぱあああい!」
互いの言葉も聞き取れない嵐のなか、船員たちは波をものともせず働いていた。
その最中、誰かが気がつく。
「船長……! あれを見てください!」
舵を切る船員が青い顔をして、西の方角を指で示した。
視界いっぱいを荒れ狂う曇天が埋め尽くす中、そこだけ、まるで気紛れな朝日が差し込んでいるかのように明るい光が放たれている。
しかしそれは希望の光ではなかった。
光の下には、黒い骸骨の旗を翻す海賊旗があった。
しかもそれを掲げている船体は酷く古びていて、あちこちに大穴が開いている。
そして遠目に見える船の乗組員たちは、全員が干からびたミイラ、あるいは動き回る骸骨なのだった。
「幽霊船だっ!! トゥルマリナの彷徨える亡霊が出たぞッ!!」
それは船乗りたちにとって悪天候よりも恐ろしい存在だった。
商船の倍はありそうな巨大な幽霊船は、荒波をものともせず急速に近づいてくる。
「仕方ない、先生を呼んでこいッ!」
「ええっ、でも、先生は昼寝の時間ですよ?」
「起きて頂け! 死にたくはねえだろが!」
船長が指示すると、二、三人の船員が船室に向かった。
そして数分もせずに、顔色の悪い子どもを連れて来た。激しい波に船酔いでもしたのかと思いきや、よくみると、ただ機嫌が悪いだけである。連れてきた船員は強かに殴られたようなアザを顔につくっていた。
アイス・ブルーの瞳が冷たく船長を睨みつける。
「先生、あれが例の海賊船でごぜえやす。ここは、どうかひとつ先生のお力をお貸しくだせえ! ほら、てめえらも頭下げろ!」
齢五十は越えようか、という年かさの船長がどうみても十五歳かそこらの子どもに頭を下げ、部下の手足を甲板につけさせる様は、異常だった。
革の軽装鎧を身にまとい、短剣を腰に下げた少年は、ぐるりと船員たちの顔を見回し、極めて不服そうな声で「いいよ」と答えた。
そして左右に、上下に、ひっくりかえりそうになっている船の上を船主にむかって気負うことなく歩いていく。波をかぶっても足を滑らせることもない。まるで散歩でもしているかのような気楽さだ。
幽霊海賊船はすさまじい勢いで接近していた。
だが、《先生》の姿を舳先に認めると、様子がかわった。
船の航行速度は明らかに落ちた。
骸骨たちは何かに脅えるかのように震え、舵を切って一目散に逃げ出したのだ。
「コラッ、逃げるな! 一度でいいから僕も幽霊船に乗ってみたいんだってば!」
メルが叫ぶが、逃げる船の速度は早くなるばかりだ。
じきに波は静かになり、嵐は夢のように消え去った。
*
無事、船はトゥルマリナの港に到着した。
岬ではトゥルマリナの商人、ミランがメルの到着を待っていた。
「あの船を助けてくれてどうもありがとう、メル」
ミランは仮面の下でにっこりと笑った。
「助けたわけじゃないけどね」
港では、命からがら逃げ帰った船員たちがどんちゃん騒ぎに興じている頃だろう。
メルはがっくりと肩を落とす。
「何故か、海の冒険とは相性が悪い。やっと幽霊船に会えたと思っても、向こうが逃げてしまうんだ。何故だろう、ミラン」
「うっふふふ、何故だろうねえ、自覚がないんだねえ、メルメル師匠は……」
そのしょぼくれた様子が心底おかしくて堪らない、といった風なミランの笑いはいよいよ隠せないものとなってきている。メルは憮然とした表情で荷物に腰かけ、水平線の向こうに落ちる夕陽を眺めていた。
「命なき者たちにとって、君より怖いものは大陸中探したって存在しないんだよ」
ミランはメルに聞こえないよう、ひっそりと呟いた。
海難事故が多発する墓場岬の沖では、時折、幽霊船が出没する。
通常の幽霊船であれば、船に魔術師や神官を同行させることで回避できるため、船舶の護衛は冒険者たちにとっても馴染み深い依頼であった。
しかしトゥルマリナの悪名高き海賊船だけは、誰にも討伐することのできない《伝説級》として依頼が六十年ほどギルド受付に掲げられたままになっている。
海の上で出会えばまずまちがいなく死を覚悟しなければいけない強大な敵だが、最近では、オリヴィニスにいるある冒険者を船にのせておくと出会っても回避できることが発見された。
以来、彼はトゥルマリナに寄港する船の間で《お守り》とか《先生》とか《救世主》とか呼ばれて大変に敬われているという。
なお、この幽霊海賊船は商船から奪った金品を海賊島に隠しており、うまく船に乗り込み、島のありかを明らかにすれば、莫大な富がもたらされるのだと信じられている。