急な坂道を、日に灼けた肌と父親ゆずりの輝かしい銀髪の男が登っていく。
がっしりとした体格は腕利き冒険者のものに違いなく、自然と人目を引いた。
その姿をみつけた夫人が「まあ、カルヴスさん」と声を上げて呼び止め、食べ物や農作物などのちょっとした贈り物を手渡していく。それもひとりやふたりではない。彼はその都度、足を止めては丁寧に応えて受け取る。その様子を見た人々は余計に尊敬の念を募らせるのだった。
戦士カルヴスのことを知らぬ者は、オリヴィニスにはいない。
勇猛果敢な冒険者としての名声は大陸のあちこちに響き、戦士ギルド長という要職を預かる身となってからは拍車がかかるばかりだ。
彼が向かっているのは高台の一軒屋、蔦が絡まるアーチをくぐった先の二階の部屋だった。
扉に鍵はかかっておらず、室内はがらんとしている。
冒険に出かけるときの荷物の中身に比して普段からものの少ない部屋ではあったが、いまは抜け殻のようだ。
バルコニーの頼りない鉄柵に腰を降ろし、街を見下ろしている少年がいた。
少年の姿ではあるが、中身もそうとは限らない。
何しろ彼こそはこの街の生き字引にして、どんな猛者でも一目おく冒険者、メルなのだから。
カルヴスは拳を握り窓を叩いて来訪を報せた。
「気づいてたよ、カルヴス。何の用だい」
物憂げな返事がある。
いつものメルに比べると冷たい反応だった。
その足元にはバケツと掃除道具が置かれている。
三日後、メルはこの部屋を引き払うつもりでいた。弟子のルビノが十八歳になり、一人立ちするからだ。
オリヴィニスの生ける伝説が孤児を拾ったとき、元仲間たちは大いに反対したそうだ。その頃のことは知らないが、成長したルビノは誰がどうみても才能に恵まれた若者だった。
――いや。
正直に言えば最初は誰もルビノのことを評価していなかった。師は偉大でも、それだけで敬意をはらうような行儀のいい街ではない。はじめは痩せっぽちの青年で、誰にも見向きされていなかった、そういうほうが正確だ。
そんなルビノを見いだしたのは他ならぬカルヴスだった。彼は迷うことなく元孤児の子供をパーティーに加えた。ルビノもまた、オリヴィニスで最高の仲間たちに囲まれて頭角をあらわしていったのだ。
ついこの間までは。
「子育てごっこは終わりかい、メル」
「ルビノは僕の子どもじゃない。借り物さ」
「いまや誰もそうは思ってないぞ、彼の強さは本物だ。いずれ、君と同じくらい優秀な冒険者になる」
「僕は最後まで反対したんだ。実力だよ」
「もちろんそうさ。だが、名を上げて伝説となる前につまらない依頼で命を落とすところは見ていられない」
メルはそこでようやく振り返った。
アイス・ブルーの瞳は微かに微笑んでいた。
身長も、子どものような面差しも、何もかも昔とかわらない。
カルヴスがマジョアによってメルに引き合わされ、出会ったのは子ども時代のことだった。
幼心にカルヴスはその存在を恐れた。この世に大人にならない子どもがいるのだというその事実、それ以上にメルという存在から感じる冷たい違和感のようなものがそうさせたのだ。
「何か言いたいことがあるみたいだね、素直に言ったらどうかな」
「ルビノがうちのパーティを抜けると言ってきた。お前さんが何か余計なことを吹き込んだんじゃないのか」
「冒険者が誰のパーティに入るのか、どんな仕事を受けるのかなんて外野が口出すことじゃない」
「馬鹿馬鹿しい。俺たちはオリヴィニスで最強のパーティだぞ、メンバーには師匠連が三人いる。いったい何が不満だ? メル、あんたは俺のことが嫌いなんだろう」
「僕が君をどう思っているか……なんてつまらないことを、どうして気にするんだい」
「はっきりさせようじゃないか、この際だ」
カルヴスは木のテーブルに身体を預けた。
答えを聞くまでは帰らない、という表情だった。
「君は強い、仲間を率いる才能がある。実力はマジョアを越えるかもしれない……でも傲慢で、本当は誰にも心を開いていない。自分の家族にもだ」
神殿の影になり、薄暗い室内でカルヴスはメルの言葉に眉を顰める。
「ロジエのことか……」
武に秀で、名声を欲しいままにする戦士にとって折り合いの悪い息子のことは唯一の弱点といっていい。
「そうだよ。何度、君に忠告した? でも君は聞き入れなかったね」
「そんなことはない。歩みよろうとしたし、話し合おうとしたんだ。それをあいつが拒んだのだ」
「雨だれの音を聞いても、傘を差さなければ体は濡れる。心を開いて忠告を受け入れ、行動を変えなければ聞いたとは言わないのさ」
「ではどうすればよかったんだ、メル。俺は誰よりも多くの敵を倒し、仲間を守って導いてきた。数えきれないほどだ。それの何がいけない」
「冒険者に敵なんかいないよ。君は英雄になりたいんだ……僕らとは道がちがう」
カルヴスはむっつりと黙り込む。
それは彼にしては珍しい焦りの表情を含んでいた。
魔物さえ脅えるその眼光を真正面に受けて、反対にどこもかしこもひ弱な姿をしたメルは堂々としていた。
対照的な二人の間には入り込めない空気があった。
*
玄関から室内をうかがっている者がいた。
成長しても変わらない赤毛にそばかす、メルの弟子であるルビノだ。
大家に借りていたものを返して部屋に戻ってきたとき、そこにはすでにカルヴスがいた。会話はわからないが非常に険悪な雰囲気で、パーティを抜けた手前、中に入ることもできず様子をうかがっていたのだ。
路地に戻ってやり過ごそうと振り返ったとき、階段を上がってくる若者と目があった。
「引っ越しの手伝いに来たよ。何してるんですか、ルビノ君――あ、なんだ。親父が来てるのか」
慌てて口をふさぐ。
突然現われた眼鏡の少年は、似ても似つかないカルヴスの一人息子であるロジエだ。病がちな母親の遺伝子を多く受け継いだのだろう、その顔立ちや線の細さは、とてもカルヴスの息子とは思えない。
ふたりは慌てて路地へと戻り、二人の険悪な雰囲気を伝えると、ロジエは何でもないように「やっぱりね」と言った。
「あの二人、仲悪いんすか?」
「知らないんですか、ルビノ君……あの二人にはマジョアおじいさまとはまた別の因縁があるんですよ。切っても切れない因縁がね」
「と、言うと」
「メルメル師匠は昔、親父とも組んでたんですよ。おじいさまが引退した後、ほんの一時期ですけど。でも突然メルメル師匠はパーティを抜けてしまったんです」
そんなことがあったのか。
カルヴスの怒りは無理からぬことかもしれない。知らなかったこととはいえ、ルビノはメルと同じ行動を取っていたのだから。
メルはあまり、過去の細かいことを教えてはくれない。
秘密主義というより、どうでもいいと思っているらしく十年以上一緒に暮らしているルビノでさえ知らないことが山のようにあった。
「でもいったいなんでまた?」
「それが、その……」
ロジエは言いにくそうにしている。
「食べちゃったらしいんですよ」
「は?」
ルビノは言葉の意味が理解できず、眉を顰める。
「メルメル師匠が後で食べようと取っておいたお菓子を、親父が勝手に……食べちゃったんです。了解もとらずに」
うちの親父、そういうガサツなところがあるから、とロジエは申し訳なさそうにつけたした。
ふたりの仲はその一件で修復不可能になってしまい、今にいたるという。
「お菓子」とルビノは感情のこもっていない声で呟く。
「はい、お菓子です」
「お菓子かぁ……」
食べ物のうらみは怖い、とは言うが……。
二人は微妙な顔で互い見つめ合った。
要するに、どっちも子どもなのだ。
それからカルヴスが帰るまで、ぼんやりと白い雲が流れていく空を見上げながら過ごした。