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第85話 靴を履いて旅に出て、鞄に荷物を詰め込んで



 みみずく亭で奇妙なものが見られる、と人伝てに聞き、それじゃあと腰を上げてやってきた冒険者たちは、皆、足を踏み込んだ瞬間に後悔した。


 なんて浅はかだったのだろう。自分は。

 こんなつまらない好奇心で身を滅ぼすくらいなら、まじめに畑でもたがやしておけばよかったのだと店に入るなり叫んだ者さえいた。


 なにしろ、そこでは機嫌がめちゃくちゃに悪そうなメルメル師匠が、頭に三角巾をつけて、右手にお玉、左手にフライパンを持ち、店主代理をつとめていたのである。

 であるからして、やって来た客がみんなきびすを返して飛び出して行くのも無理からぬ反応だった。


 げてもの大好きみみずく亭の店主・ルビノが一か月ほどオリヴィニスを留守にするという計画を立てたとき、それはギルドの噂好きな連中が耳にしても、さほどの好奇心を持って受け入れられなかった。

 ルビノがメルにも負けない実力のある冒険者だということはレピやエカイユを代表として誰もが知っていることだったし、今まで週末冒険者に甘んじていたこと自体が異常なことだったのだ。

 ただ、その行き先が《大陸五大珍味》の発祥地であることは、少々不安要素ではあったが……。


 そんなわけで彼の店も長期休業を余儀よぎなくされるだろうと誰もが思っていたわけだが……。


「まともな食事が作れるのか?」


 カウンター越しに面と向かって正直すぎる文句をいう魔術師ギルド長・トゥジャンの前に、ふっくらとして色もよく、完璧無比なオムレツの形をしたオムレツが提供される。


「ルビノを教育したのは、僕だよ。料理を教えたのも、この僕だ。ただ、ちょっとばかし方針をまちがえたという自覚はあるね」


 目の前でフライパンが火をふく。

 酒で香りづけした玉ねぎをスライスしたパンにのせ、分厚く切った豚肉のハムをのせる。

 作られた料理はメルの口の中に消えていった。

 いくら料理がまともでも、魔術師ギルド長と、不機嫌な師匠連のひとりが陣取る店に入ってこようとする客はなかなかいない。


「それで、メル。なぜ君が料理人のまねごとをしているのだ」

「ルビノと約束させられたのさ。この間の一件で迷惑をかけたから……」

「一か月の社会奉仕を命ぜられたというわけだな」


 トゥジャンはめずらしくにやりと笑う。

 この魔術師が面白そうにしていることなど、めったにないことだ。


「僕には何があったのか記憶すらないのに。一か月だって? 退屈で死んじゃうよ。トゥジャン、ちょっとだけ変わって!」


 メルはエプロンを押しつけると、外に飛び出して行った。

 こそこそと店の外からようすをうかがっていた野次馬は固唾かたずを飲んで成り行きを見つめている。

 そしてトゥジャンが無言のまま、渡されたエプロンを身に着けたのをみて、ビクリと体を震わせた。



 *



 あの騒動が終わったあと、オリヴィニスでは少しだけ何かが変わったり、変わらなかったりした。


 変わったことといっても、ルビノが長い旅に出たり、メルが店番をしていたり、そんなようなことだ。壊された街の修理はすでに日常に埋もれていき、冒険者たちはいつも通り依頼をこなしている。

 怪我人はでたものの、幸いにも死者はひとりもでなかった。


 ただ、街からマジョアの孫であるロジエが消え、ひと月後にひょっこり戻ってくる……という不思議な現象はあったが……。


 仕立て屋のシマハは店を開けようとして、その手を不意に止めた。


 彼女がときどき悪夢をみるようになったのは、あの事件のあとのことだった。

 夢の中に、あの夜に出会った女が出てくる。女は泣いていて、助けを求めている様子だった。

 そしてシマハを見つけると「名前を呼んで」と必死に訴えてくるが、最後はなすすべもなく闇のなかにのみこまれていってしまう。そういう夢だった。


「…………よし」


 小さな声でやる気をだして、看板をかけようとしたシマハの手を、その上からそっと押さえる掌があった。


「シマハ、冒険に行こうよ」


 屈託のない笑みを浮かべて、そこに、メルが立っていた。


「冒険? わたしが?」


 あまりに突然すぎて、シマハは瞬きを繰り返した。


「そうさ。セハの門に行こうよ」

「セハの門……? それって、街はずれの……」


 冒険者たちの稼ぎ場、正真正銘本物の迷宮だ。


「僕と行くんだよ。大丈夫に決まってるさ」


 メルはシマハを抱え上げると、返事も聞かないで走り出した。

 なんだか既視感のある光景だと思ったものの、彼女はされるがままになっていた。



 *



 レピは一応むずかしい顔をして、メルが一筆書いた申請書を眺めていた。


「セハの門への、民間人への立ち入り許可かぁ……」


 シマハはいつものスカート姿から真新しいズボン姿になり、新米冒険者らしい姿を披露しながらメルの隣に立っている。立っているというより、どうしていいかわからず佇んでいる、といったほうが正しい。

 シマハは一瞬、この眼鏡のエルフがメルのことを止めてくれるのではないかと、そんな淡い期待を抱いた。

 しかし、そううまくはいかなかった。


「……ま、いいでしょう。そもそもギルドの許可がないと立ち入れない場所ってわけじゃないですからね。受理しときます」


 レピはなんと、メルの突拍子もない行動に太鼓判を押してしまったのだ。

 それからのメルの行動は素早かった。

 あれよあれよという間に、冒険者しか出入りしない洞窟の入口が、ぽっかりと目の前で口を開けていたのだった。


「無理無理無理、ぜったい無理です!」


 流されるだけ流されてたどりついた狭い通路の中で、少女はこれまでの人生で一度も出したことのないような大声を上げた。

 通路というか、それは岩に覆われた断崖絶壁と言い換えたほうがよかった。


「大丈夫。ここを越えたらじきに目的地だよ」


 遠い天井に、確かに出口らしきものがある。

 しかしそこに辿りつくためには、急角度の狭い洞穴を、ほぼ垂直によじ登らなければいけない。

 シマハはその途中で、ごつごつした岩肌にしがみついたまま立ち往生していた。


 緊張のあまり混乱するシマハは下を振り返った。

 下で手際よくロープを手繰りながら、メルは、にこにこと笑っている。

 その距離が果てしなく遠くみえる。

 シマハはぎこちなく、顔の位置を元に戻した。


「二度と下は見ないほうがいいわね……」


 メルの指示に従って手足を動かし、シマハはやっとのことで出口に辿り着いた。

 手袋のおかげで指が傷つくことはなかったけれど、体重を支え続けた両腕は限界まで疲れている。


 冒険者たちは、こんな緊張と恐怖を仕事のたびに味わっているのだろうか?


 むろん、その答えは「メルだけだ」という素っ気ないものであるが、それはシマハの知る由もないことだ。

 あとからメルが荷物とロープを背負って、上がってくる。


「お、いい天気だね!」


 明るい声に促されて、シマハはやっと周囲の景色を見渡した。


 そこは、小さな森だった。

 薄灰色の、ごつごつした岩の斜面の一角に、ぽっかりとそこだけ大きく枝葉をつけた樹々が並んでいる。

 葉はの色はみんな、赤と深いオレンジに染まっていた。

 ずいぶん登り続けただけあって、森の端からの眺望もいい。遠くに白金渓谷の姿が霞んでみえる。


「ここは……?」

「僕が見つけたお気に入りの場所。他の連中は体が大きくて、洞窟が抜けられないんだよね。だからこそ、魔物もいないんだけどさ」


 時折、ぱらぱらと音がして、シマハの頭に小さな木の実が当たって跳ねた。

 赤くて、少し楕円で、表面はつるりと光っている。


「種が大きいけれど、食べられる。乾かすと胃薬にもなるよ」

「この実を取りに来たのですか?」

「ううん、そういうわけじゃないけれど……」


 風が吹くと、木の実は次々に落ちて来る。

 地面にぶつかって、ころころと楽し気にはねていく。


「音楽みたい……」


 シマハが呟いたそのとき、一際大きい風が吹いた。

 押されて飛びそうになる体を、メルが支える。

 勇気をだして顔をあげると大きな生物が、翼を広げて飛び立つところだった。

 瞳は緑色。

 体は鳥の羽ではなく、獣のような毛に覆われている。

 くちばしのある顔つきは、鳥に似ている。


「あ、あれは何ですか?」


 シマハは恐怖に身体を強張らせながら、やっとの思いで問いかける。


「さあ……なんだろう? よく知らないんだ。この時期は、いつもこいつがいるんだ。木の実が好きなのかも」


 あっけらかんと言い放ったメルの声の最後が、強風にかき消される。

 鳥が羽ばたき、森から離れていく。

 シマハはその光景にじっと見とれていた。

 何もかもが、いつも身を置いている仕立て屋の風景とはちがっている。


 一拍置いて、あたりの樹々から、一斉に、赤い木の実と葉っぱが落ちて来た。

 雨か、あられのようだ。

 ざあざあと、川のせせらぎのような音がして、いつまでも鳴りやまない。

 小さくて柔らかい感触が何度も何度も何度もシマハの肩や頭の上で跳ねていく。


「ふ……ふふふ……」


 疲れきっていたはずなのに、自然に口元がほころんだ。


「気に入った?」とメルがきく。


「ええ、とっても。きれいです……光が、こんなに眩しくて。メルさんはいつも、こんな景色を探してるんですね。だから、危険なのも気にならないんだわ」

「逆だよ、シマハ」


 メルは落ちて来た木の実をひとつ、手に掴む。


「世界がきれいなんじゃない。僕らが勇気を振り絞って進むから、世界が輝くんだ」


 メルはそう言って笑っている。

 シマハは奇妙な感覚を抱いた。


 メルのその掌を、誰かが握っているような気がした。

 通り過ぎて行ってしまったたくさんの人たち……森を、川を、渓谷を、平原を、砂漠を、氷の大地を。

 もっと新しいものを、もっと見たことのない景色を……。

 たったひとつの命を鞄に入れて、自分の足で大地を踏みしめて、最初の一歩を踏み出した人たちが。


「それじゃ、帰ろうか。無事に帰れたら、ジャムを作ろうよ。きっとおいしいと思うんだ」

「……無事に?」

「うん、無事に」


 輝かんばかりのメルの笑顔がそこにある。

 シマハはようやく、帰りもあの恐ろしい絶壁を降りて行かなければいけないのだということに気がついたのだった。



 *



 その夜、シマハは夢を見た。

 なぞの木の実のジャムの、甘ったるいにおいがあたり一面にふわふわ漂っている。

 そこはメルに連れて行ってもらったあの森で、名前を知らないあの女の人が、赤く染まった樹々を見上げている。


 光を……見ているのだろうか。


 もう、彼女からは悲しみを感じなかった。

 ただ一心に目の前を見つめている。


 たぶんこうして。

 絡みつくような悲しみも、

 絶対に忘れられないと感じる怒りも、

 息ができなくなるような憎しみも、

 やがては癒えるのだろう。


 いつか、どうしようもない過去をそっと置いて行ける日が来る。

 まだ見たことのない、誰も知らない、美しく輝く景色のなかに。

 幾千幾億の夢といっしょに。


 明日の朝、目覚めたら……。


 どこに行こう? 何をしよう。


 どこにでも行ける。

 果てしのない自由といっしょに。





『靴を履いて旅に出て、鞄に荷物を詰め込んで』 完


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