狼は夜魔術師を降ろすと、じきに闇に溶けこんで見えなくなった。
夜魔術師は冒険者ギルドの前から教会の方角へと足を引きずって行った。
裏口から出て来た少女は夜魔術師の姿を見とがめ、足を止めた。
足をけがした誰かが助けを求めているように見えたのだろう。
でもその姿が近づき、つい今しがた血を
「どこかで見かけた覚えがある気がする子だこと……」
夜魔術師が手をはらうしぐさをすると、生ぬるい風が少女が頭からかぶっていたストールをさらって行った。
現れたのは頭のてっぺんから髪の毛にまじって生えた白い羽毛である。
「お願いがあります。どうか、後ろの人々と、この子だけは見過ごしてやってください。
シマハは
「いいでしょう、子どもには、とくに用はない。あなたがちょうどいいわ」
幼心にシマハが何か危険なことをしようとしていると察したのだろう。
コナは必死にスカートにしがみついていたが、思いのほか強い力で引きはがされてしまった。
「行きなさい、コナ。走って神殿に行くの。着いたら、助けを呼んでちょうだい」
強い口調で
神殿は街の南側で行って戻ってくるまでには相当な時間がかかる。
シマハも、この夜をヴァローナと過ごしていなければ、ギルド街のある北側には近づいてもいなかっただろう。
もちろん、そのことをうらんでいるわけではない。
むしろ自分がいてよかったと思う。
魔法使いたちはひとり残らず街の人たちを助けに向かってしまった。
だから、自分がいなければコナはひとりぼっちだった。同じ境遇の彼女が傷つくところだけは見たくなかった。
シマハは、身をすくめながらも夜魔術師とまっすぐに向きあった。
「勇気があるのね。ぜひとも、その勇気を
「恐ろしいです。でも、お友達が傷つくところは絶対に見たくないのです」
「自分の命と引き換えでもかしら。この先に死ぬより恐ろしいことが待ち構えているのよ。あなたは命が二つあるとでも思ってるのかしらね」
「いいえ、ひとつきりです。私はただの仕立て屋です、ご婦人。けれど……もしも命を惜しんであの子を死なせてしまったら、それこそ明日の朝日も見たくないと思うでしょう。美しいものを見ても何も感じないでしょうし、どこにも行きたくはないし、何も食べたくなくなると思うのです。そんなふうになるのはいやですから」
「もしもあの子が、邪悪な心の持ち
「……え?」
訊ねておきながら、
もう取り返しがつかないのだとでもいうように。
シマハには、ほんの一瞬ではあるが、目の前の女が、ただのか細い女のように見えた。
あかりもない漆黒の闇のなかで、ただ恐れて震えている女のように……。
「罪なき娘の
女の指がシマハに向けられる。
濃い闇が漂っているのを感じ、シマハは固く身を縮こまらせた。細い指は胸に抱いた《針入れ》を握りしめている。
しかし、ベロウはいつまでも言葉にしたことを果たすことはなかった。
そして、その指をさっと引きもどした。
ゆっくりとした動作ではるか頭上を見上げると、羽音がばさり、と振ってきた。
闇のなかを素早くはばたいて来た飛翔体が、くるり、と反転して、背中の荷物を落としていく。
それはごく小型の竜で、背には
彼女は《飼育者《テイマー》》のミリヤ・フロウであったが、それはベロウの知るところではない。闇色の眼差しは、空からふってきた落とし物へと注がれていた。
それはマントをかぶった少年だった。
フードを取ると、薄氷色の瞳が現れる。
そしてくしゃみをひとつして「やっぱり、空を行くのは風が問題だ」とか、のんきそうにぼやいた。
この状況で、そういうことを口にできるのはこの街にただひとりしかいない。
メルだ。
メルは笑っているような、そうでもないような、とにかくあまり緊張していない様子で、額にできた小さな傷を
「七英雄の魂は、たしかに抜き取ったはずなのに……」
「どうしてここにいるのか、わからないって? まあ、ぼく自身も、ぼくのことがわかってるわけじゃないから無理もないけどさ」
そう言って、凍りついたままのシマハに目くばせした。
「さ、神殿でみんなと合流するといい。もう彼女はきみたちには手出ししないと思うし、じきに誰かここにも来るだろう」
頭上を旋回していた翼竜がシマハの隣にゆっくりと降りて来る。
ミリヤがシマハをうしろに乗せ、腰帯でその体を固定し、再び飛び立った。
メルが言った通り、ベロウはふたりに手出しはせずに、そのまま行かせた。
「――――久しぶりだね、神殿で会ったとき以来だ」
「そうだね、メル……会いたかったよ」
「ベロウっていうんだってね。すごくよく似てる。でも、きみは……アラリドじゃないね」
女の表情に驚愕が浮かぶ。
「どうして」と
「じゃあ、ヨカテルも気がついたんだね。いや、うーん……」
メルは困った顔を浮かべている。
「確信があるわけじゃないんだ。ヨカテルが言うなら、彼は証拠をつかんだのだと思うけど。ぼくはただ、そう思うだけ……。君はアラリドじゃないよ、だって、アラリドはこんなことしないもの」
薄氷色の瞳は、あたりに漂い怨嗟の声をあげる亡霊たちをみつめ、哀しげな表情を浮かべた。
「マジョアたちは昔に起こった悲しいことは全部アラリドのせいだって言ってたけど、ぼくにはそうは思えない」
「わたしのせいだよ、メル。わたしがやったんだ。だからあんなことが起きたのよ」
「いいや、ちがうよ。ぼくとアラリドはよく似てるんだ、だからわかる。きみはアラリドじゃない。違う人で、別人で、ただオリヴィニスを混乱に
メルはマントの下で柄に手をやり、刃を抜き放つ。
濃い闇の中で、刃が白く
「わたしに剣を向けるの……? 元を正せば、みんな、お前たちのせいだっていうのに」
「もしもきみがぼくやマジョアだけを狙ったんだとしたら、それは仕方ないことだった。でもほかの人を巻きこむのは、きみの野心だ。ちがうかい?」
「どうするっていうの、七英雄はもう、お前とは共にいないのよ。わたしが奪ったのだもの」
この夜にたどりつくまでに、メルは戦いのための知識をほとんどなくしていった。
身軽さも、武器を操る術も、魔術も、何もかも。
それは七英雄の魂に刻まれた記憶で、知らないうちにベロウに《魂抜き》の技をかけられ、奪われてしまったのだから。
「スパイを入りこませたの。気がつかないうちに、わたしは貴方に近づいて術をかけてたのよ……」
「もしかして、ロジエのことかな。彼は生きてるの? 殺していたら、容赦しないからね」
ベロウは生つばを飲みこんだ。
メルや冒険者ギルドの所属員たちに近づくのに《マジョアの孫》というのはすばらしく都合がよかった。 ベロウは彼に近づいて、魂を奪った。ロジエ自身には、そうされた自覚すらなかったはずだ。
そして、ベロウ自身の体にその魂をうつした。
ロジエは自分が何者であるか疑うこともなく、ベロウをオリヴィニスへと運んでくれたのだ。
しかし、その方法のすべてをメルが知っているとは思えない。
ただ街にやってきた新顔のことを警戒していただけにすぎないと、彼女は自分自身に言い聞かせた。
七英雄の魂を失い、貧弱な子どものような姿をしたメルにいったい何ができるというのだろう。
しかし、メルはリラックスした姿勢で剣を構えたままだ。
「わたしが恐ろしくはないの」
「ううん、全然」
夜魔術師は杖を振るい、護衛に連れて来ていた軽戦士の影を呼びだした。
砂の戦士は軽くフェイントをいれると、まっすぐにメルに向かってくる。
力任せに薙ぎ払われ、小柄なメルの体は、吹き飛ばされて後ろに転がった。
英雄といっても、体格はほかの戦士とくらべれば華奢だ。
それでも、これだけの力の差がある。
回転は教会のそばで止まった。
メルはすぐに起き上がり、怪我がないことを確認する。
「うーん……自分と戦うのって、なんか変な感じ」
体についた砂や草を払い、苦笑いを浮かべて立ち上がる。
そして再び剣を構える。
七英雄は相変わらず正確無比で、凄まじく素早い身ごなしで超接近戦をしかけてくる。
何度もするどい剣戟を受け、刃が火花を散らす。
メルの剣は明らかに生彩を欠いている。
以前はどこでどんな武器を構えていても、その扱いかたをすっかり理解し、知り尽くした立ち回りだった。でも、今はどこか頼りない。
その上、砂の敵には確かに敵を切り刻もうとする殺意があった。
それでもメルは恐れてはいなかった。
とにかく前に出ようとして踏みこむ。
二度火花が散った。砂影の敵は体のひねりを利用して、メルの体を剣ごと蹴り上げた。
軽い少年の体はいとも簡単に宙に浮き、地面に叩きつけられた。
メルはそれでも再び立ち上がる。
衣服は土で汚れている。薄く切り裂かれた頬や服に血の色が
それでも。
「よし、段々掴めてきた気がする。もう一回!」
何度も、メルが倒され、痛めつけられるのをベロウは見つめていた。
ベロウの心には複雑な感情が――いや、はっきりとした痛みがあった。
何度も何度もくり返し浮かんでは消える、
ベロウには理解できないはずの人の心だった。
攻防は長い時間続いた。
それとも思いのほか短かっただろうか。
そんなささいなことすら、感情の痛みに邪魔されてわからなくなるほどだった。
砂の戦士がナイフを繰り出す瞬間、メルが動いた。
剣を捨てて、ナイフを持つ腕を相手の上半身に組みついた。
そのまま、相手の体を引きずるように一歩進む。出来る限り強く踏みこむ。
影の反対の手が、無防備なメルの背中をナイフで刺した。
メルの表情が痛みに歪むが、踏みこむ力を弱めることはなかった。
血が流れ落ち、地面を濡らす。
それでも。
英雄の手に引きずりこまれ、地面に倒されても、這いつくばってでも。
それでも。
とうとう、ベロウのそばまで来た。
メルは今にも闇の中に沈んで消えてしまいそうなベロウに向けて、手を差し伸べていた。
「アラリド……迎えに来たよ……」
土で汚れた手に、しみひとつない白い手のひらが重なる。
それは紛れもなくベロウの掌で、彼女自身が、メルに手をのばしたことに驚いている様子だった。
その瞬間、ベロウの体が二つに重なって見えた。
メルの手が優しく引かれていくと、その重なりはよりはっきりとしたものになる。
闇に包まれた女夜魔術師から、半透明に透けたもうひとりの《ベロウ》にそっくりな姿が抜け出て、ふたつに別れていく。
それは一瞬だけベロウのことを振り返り、微笑みかける。
そして、メルの隣に立った。
闇色の髪に瞳、そしてカタバミ色のローブを着たひとりの魔術師だった。
砂の英雄がメルにとどめを刺そうとナイフを振りかぶる。
しかしその切っ先は、もうひとりのベロウ……いや、長い眠りから目覚めたアラリドの姿の前に突き出されたまま震えていた。
「よく役目を果たしてくれたね。もう眠るといい」
アラリドの手の平が英雄の額をなでる。
すると従順なしもべのように英雄はその場に膝を突き、頭をたれた。
「ようやく会えたね、メル」と、アラリドは言った。
「ずっと探してたよ、アラリド……」
「うん。ごめんね。ぼくが死んだ後、魂は
アラリドは、放心したようすのベロウを見つめながら言う。
「そんな、嫌よ。どうして行っちゃうの、姉さん。もどってきて」
ベロウは何度も、呼んだ。
聞き取れないが、それがアラリドの隠された名前なのだろう。
けれど、アラリドはそれをそよ風のように受け止め、たたずんでいるだけだった。
「メル、きみの体を少しだけ貸してもらってもいいかな」
「ヘンな使い方はイヤだよ」
「大丈夫。みんなにお別れをして、この夜を終わらせるだけだから」
アラリドが無邪気に両手を広げ、小さなメルの体を抱きしめる。
その腕はメルの体をすり抜けて、何も掴むことはない。
アラリドはほかの幽霊たちとおなじだ。
命の尽きた、死者なのだ。
魂の姿でここにいるだけだ。
「ごめんね、メル」
そのとき、そこにはふたりの人間がいた。
冒険者ではない。
呪いもない、魔術師でもない。
ただ、はるか昔に、時計の針をぐるぐると何度も回したその向こうで、
別れの言葉もなく、離れ離れになった友人たちがいた。
「ぼくを探してくれてありがとう……」
その言葉が、メルの聞いたアラリドの言葉の最後になった。