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第60話 父と子 《上》


 オリヴィニスの北東部。

 この一角は、他の街区から塀によって切り離され、出入り口がつけられている。

 往来に並んでいるのは一見すると酒場なのだが、どこか街中にあるものとはおもむきが異なっていた。

 そのうちの一軒で、とある若者が家事をこなしていた。

 しわひとつない純白のシャツに王都風の上着を着たその姿は、あまり労働に向いているようには見えない。横顔もどこかしら育ちのよさがうかがえ、隅にほこりのたまった厨房には似合わなかった。


「お~い、あねさんたち~、朝ごはんですよ~」


 ロジエがフライパンをカンカン鳴らしながら、食堂から二階に向かって呼びかけると、並んだ小部屋から女たちが次々に顔をだし、歓声を上げた。


「あらっ、ロジエじゃない! みんな~、坊ちゃんのお戻りよ」

「やだ~、いつ帰ってきたの!? おかえりなさい!」


 寝間着……よりもっと薄い、肌が透けて見えるほどの、煽情的な肌着を身に着けた女たちが、階段を飛び降りるようにしてやってくる。


「あんたがいなくて寂しかったわ、ロジエ!」


 女たちのひとりが、金髪を振り乱しながらロジエ――マジョアギルド長の孫――の首筋に抱きついてキスを送る。


「やあ、エリス、覚えててくれたんですね」

「やーね、忘れるワケないじゃない。街に護衛をつけてくれたり、あたしらが定期的に医者にかかれるようにしてくれたのは、あんたなんだから」

「大したことじゃないよ。君たちが元気じゃないと、冒険者たちも調子が出ないんだから」

「今度は長くいるの? いい男を紹介してよ」

「アンジイ、アメデオでりたはずだよ。君はぼくの忠告を聞かないからなあ」

「よけいなお世話!」


 彼女たちはひとしきりロジエをもみくちゃにしたあと、パンケーキに卵にベーコンといった食事にありついていく。

 そのかたわら、みんながロジエの話を聞きたがった。

 ただ、その内容は、かならず一点に集中する。つまり。


「いまいちばん金まわりのいい冒険者は誰なの?」


 ということである。


「う~ん、そうだなあ……金板のみんなはそこそこ稼いでるみたいだけど。あ、そうだ。誰かルビノ君を捕まえてみる気はない? 近いうちに出世するよ」


 あられもない格好をした女たちは顔を見合わせて、声を揃えた。


「コブつきはちょっと、ねえ」


 ロジエは自分も女たちの間にまじって席につき、コブはルビノ君のほうだ、という言葉のかわりにパンケーキの切れ端を口にねじこんだ。

 女たちはやかましいおしゃべりを再開する。


「だれか! そこのシロップ取ってよ」

「あの……ちょっと、ロジエさん!」

「あんた、それくらい自分でやりなよ。腕まわりがブタみたいよ」

「ロジエ……さん!」

「ブタの脚のほうが細いわよシェリー!」

「なんですって!」

「ロジエさんッ!!」


 くだらないことで喧嘩をはじめようとしている女たちの乳房の下で、握り拳がふたつ、卓上を激しく叩いた。

 薄着の女たちにまじって恨めしげにロジエを睨む、あまり色気のない娘がいた。





「普通、女連れで娼館なんかに泊まります!? 信っじられない! 失礼すぎる!」


 生物学者のミリヤ・フロウは冒険者の街、オリヴィニスの街路を肩で風を切りながら一心不乱いっしんふらんに進んでいく。それは怒っているようでもあり、何かを忘れようとしているしぐさにも見える。

 その後ろを二人分の荷物を抱えてついていくロジエは、のんびりとした足取りで、時折、街を歩く見知った人物に手を振ってみせたりしている。


「ずいぶん語弊ごへいがある言い方だなあ。それにお金がない客を泊めてくれる宿なんかありませんよ。お仕事をするかわりにただで泊めてくれたんですから、感謝しましょう」

「お金がないって……貴方、ギルド長の孫でしょう!?」

「えっへっへっへ、おじいさまからちょろまかしたお小遣いと、それからミグラテール大を退学して払い戻してもらった学費と、身のまわりの品を売り払って、あとそれからミリヤさんから交通費名目でお預かりしたスズメの涙のようにわびしいお金なら、もう無いんです。全部、師匠連の皆さんへの根回しで使っちゃいました~」

「はあ!? もう使った!? あと退学したの!?」

「どうしても先立つものが必要だったんでして」

「あ…………あなた、それで笑ってられるの、どうかしてると思う…………」


 ミリヤは振り返った姿勢のまま、呆然として呟いた。

 ミグラテールの年間の学費が庶民の感覚からすれば天文学的な数字になることを知っている彼女は、交通費を使いこまれたことも責められないでいた。

 ふたりは新しい職能ギルドを作るためにオリヴィニスに来ていた。

 ロジエにとっては里帰りのようなものだ。

 ただ、交渉は上手くいかず、師匠連は昨日の会合で結論を出さなかった。

 遠回しに拒否されたのだ。


「皆さん、街のことにはあんまり関心がないからなあ。メルメル師匠の留守中、というのが痛かったですねえ」


 ロジエはのんびりひとり反省会などをしているが、ふたりはほぼ無一文である。

 大学を退学したことを報告していないので、マジョアを頼ることもできない。


「でも、社会勉強になったでしょう?」


 ミリヤは昨晩の大騒ぎを思い出し、オレンジの強い茶の瞳に羞恥しゅうちをにじませる。


「……ならない!」

「女冒険者むけの、男娼がいる店もありますよ」

「それだけは絶対にやめて! もうお嫁に行けない~!」

「落ち着いてください、ミリヤさん。どっちでもやってることは変わりませんよ」

「何を言っているんだおまえは! 平然として!」


 とはいえ、ミリヤもまた、このままひとりクロヌに戻ることもできない。

 つい先ごろ、斑猫の研究成果を世に発表したはいいものの、どちらかというと冒険小説的な受け止められ方をしてしまい、研究者仲間から無視されている彼女である。

 ロジエから《飼育者《テイマー》として来てくれたら、珍しい動物を観察して、成果を自分のものにしてもいい》と説得され、一年発起してオリヴィニスを目指したのだ。手ぶらでは戻れない。


「そもそも貴方が絶対に大丈夫っていうからここまで来たんだからね!」

「そうですね。次の手は考えてありますよ」


 ロジエはにこにこ顔で応じる。


「と、いうと?」

「冒険者ギルド公認、という目標は後回しにすればいいのです。つまり私たちが自力で飼育舎を建設し、資金を集め、非公認ギルドとして活動する。それが軌道に乗り始めれば、彼らも無視はできなくなるでしょう」


 ただでさえ青年の荒唐無稽こうとうむけいさに呆れているミリヤは、さらに輪をかけて愕然がくぜんとした。

 目の前でにこにこしているのは、明日泊まるところどころか、着るシャツの一枚もない無一文の青年なのである。


「とりあえず、用地だけは確保してありますので、がんばりましょう。えい、えい、お~」


 青年は呆然としているミリヤを置いてすたすたと歩いて行ってしまう。

 このとき、ミリヤははじめて、自分が都合よく使われているか、それとも口の上手い詐欺師にだまされているのではないか、という可能性に思い至ったのである。

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